第一章 始まりの幻想
――ああ、今夢を見ている……。
あの日、俺達はいつものように夏の陽射しの中にいた。
「重いですよ。一つぐらい持ってください」
「五月蝿い! 荷物持ちの従者は、黙って付いて来ればいいの」
「従者って……はぁ」
高飛車な彼女の横を、たくさんの荷物を抱えた俺が歩いている。口を尖らせて扱いの不平を呟いているが、頬はいつも緩んでいる。
俺は知っていた。
彼女がわがままを言うのは、俺にだけであることを、そして、目元にいつも笑みが溢れていることを。
「男が下を向かない」
ガツン、彼女は俺の頭を手馴れた手つきで殴る。無意識に殴られ易いように、頭を下げているのが、我ながら悲しい。
「ああ……サリヴァン教授の講演、聞きたかったな……」
冗談半分で不満を呟く。講義なんかよりも彼女と一緒にいる方が、何倍も楽しいに決まっている。
「アンタ、それでも北陵流の剣士? 政治学の講義なんて聞きたいなら、南陵流に行けばよかったじゃない」
得意のすねた言い方である。
「その筈だったのに、拉致したのは誰でしたっけ?」
「はあ? 拉致だーぁ? アンタが勝手に付いてきたんでしょうが」
「ああ……あの時のワ服姿可愛かったな。ねえ、また三つ編みにしてよ」
「五月蝿い!!」
俺が覗き込むと、彼女は、少しはにかんでいる。俺の至福の瞬間だ。
「あれ? あれは……」
「やあ、シン。それに沙月さん」
向こうから、『ラグナ・ロックハート』が歩いて来る。相変わらず、さわやか好青年である。彼の事を世間は、雲中白鶴いや白鳳(南陵白鳳流の剣士だから)と呼び、品性の優れた高潔な人物だと称えている。親友として全く同意である。
「ああ、いい所であった。頼む席確保していてくれ」
「遅れるのか?」
「うん、沙月お嬢さんのあいさつ回りに付き合わなくちゃならないからね」
「分かった。じゃ講演会場で」
彼女に丁重に挨拶すると、ラグナは去って行く。彼女は、いつものように瞳を輝かせて、両手を胸の前に組んで見送る。
「ああ……ラグナ様かっこいい!!」
その後で必ず、きつい目を俺に向ける。
「何でアンタなんかと、あのラグナ様が友達なんだか。世界の七不思議だわ」
「すっごい言われようですね、僕」
「当たり前でしょ。ラグナ様と言えば、あのワイルドな『リュック・クレマン』様とモデルのようなスタイルの『ジャン・トレトン』様と並んで、『エッダの三剣士』と言われているんだから」
「それ普通、僕を加えて、四剣士と言うんだけどね」
「一々、五月蝿いわね!」
いつものように俺の足を蹴る。
「アンタなんか、認められているわけないでしょう!」
そう言って、さっさと歩き出す。紫の紐で結ばれている彼女の髪が、ゆっくりと揺れている。
「ほら、早く来なさい。おいてくわよ」
少し離れると、振り返り、最高の笑顔を俺に向ける。夢と分かっているが、なんて幸せな日々だろうか。夢よ、覚めないでくれ。いつまでもいつまでも……。
ああ……目が覚める、覚めていく……。
「……い……いた……痛っ……痛い!」
顔を不意の強い衝撃が襲った。重たい瞼を嫌々上げると、爪で顔を引っ掻く愛猫の姿があった。
「グレイ、お前か……俺の邪魔ばかりしやがって……」
ぐるる、と鳴く無垢な瞳に、怒るにおこれず、渋い顔をしながらも頭を撫でてやる。
「……はいはい、分かりました。エサですね」
起き上がると、素っ裸である。まずは床を見渡して、落ちているパンツを拾う。歩きながら器用に穿き、キッチンで何度も欠伸をしながら猫にえさを与える。
「ああ……痛い……」
顔の切り傷をさする。
――また同じ夢見てしまったぁ……。
猫の食事を、膝を抱えて見ていると、胸を言い様のない不快感が締め付けてくる。思わず心臓の上に手を当てる。このまま握りつぶせるなら、どんなに楽であろうか。
猫がエサを食べ終わり、口元を一舐めすると、先ほどとは打って変わって、冷たい態度で去っていく。
「おいおい」
額を掻きながら、不承不承に立ち上がり、シャワールールへと向かった。
「ひっでえ顔だな」
鏡に写った自分の顔を見る。青白くこけた頬、斑な無精髭、酒の残った赤い眼、ボサボサの髪の毛、挙げたら切がない。
あまりのだらしなさに思わず苦笑いする。
だが、酒の影響を除けば、眼光の鋭い黒い瞳、すっきりと伸びた鼻筋、薄い唇に白い歯とまともな容姿である。
頭から水をかぶる。
鋼のような強靭な体を水が流れ落ちていく。上背はさほどではないが、たくましい骨格とそれを覆うしなやかな筋肉を持ち、見る者を魅了するほどに鍛え抜かれている。
