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第二十章 鬼哭啾啾

第20章 鬼哭啾啾


【神聖紀1224年5月中旬、シデ】
 赤いパラソルの下、クリーム色のテーブルクロスの上には、所狭しと幾種類ものケーキが並んでいる。
「そうなのよ」
 言ってから、ナーディアは口一杯にケーキを頬張る。それにテーブル囲む友人二人が、「うそぉ~マジでぇ」と口を三角にして叫んだ。
「ほんと、ほんと」
 得意げに、ナーディアが鼻を鳴らす。彼女達は、シデの女の子の間で評判のオープンカフェにいた。この日のランチタイムがケーキの食べ放題と言う事もあってか、店内はほぼ満席である。
「あれこそが、歴史が動いた瞬間、と言う感じよねぇ~。あたしちょっと感動しちゃった」
「いいなぁ」
「あたしも見たぁ~い」
 友人二人が、ケーキの入った口を、手で隠しながら頷き合う。
「それで、その人どうしたの?」
「行ったみたいよ」
「一緒に?」
「そう」
「そのホーランドに」
「ええ」
 ナーディアがスプーンを咥えたまま頷く。
 と、一斉に店内の全ての客が立ち上がった。その椅子の音に驚いて、ナーディアは顔を上げる。学生、学者、職人、紳士などなどが、難しい顔をして、ぞろぞろと路地に出て行く。そして、無言のまま、蜘蛛の子を散らしたように、街の中へと散らばって行った。
「誰も居なくなっちゃった……」
「う、うそみたい……」
「なんか、す、すごいねぇ……」
 残された三人の娘は、茫然と、閑散とした店内を見渡した。


【ホーランド】
……誰かが呼んでいる。だれ?
 声が聞こえた。ほんの一瞬、そんな気がした。弱く眉間に力を込める。それだけで、あれほど堅く封印されていた瞼が、ゆっくりと氷が溶けるように開いていく。
――綺麗……
 震える睫毛の向こうに、一切の穢れを知らぬ光の世界があった。それは朝陽のようでもあり、夕陽のようでもある。その鮮やかな黄金の光は、これまでに見た、何よりも美しい。
「気がつかれましたか?」
 見知らぬ人が居る。
「今何時ですか?」
「6時かな」
「朝の?」
「夕方の」
「そう……」
 あれは夕陽だったのか、とふわりと思う。
「もうしばらく休まれよ」
「はい」
 メルローズは再び瞳を閉じる。