彼は、『シン・ハルバルズ』という。 白いガウンを纏い、頭をバスタオルで拭きながら、バスルームからダイニングへと移動する。部屋の真中に置かれたテーブルに目を向けると、そこにパンとスープとそれにメモが置かれていた。
『酒は捨てました。朝食をどうぞ』
ふぅーと溜め息をつきながら、椅子に腰を下ろす。パンを見たが、食欲がわかない。
その時、玄関のドアが勢いよく開いた。
「よっ、呑気にメシなんか食いやがって」
見るからにガサツな男が入ってくる。
「朝から、しけた顔見せやがって……朝食が不味くなる」
逃げるように目を閉じて、椅子にもたれかかる。
「朝食だぁ~? もう昼だぞ」
「……道理で暑いと思った」
「これだから、ヒモは御気楽でいいね」
「何のようだ? わざわざ嫌味言いにきたのか、シャーク」
「仕事だ」
これまでとは打って変わって、きっぱりと告げる。
この男は、シャークと呼ばれている。もちろん本名ではない。本名など、ここでは、何の意味も持たない。
シャークは、2メートル近い巨漢で、丸刈りの頭にバンダナを巻いている。顔はごつごつと彫が深く、短い髭で顔の下半分を覆っている。しかし、この悪人顔とは裏腹に、青い目は鎮まり、知性と教養を感じさせた。
「2万Cz……道案内だけでか?」
シャークは、向かいの椅子に腰掛けると、テーブルに紙を放り出す。パンをかじりながら、その紙にざっと目を通す。
「それは前金、成功後には5倍払うそうだ」
「コイツ、ここの相場知っているのか? 人の命なんてせいぜい2000Czだぜ。なんか怪しくないか?」
二人はチームを組んで仕事をしている。仕事は古代遺跡などに入って、魔法アイテムなどを持ち帰る事。
彼らのような者達をハンターと呼ぶ。ハンターは、ウェーデル山脈のデスティアという街をベースキャンプとして使っている。ここで休息と装備を整え、遺跡に挑むのだ。
二人がいるのは、そのデスティアから北にさらに登った小さな村で、『ミーナ村』と言う。
ミーナとは、ミーナ・オダインという医師が診療所を開いた事に由来する。空気と水がよく、多くの患者で繁盛して、その門前に小さな村ができた。
シンがこの村に流れ着いたのは、一年半ほど前。地下迷宮で大怪我して、ここに担ぎこまれた。そして、そのまま居着いてしまった。
「……なんか役人臭いな」
「分かるか、軍人だそうだ」
「止めた」
「まぁそう言わず」
「嫌だ。軍とか政府とかが嫌いだから、ここに居るんだ。金輪際お断りだ!」
激しい口調で拒絶すると、椅子を蹴り倒して、立ち上がる。
「ブルース・アッシュブラウン。それが雇い主の名だ」
シャークの声に、思わず、動きが急停止した。
「……随分――」
思考が現実を離れて、遥か昔に飛んだ。ほんの刹那に、無数の記憶のページをめくる。
「懐かしい名前だな……」
ようやく言葉を吐き出した。苦い思いが胸を埋めたが、一度声に出してしまうと、不思議と楽な気分になっていく。
脚を使って、ひっくり返っている椅子を元に戻す。立っているのが、だるい。
「お前の知り合いだそうじゃないか。随分世話をしたと言っていたぜ?」
にやにやと興味本位で、質す。
「……世話ねぇ――」
椅子に坐り直して、行儀悪く脚を組み、肘掛けに頬杖をつく。こんな格好をする自分を彼は知るまい、とぼんやりと考えて苦笑していた。
「まぁ、キープにしたボトルに他人の酒を継ぎ足す事を教えるのが世話と言うなら、そうなるだろうな。ただの同郷の先輩だ」
「じゃ、いいんだな」
「ああ、腐れ縁だ。仕方がない」
ブルースの名前を聞いてから、良くも悪くも、心がざわめいている。久しい感覚に、とにかく動いてみることに決めた。
「そんで、俺達は何処に道案内すればいいんだ?」
「アッザク砦を知っているな?」
「ああ、ビルンタール王国に対するサリス軍の最前線基地だろ」
「そうだ。ここからは、極秘情報なんだが――」
サリス帝国は、帝都セリアを中心にエリーシア中原を支配する統一国家である。
ビルンタール王国は、ウェーデル山脈最大の谷ビルンタール渓谷に拠点を置く、独立勢力である。サリス帝国によって、首都アルテブルグが陥落した際、ビルンタール渓谷に逃げ込んだ旧アルティガルド王国の人々によって建てられた。
この二国を比較すれば、象と蟻ほどの違いがある。だが、地形を巧みに利用し、渓谷の入り口に長城を築いて、サリス軍の侵攻を長く防いでいる。尤も、戦いが膠着している一番の理由は、サリス側の積極性の欠如であろう。「アッザク砦への補給路は、ドワーフの居住地の近くを通る。今まではドワーフの橋をその際利用していたが、そのドワーフへの付け届けを怠ったせいで、怒らせてしまったらしい」
シャークは、パンを勝手にかじりながら説明する。こういう長い解説を苦にしない。元々から交渉能力は高いようで、なぜここに流れてきたのか不思議である。尤もそれを尋ねることは永遠にないだろう。
「そして、ドッカーン、橋はあえなく粉々に。補給を絶たれたアッザク砦は今や風前の灯、という訳だ。そこで、ビルンタール勢力圏の山道を通って緊急補給を行う事になったそうだ」
「なるほど。それで付け届けって?」
「ロミレンエール」
「それはまた最高級品じゃないか」
その味を思い出して、思わず、唾液が口の中に溢れた。
「そうらしいな、俺は知らんが……」
不貞腐れたように言う。
「ついでに説明すると、ロミレンは日照りで凶作だったらしい」
「ドワーフに酒の言い訳は通用しないか?」
「そう言うことだ」
二人はしばし笑い合う。笑いながら、頭は、素早く次の行動を考えている。
「さてと!」
ぽんと膝を叩くと、心地よい音が鳴った。次に、立ち上がり、そして、ぐっと手を上げて、背筋を伸ばす。背骨がボキボキとなった。
もう陽が西に少し傾き始めている。色彩の乏しい山村が、うっすらと暖色に染まっていく。
仕事着である迷彩服姿に着替えて、診療所の裏口へ向かう。診察室には、白衣の女性が一人でいた。後ろで結い上げた黒髪が白衣によく映えていた。
彼女は、丸いメガネをかけて、熱心にカルテを読んでいる。その背に、いきなり抱きつく。
「動くな!」
極端に低い声で、脅す。
「もお~」
カルテを見たまま、後ろを確認せず、彼女は口を尖らせる。そして、不満の声を長くもらした。
「お仕事できないでしょ?」
「ごめんよ、あんまり美しかったから」
「ふふふ、もぉ」
ふくれ面が、ふいに崩れて、うれしそうに目を輝かせる。
「ドクターは?」
「お母さんなら往診中よ」
「それじゃ、二人きりだね」
白衣の上から胸を揉み、耳を舐める。
「もうー、ダメだって、仕事中……」
腕の中で、彼女は身体をよじる。言葉とは裏腹に、抵抗とは程遠い。自分の意志で、さらに深く腕の中に包まれて、かつ、目を閉じてうっとりした表情を浮かべている。
「あ、お酒の匂いがしない……」
「うん、仕事が入った。2、3日出かけて来るよ」
「そう」
「寂しい?」
「そうーねー、どうかしら」
彼女は、自分から眼鏡を外すと、腕をまわして顔を抱いてくる。そして、首を捻り、顎を上げて、唇を重ねる。
「あッ……」
胸元に手を差し込み、乳ぶさを直接触ると
彼女は甘い吐息を吐いた。もう胸の先端は固くなっている。
キ、キーン!
その時、外で、自転車のブレーキの音がした。
「ドクターが帰ってきたみたいだね。そろそろ行くよ」
さっと体を離すと、勝手口へ、脱兎のごとく駆ける。
「もうー勝手なんだから……」
残された彼女の名残惜しそうな声が背に届く。手を振りながら、勝手口のドアを静かに閉めていると、母子の会話が聞こえてきた。
「……カルテの整理は終わったのかい?」
覗き見ると、白衣に首から聴診器を下げた母親が、診療室に入ってくるところだった。
「うん、すぐ済む」
慌てて、彼女は、服と髪の乱れを整えて、落ちていたカルテを拾う。
「……あの男は止めとけと言っただろ」
「え?」
母親は、背を向けたまま語りかける。
「あいつは、たぶん『エッダの森』の出身だね。正統な学問、剣術を修めている」
「そうでしょうね」
思わず、ぱっと彼女の表情が晴れた。自分のことのように嬉しそうだ。
「やっぱり。何処かその辺の田舎者とは違うのよね」
目の周りを薄赤く染めている。
「でもね、分かるんだ。あの男は、大事な何かを何処かに置き忘れているんだよ。いつかそれを取り戻しに帰るだろうよ。ここに居続ける男じゃない」
「そんなこと……」
彼女は反論しかけて、顔をそっと伏せた。
視線がこちらに向きそうな気配を感じて、慌ててドアを閉めた。
「……」
そして、無言でその場を離れる。
宵の口に、街道の辻で、シャークと合流する。そこにはすでに、ブルースもいた。
「よ、久しぶりだな」
「先輩も元気そうで」
ブルースは笑って、肩を気さくにたたく。
「先輩、順調に出世の様子で」
「バカ言え! ようやく軍曹だ。これからだよ、これから」
しばらく、再会を喜び合う。
思ったほどの感慨はなかった。やはり自分の人生には、ある一点において深い断裂がある。その以前の記憶など、もはや無味乾燥でしかない。
そのブルースの背後の闇の中に、補給部隊が潜んでいる。数は30人前後で、『木牛』という一輪車を装備していた。これで、人一人しか通れないような、険しい山道を越えようと云うのだ。
そこへ、指揮官らしい人物が、暗闇の向こうから浮かび上がった。
赤い髪のボブカットの上に、ベレー帽をかぶっている。洗練された顔立ちを、軍人らしく凛々しく引き締めている。並みの男なら、その視線だけで、金玉が縮み上がることだろう。
金に縁どられた藍色のジャケットを着て、動きやすい黒いタイツを穿き、戦闘的なロングブーツを履いている。その上に、銀色の胸当て、肘当て、肩当て、そして、脛当てを装備している。首には赤いスカーフを巻き、腰には、革のベルトを締めて細身の剣を下げている。
左襟に真新しい中尉の階級章、左胸に補給兵科章、そして、左上腕部に部隊オリジナルのワッペンを付けている。正規のサリス軍のもので間違いない。
「中尉、道案内役です」
ブルースが簡単に紹介する。
「ご苦労。アイラ・ルグランジェ中尉だ。迅速で正確な案内を、……た…た、頼む…ぅ…」
アイラは、手を差し出しかけて、突然、言葉を乱した。そして、明らかに、瞳の奥に狼狽の色が滲ませて、ベレー帽の上から頭を掻いた。
「しっかり働いてもらうぞ」
しかし、それも一瞬だけで、すぐに態度を軍人らしい規律あるものに改める。
「よし、行くぞ!」
そして、舌鋒鋭く部下たちに、出発を告げる。
補給部隊は月明かりの中、敵の勢力圏内を進む。先頭はシャークが務めている。
最後尾で、隊列から遅れそうになる2等兵を叱咤激励しながら、隙を見て雑談する。
「そうか、あの中尉殿は、軍令部長の娘なのか」
「クールで毅然としていて、男など興味もない、という態度がいいよね」
まだ幼い雰囲気の2等兵は、顔をくしゃくしゃにして微笑む。
「美人だからね」
率直な感想を述べた。事実ここら辺にはいない洗練された美しさがある。
「一度は、あの鼻っ柱を折ってみたいが、まぁ俺達には高嶺の花だね」
彼のリュックサックを代わりに背負ってやってから、口も、ずいぶん滑らかになっている。
その時、不意にアイラが振り返る。
「ひぃ……」
横で二等兵の背筋が伸びて、頭の天辺から頓狂な声を上げた。
「……」
刹那、眼と眼が合う。次の瞬間、アイラは、弾かれたように前を向いた。
部隊は慎重に行軍して、ついに、峠を越える。足下に、目的地のアッザク砦が見えている。
「あとは下るだけだ」
「ああ……ぐがっ!」
二等兵を励ました時、暗闇から、無数の矢が襲ってきた。あっという間に、サリス兵が次々と射抜かれて倒れていく。
――所詮、生と死は紙一重か……。
倒れた二等兵を、冷淡に見下ろしながら思う。あの状況で、矢が当たるかどうかは運次第だった。
「鼠め!」
矢の雨が止むと、武装した男たちが現れて、憎しみのこもった声を発する。
「その汚らわしい足で、こそこそと我が国土を侵すとは、万死に値する」
人数は10人ほどだが、どれも雑兵などでなく、その足運び一つで、熟練の戦士だと分かる。
「……レオポルト・フォン・ルーテル!」
アイラは、先頭の男を見ながら、驚愕の声で、その名を告げた。
「ほお、あれが?」
アイラの声に、思わず、声を出している。
ルーテルは、南陵紫龍流の達人で、ビルンタール最高の剣士として、サリス軍にも恐れられている。
そのルーテルが剣を抜いて、鬼のような形相で前進してくる。
途端に、サリス軍兵士たちは、パニックに陥った。
「中尉、脱出を」
それでも、アイラの護衛役の兵が5人、まるで盾になるようにアイラの前に進み出て、ルーテルに挑んでいく。
「無駄なことを……」
再び、呟く。
そして、眼前では、その兵士たちが、ルーテルの流れるような剣捌きで、あっさりと返り討ちにされている。格が違い過ぎた。
「……強い!」
アイラは剣の柄を握った。しかし、抜くことができずにじりじりと後ずさりする。
その震える手を、そっと触れる。
アイラは、驚いたように顔を上げる。その少女のように怯えた美しい顔を横目でちらりと見て、微かにほほ笑みかけた。
「俺がやろう」
そう告げて、一歩、二歩と前へ出た。
「ほお、小僧一人でいいのか?」
ルーテルは、挑発するように笑う。
「美女の前でにやけるな、ジジイ」
「小僧ッ!」
言い返されて、目を剥く。そして、血塗られた大剣を大上段に構える。まさに鬼神のような迫力である。
そこへ、まっすぐに進む。
右足を一歩踏み出すと刀の柄に手をやり、左足を前に出すと同時に抜く。そして、三歩目に刀を顔の横に立てて、四歩目で左手を刀に添えた。
「きぃええええ!」
それから、躊躇なく、奇声とともに打ち込む。
「未熟め、間合いが遠いは!」
ルーテルが嘲るように叫ぶ。だが直後、ルーテルの目に驚愕の色が浮かんだ。まるで信じられないという風に瞳が揺らぐ。
「ば、ばかなっ……」
刹那に、必殺の間合いに詰め寄る。防御も相打ちも、もはや間に合わないだろう。そして、紫電一閃。刀の冷たい煌めきを、彼の胸の前で放つ。
「……おれが、斬られただと……」
鋭い斬撃で、屈強な肉体を袈裟切りにする。
「何者だ、……貴様?」
ルーテルは、噴水のように胸から血を噴き出す。そして、この状況が信じられないと言う風な顔をして、地に崩れ落ちていく。
「この俺が…こんな所で死ぬとは……だが…我が無念は、我が一族が、はらしてくれよう……地獄で待っているぞ」
不敵な笑いを残して、息絶えた。
「強い……」
「全く、すげえや」
「え?」
背後の会話が聞こえた。
振り返ると、小さな岩の影からシャークが出てきた。どうやったら、その巨体を隠せたのか疑問に思える。
「ヤバイ刃だろ?」
「ええ……」
「あいつは、人を殺す時に、何の躊躇いもないぜ」
シャークは、頭にかぶった砂を落としながら、何やら偉そうに囁いている。まるで口説いているようである。
「ええ」
アイラはまだ呆然としている。今にも連れ去られそうだった。
「決して折れない刀があれば、あいつは、この世界の人間をすべて殺すだろうよ」
「……ええ」
これが限界だった。
「おい、聞こえているぞ!」
声を荒げる。他人は勝手なことばかり言う。
背後の仲間に怒鳴ったのだが、眼前のビルンタール兵が、腰を抜かしている。
「先生……」
剣豪を一撃で倒されたのだから無理もない。しかし、勇者というものはいるもので、一人が、果敢に、剣を抜いて前に進もうとする。
その瞬間、目と目が合う。以心伝心、忽ち、体を真っ二つに切り裂く、さかれる、映像を二人は共有する。
「ひぃ!」
勇者は、剣を落として、尻もちをついた。それを合図に、一人、また一人と逃げ出し始める。
「ちぃ」
刀を肩に担いで、小さく舌打ちをした。心に不完全燃焼のようなものがある。
この男たちを殺せても何の意味もない。どんなに研ぎ澄ませた刀があろうとも、どんな鍛え抜かれた技があろうとも、刃が届かなければ意味がないのだ。
――たった一太刀届けば……。
歯を強く噛み締め、道端に、血塗られた刀を投げ捨てる。
アッザク砦の地下、遺体安置所で、ブルースの亡骸に一輪の花を添えた。
鉄の扉を閉めて、手すりもない螺旋階段を上っていくと、壁にかかった小さなランプの下に、アイラが立っていた。
壁に寄り掛かり、腕を組んで、片足を曲げている。本当に、絵になる女である。
「このままじゃ帰れないの」
すれ違いざまに、そう呟く。
「敵将の首があるだろ?」
振り返られず、平坦な声で答える。
「私の任務は、補給路の確保なの――」
アイラは前髪を掻き上げた。
「この山脈には、地下迷宮があるそうね?」
その言葉の意味する、あまりの無謀さに、思わず足を止めた。
「無理だ」
振り返ると、アイラの強い視線が、瞳の奥まで射抜く。
「無理だと報告できれば、マイナスじゃない」
しばらく、お互いの瞳の中を探り合ったが、ふいに、アイラは視線を落とした。
「とにかくこのままじゃ帰れない!」
何か嘘を付いているのは分かる。
「悪いが、俺の仕事は終わった」
踵を返して、歩き始める。これ以上、関わるのは得策ではない、と心の裏側から警鐘が聞こえている。
「10倍出すわ」
背中を向けたまま、一段上がる。
「20倍、いえ、100倍なら、どう?」
「悪いが……」
背後に手を振り、もう一段上がる。
「あなた達は、金が目的でここにいるんでしょ?」
アイラが叫ぶ。その声が砦の地下に大きく響き渡った。
「それとも、他に目的があるの?」
その瞬間、肩越しに、彼女を睨んでいた。
アイラは澄ました顔で、そっと髪を耳にかける。綺麗な花には棘がある、という言葉が脳裏を過る。
「報告書に書くことになるけど……よくて?」
「……」
「神威帝以来の名門ルグランジェ家を甘く見ないで!」
もう一度、アイラが叫ぶ。
永遠に続く闇の中、ぽっかりと淡く丸い灯りがゆっくりと移動している。
壁に手を添えて、足元を照らすと底の見えない深い裂け目がある。踏み外せば、命は助からない。慎重に、足場を確認して進む。
「きゃあ」
アイラの悲鳴がした。ブーツの金属製のスパイクが脆い床石を僅かに砕いてしまった。そのほんの数ミリの落下が、小さなパニックを引き起こす。
「止せ!」
アイラの腕を掴む。
「いや!」
咄嗟に目を上げたが、その直後に、まるで逃げるように腕を引く。
「落ち着け!」
松明を投げ捨てて、暴れるアイラを抱き寄せて壁に押し付ける。
闇の中で、二人の呼吸音だけが聞こえている。腕の中で、次第にアイラは静かになった。
「大丈夫?」
「……あり、感謝する」
アイラは短く答えて、唇をかんだ。
剣やリュックサックなどアイラの荷物を持つと、闇の中を再び歩き出した。
しばらくして、壁に張り付いて、小さな木造の小屋を見つける。その様式から、昔酒樽を保存するために、ドワーフが造ったものだと分かる。
そこで休息を取ることにする。
「ご覧の通り、軍の移動にはむかん。あんたのお偉いさんたちも、とっくに、きっと知っているよ」
「そう……かもね。でも、取り敢えず、サリス領まで抜ける。資料にはなるから」
「はいはい」
「……」
アイラは疲れていたのだろう。
「きゃあ」
小さな樽に腰掛けようとするが、簡単に砕けてしまい、後ろに倒れる。
「ひぃ……!」
さらに、尻もちついた床が抜けて階下へ落ちてしまった。幸い、下に藁が敷いてあったので助かった。
「すぐに助けてやる」
穴の上から半笑いで覗く。
「結構!」
アイラは、険しい声で断る。
「あははは」
思わず声を上げて笑った。
「うん?」
どれくらい時間が過ぎただろうか、がさがさという物音で、目を覚ます。
境界線にしたシーツの向う側で、アイラが、ごそごと不審な物音を立てている。
「どうした?」
「……」
声をかけても返事がない。蝋燭に火を灯すと、アイラは、黒いタイツの上から、股間を掻き毟っている。
「……かっ…痒い」
今にも泣き出しそうな声である。
「……あ…ぁぁ」
「止めろ!」
素早くシーツを潜って、その手を掴んだ。
「離して……痒いの、掻かせて!」
アイラは髪を振り乱しながら、手足をばたつかせる。
「これは……虫にやられたか?」
その手に赤い斑点があることに気付いて、眉間を険しく寄せた。
「さっきの藁か?」
「痒いーーーっ」
「ダメだ、掻くな!」
アイラの手足を縄で縛る。そして、床に短刀を突き刺すと、アイラを大の字に貼り付けた。
「掻いてッ! 掻かせてッ!!」
アイラは、狂わんばかりに暴れだす。
それを押さえ付けながら、タイツを一気に引き裂いた。
「はっ! な、何をッ!!」
「うるさい、黙っていろ」
必死に太腿を寄せようとするが、拘束した縄がそれを許さない。
「見るな……見るな、見ないでくれ……」
声に以前の威勢がない。顔を左右に振りながら、少女のような泣き声で懇願する。
「やっぱり虫だ」
髪と同じ赤い色の淡い茂みの中に、湿疹を発見する。
「何よ、それ?」
「よくある。ここに来た人間への洗礼だと思え」
「ど、どうして……私だけ、こんなことに……」
「お前、汗の量が半端ないな?」
「……な、な、何を言っている!」
アイラは、まるで火を噴くように顔を真っ赤にした。そして、噛み付きそうな勢いで、否定する。
「これは剃るしかない」
「な、な、な、何を言っている」
無情な診断を下すと、今度は、消え入りそうな震える声で拒絶する。そして、全身から大量の汗を吹き出した。
「ほら、また汗だ。これは急がないと」
「やめろぉ……」
狼狽するアイラに構わず、荷物から石鹸と剃刀を取り出して、刃を白い肌に当てる。
「冗談は止めろ。いい加減にしろ、この変態!」
すでに大玉の汗が、火照った肌を流れている。この瞬間にも、痒みは増しているはずだ。
「…か…痒い……」
「ほら、みてみろ」
そう言うと、ジョリジョリと剃り始める。
「く、屈辱だ……」
頬を滝のように涙が落ちていく。
剃り終わると、汗を拭き、薬を塗ってやったが、症状がすぐに改善するわけではない。
「ア……あそこが…痒い…」
アイラは悶え続ける。
「掻いて、掻き回して、女の私が、いいって言っているのよ、早く」
慎みを失って、狂気の瞳をぐらつかせて哀願する。
「バカか、俺にうつるだろ。静かにしろよ」
冷たく突き放す。
「ねえ、お願い。ほんとに、気が狂っちゃうの……ううっ」
声が艶かしいものになっていく。
「……」
それでも無視されると、今度は罵声を浴びせる。
「それでも、あなた、男? あたしみたいな美人の裸見ても何とも思わないの? インポでしょ!!」
そして、再び哀願する。
「どうにか……どうにかしてよ…お願いします……ううぅ」
何度も何度も繰り返すこと小一時間。ようやく、静かになった。今では虚ろな瞳で、糸の切れた人形のように、ただぐったりとしている。
起き上がると、用意していた盥を運んでくる。そして、縄を解き、その盥の中に下ろした。
「心配するな、水は一度沸騰させている」
汗で濡れた身体を清潔なタオルで洗う。
「……」
全く無抵抗である。タオルが胸に当たっても全く反応がない。
「胸ぐらい隠したらどうだ?」
「……もう何も隠す事はない」
深い海の底に沈んだような声で答える。
「……あなた、『シン・ハルバルズ』よね?」
「苗字は忘れた。ここではそれでいい」
即座に否定したが、彼女は聞いていない。
「初め見た時、そうじゃないか、と思っていたけど、あの闘いで、はっきりしたわ。あなたは『エッダの四剣士』の一人、『北陵冥刀流』の『シン・ハルバルズ』よ」
「……」
「あたしずっと見ていたの。剣術大会は、すべて付いて回ったし、当然、全試合観戦したわ。あたしのこと、見たことあるでしょ?」
「全然」
「……やっぱり、ね」
アイラは恥ずかしそうに苦笑する。
「たくさんいたからなぁ。みんな、勝つ時は、どんな強い相手でも一撃で圧倒するあなたの戦い方に夢中だったわ」
「そうかな」
手を止めず、淡々と作業を続ける。
「ふふ、でも、負ける時は酷かった。まるで素人のように受けが苦手で、そして、あっさり諦めちゃうの」
「あの頃の俺は前しか見ていなかったから」
全てを曝け出した、曝け出させたアイラに接して、まるで吊られるように、素直に心の扉を開いていく。
「『ソロモン・ディアス子爵』に『北陵冥刀流』が乗っ取られた時、あたしもショックだった。そして、その後あなたが消えた時には、一か月は泣き続けたわ……」
不快な名前の響きに、手からタオルが落ちる。
シンが剣術を学んだ北陵冥刀流は、北陵流にワ国の刀を取り入れた流派である。その開祖佐々木剛三の後継者、佐々木十三はエッダの森の北東に道場を開き、そこの一番弟子がシンだった。
『エッダの森』とは、アレクサンドル3世の離宮跡地に、『レヴィ=ディーン家』当主『ユリウス1世』が、南陵流宗家本部をおいた事が始まりである。
その後、その門前に南陵流各派が道場を開くようになり、エッダの森を取り囲むように多数の道場が並ぶ剣術道場街が形成されていく。
また、その門人を相手にする学問塾もできはじめ、学問塾のために本屋なども多数開業した。
こうして、次第に文武の私塾が集まり、いつしかその聖地となる。そして、同業組合が自然発生的に生まれ、それらが自治を主張して、『エッダ自由学術区』と呼ばれるようになった。
通称『エッダの森』は、身分、出身地域に拘らない、平等で自由という習慣が根付いている。独立独歩の気運が高く、政治に対しても、声高に批判する事が度々あった。
『エッダの森』で学んだ者の多くは、出身地に戻り官吏や主家に使えた。一方、成績優秀者の中には、セリアにある三つの国立大学、通称『サリス三学』に進学する者もいた。
『三学』とは、皇族貴族のための『帝学』、軍事教育のための『武学』、文官を養成するための『太学』である。
一般的に、
『帝学』は、地方領主の教育機関。
『武学』は、帝国軍の幹部候補育成機関。
そして、『太学』は、官僚の養成機関。これが一般的な認識である。
剣術家は『武学』に進み軍人となり、学者は『太学』に進んだ。
話を戻す。
シンの師匠である佐々木十三には、源三という嗣子と『沙月』という娘がいた。
源三は真面目に剣の修行に打ち込み、また、気さくな性格で、道場の後継者として申し分ないと思われていた。しかし、能天気で調子にのりやすい面もあって、ついつい後先も考えず行動してしまう癖が仇となる。これには、源三を育んだ、エッダの森の自由と平等も、災いとなったのだろう。
今から3年前の深夜、セリアの歓楽街で、源三は、一人酔って歩いていた。すると向こうから見知った貴族の子息が歩いてくる。肩がぶつかる。彼は真面目だが、からかわれ易い性格であったという。
この際、源三は悪ふざけで、彼の短刀を鞘から抜き取る。彼はそれに気付かず帰宅すると、父親がそれに気付き、「武門の恥」と激昂した。
後に源三は詫びを入れるが、聞き入れられず、二人は果たし合いを行う事となった。結果、源三は彼を討ち果たすが、その後、自害を周囲から強要された。
二人の死で、事件は終わるかと思われたが、今度は彼の主家『オルテガ=ディーン家』の親族筋である『ソロモン・ディアス』が、横槍を入れてくる。
『オルテガ=ディーン家』は、神威帝と旧アーカス王女の子レアル1世(第2皇子)から始める。
レアル1世、その子レアル2世と2代にわたり宰相を務めている。
かつ、アーカス王家とカイマルク王家に養子を出して、強力な絆を築いている。このため、時には、サリス皇帝以上の権力をもつと言われる事もある。名門中の名門である。
その『オルテガ=ディーン家』のライバルが、『スピノザ=ディーン家』と『レヴィ=ディーン家』である。
『スピノザ=ディーン家』は東の湖と西の海を繋ぐ大運河を支配し、経済界に強い影響力をもつ。神威帝とミカエラの娘フェリシア(第二皇女)を始まりとして、その子フェリックス1世と孫のフェッリックス2世と続いている。
『レヴィ=ディーン家』は、始まりは神威帝とアフロディースの子ユリウス1世(第四皇子)である。
ユリウス1世は、両親から剣術の才能を受け継ぎ、南陵流宗家を名乗る。そのため剣術界に絶大な影響力を持っている。『エッダの森』の事実上のリーダーでもある。ちなみに、彼の姉ユリア(第三皇女)は、絶対神教地上代行者として君臨していた。
この三家をディーン三家と呼ぶ。
強大な神威帝の権力の分散を目的とした家系である。宮殿内部にも屋敷を持ち、中央政治を司っている。三家の特権として、丞相を輩出し、戦時には大将軍を輩出することが出来る。
この当時は、大運河総督、統帥総長、宰相、元老院議長を独占し、かつ、互いに多くの大貴族を配下において、派閥争いを水面下で繰り広げていた。
実際この時も、『オルテガ=ディーン家』家のレアル2世と『レヴィ=ディーン家』のユリウス1世は、17代皇帝を誰にするかで争っていた。
16代皇帝『カール7世』には男子が誕生しなかった。その後継者に、レアル2世は、カール7世の弟アウグストを推薦し、ユリウスは皇女『ティローズ』を推していた。
その争いに、佐々木家は利用された。
この事件を機に、『レヴィ=ディーン家』が勢力を張るエッダの森に楔を打ち込む事を目的としていたのだ。
その刺客としてレアル2世が選んだのが、『ソロモン・ディアス』である。彼はレアル1世の妻アグネスの弟であるアルフォンソの次男で、サリス帝国の有力な大貴族であった。
ソロモンの介入は絶大であった。門弟は去り、一切の取引を絶たれ、道場は閉鎖寸前まで追い込まれる。
十三は打開のために、ビルンタール戦線に参加する事を決める。
この当時の世界情勢は、エリーシア中原を支配するサリス帝国が、北辺のグランガノムグラード(GGG)連邦と草原のリーファ王国を従属させて、広大な地域を支配していた。
一方、西方ではカリハバール帝国が健在であり、また、ウェーデル山脈最大の渓谷ビルンタールには、旧アルティガルド王家の生き残りがアルテブルグ陥落後、ここに逃げ込み独立勢力を築いていた。
十三は先鋒となったが、戦術に不慣れなため、あえなく敗退、戦死した。残された沙月は、ソロモンに自らを差し出し、許しを請う。そのために、道場はどうにか残されたが、ソロモンの影響下に落ちた。
シンは十三と共に出陣したが、十三の戦死後消息を絶った。
「……古い話さ」
静かに、薪の火を見つめる。
「自分の無力に嫌気が差し、ここまで来た――」
頭の裏で手を組むと、仰向けに寝転がる。
「もう正直、何もかもどうでもいいのさ」
「もったいないよ。あんなに強いんだから。あたしと一緒にやり直そう。何でも協力するからさ」
「……もう頑張るのにも疲れた。このままでいいのさ」
現実を拒むおように、固く瞳を閉じる。
アイラは、裸体を凭れさせ、顔をその胸に沈めた。
「大丈夫、シンは何も心配しなくていいわ。あたしが守ってあげる」
肌と肌の触れ合いは、二人の心の距離を近付けていくようだった。
「ああ……心臓の音が聞こえる……」
「うん」
「さっきね、目と目が合った時ね、本当に嬉しかったの。照れて笑い出しそうになるの堪えるのたいへんだったんだから――」
アイラが、かわいらしい声で語り出す。
「手を掴まれたときは、頭の血が沸騰したと思ったわ。もうカッとなってしまって、何が何だか分からなくなって、そしたら、この心臓の音が聞こえたの」
「そう」
優しく肩を抱いてやる。
「でも、ごめんなさい。あの時、脅すつもりはなかったのよ。でも、このまま別れたくなくて、一生後悔すると思って、だから、だから……」
アイラは泣きだした。
「もういいよ。ありがとう」
その瞳にそっとキスをする。
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