 夜、ホーランド政権の幹部たちが、メルローズの意識回復を知って、メルローズの部屋のある宮殿西翼へと集まりだしていた。その人の流れに逆らうように、オーギュストは外へと出て行く。
 ホーランドのファンデルパルク宮殿は、海岸線に新築されたものだ。正門から幅100メートルの広い並木道を軸に左右対称に建物が並ぶ。また、軸線の先には、天を突く高い塔が立ち、そして、その先には広大な海が広がっている。水平方向への広がりと、上下の高さを意図しているのだろう。
 海からの潮風を受けて、オーギュストは軸線の上に立ち止まる。軸線、導線ともに、計画者の洗練されたセンスが伺えて、その劇的な建築的演出に感嘆する。
 と、並木道に一台停まっている馬車から、スーツ姿の男が近寄ってきた。ぷっくりと腹が出て、頭部はM字型に薄くなっている。
「ご苦労様です。接待役の承ったマザラン・カーンです」
 やや緊張した声で、マザランは挨拶した。たるんだ頬に二重顎、太く短い眉に目尻の下がった細い目、一見して冴えない中年男である。
「お世話になります」
 オーギュストは疲れの所為で、声に張りがない。
 マザランはオーギュストを見て、微妙に安堵したような笑顔を見せる。笑うと、独特の愛嬌があった。
「鬼だと聞いていましたか?」
「いえ、どんなものか、全く想像できませんでしたので……」
「意外に、人、でしょ?」
「そうですね。いや、これは失礼。あははは」
 マザランに案内されて、オーギュストは用意されていた馬車に乗り込んだ。馬車は裏門から出て、ホーランド郊外のカーン邸へと向かう。
「私も引っ越してきたばかりで……」
 馬車の中で、マザランはばつが悪そうに、額に手を当てて、小指で眉間を掻いた。そして、閑散とした室内には、解かれていない荷が、ぽつぽつと島のようになっている、と恥ずかしそうに告白する。
 メルローズの病気、そして、オーギュストの来訪を隠すために、無名の庶務課長マザランの客を装うように、指示されていた。
 無名と言っても、歴代、官僚を輩出した一族の傍系である。因みに、サリスやサイアなどに繋がる、カイマルクの名門カーン公爵家とは直接血の関係はない。カーン公爵家の祖ハーキュリーズが、カーン姓を名乗る以前から、存在する家系である。
 マザラン自身も北サイアの地方役人として、手堅く仕事をこなしていた。そして、サイア王都の陥落後は、特別野心とか言う理由ではなく、皆がそう勧めるから、という感じの流れで、ホーランド朝に仕えるようになった。
 見た目と違って、彼は30歳一歩手前とまだ若く、それで、課長の地位を得たのだから、実務能力の高さを認められていたのだろう。しかし、戦乱を避けて、中原から多くの識者が、ホーランドに集まってくると、マザランは次第に埋没していく。相国ガスパール・ファン・デルロースは、それら逸材を引き付ける魅力と、使いこなす技量を持ち合わせた稀有な存在であったのも、彼の運の無さなのだろう。
 だが、マザランに焦りはなかった。逆に、中原人のレベルの高さに、度肝を抜かれて、彼等との出世争いを回避できた、と喜びさえしていた。
 馬車は大木の並ぶ田舎道を抜けて、海岸沿いの古い建物の前に停まる。
「古い教会を改装したので、天井が高く、聖人を描いた壁画などがうっすらと残っているのですよ。そこを妻が気に入って……」
 マザランは説明しながら、馬車を降りる。
 続けて、オーギュストも外へ出た。正門前は木々が頭上までせり出して、極めて狭い印象を受ける。門の鉄格子越しに館を見ると、外壁の塗装は落ちているが、庭の草木は元気で、きれいに整えられているようだった。
 その時、木々の間の闇から、三つの影が飛び出て来た。影は言葉一つ吐かずに、オーギュストを取り囲む。咄嗟に、オーギュストは腰に手を伸ばすが、受け流し用の小型剣(ソードブライカー)しか持つ事を許されていなかった。
 と、馬車の後ろに従っていた、一騎がオーギュストの前に駆け込んで来た。馬上で細身の剣を抜くと、オーギュストとマザランの前に飛び降りる。
「ゲルト・ドレイクハーブン」
 名乗ると、ゲルトは細い剣を正眼に構えた。左右から二つの影が挟む。ゲルトは右側に自ら踏み込むと、身を沈めて剣をかわした。そして、相手の右腕を掴んで、開いた胸を刺す。すぐにもう一人が、ゲルトの背に斬りかかる。ゲルトは後方に体を転がしてかわすと、追って来る相手の左に踏み込んで、すれ違い、右腕で相手の動きを止めてから、背中を刺した。
「南陵千蜂流かぁ……さすがに機敏だな」
 残ったリーダー格の男は唸った。そして、鞘を投げ捨てて、正眼に構える。
 ゲルトも構え直す。そして、ジリジリと間合いを詰めて、明らかな必殺の間合いに入る。それから、大胆にも腕を下げていく。
 ゲルトの上半身は、がら空きである。緊張に耐えかねたのか、影は一歩下がり、剣を上段に振り上げた。その時、ゲルトの鋭い突きが喉を刺す。
 南陵千蜂流は、小太刀のような小型の剣を得意として、室内など狭い空間での戦闘に特化した流儀である。軽やかで大胆な動きを特徴とし、白鳳流、万虎流と並んで、カール大帝が興した極聖流から出た三大流派の一つとして、広く知られていた。
 ゲルトは剣を鞘に納めて、オーギュストに一礼する。
「不手際、申し訳ない」
「どこの者だろうか?」
「調べます」
「アルティガルドか、カリハバールか、それとも……」
「調べます」
「……」
 ゲルトがこれ以上情報を与える気がない事を察して、オーギュストは取り敢えず、納得したように頷く。その目の端で、地面に臥した小柄な刺客の手が、僅かに動くのを見た。その仮面を剥ぐと、まだ幼い少女の顔が現れる。
「まだ息がある」
 舌打ちをすると、オーギュストは黒装束の少女を抱かかえて、建物の中へ駆け込む。玄関には、ライトブラウンの前髪を青いカチューシャで留めた、若い女性が立っていた。彼女は、血だらけの少女を見て、小さく悲鳴を上げる。
「酒と、清潔な布を」
「は、はい」
 オーギュストはその女性に命じて、少女をソファーに寝かせた。
「しっかりしろ、死ぬな」
 しかし、懸命な努力にも関わらず、結局、少女の命を助ける事はできなかった。

 翌朝、オーギュストは小さなヨットを借りて、海に出た。潮風に頬を叩かれて、荒々しい波に跳ね上げられる。深い藍色で、太陽光を異様な綾を織り成す海面は、躍動的で、たくましい生命力に満ち溢れている。が同時に、黒々とした水の下には、吸い込むような死の恐怖を匂わせていた。
 ヨットの横を、二匹のイルカが泳ぐ。その水を掻い潜る、しなやかな泳ぎに、オーギュストの心が弾んだ。競うように並んで進むと、その呼吸音までもはっきりと聞き取れた。
 陸を見ると、海岸線は薄い紫の帯のように見えた。その上に、白い雲が山のようにそびえている。

 ニナは木製の三脚に登って、本を書棚に並べている。ゆったり目のサマーセーターで、下はぴったりとしたベージュのパンツである。飾り気のない普段着で、作業し易いように、袖を捲り上げて、頭には白いバンダナを巻いている。
 聡明で、さわやかな美しさを感じさせる女性で、以前はサイア王立大学で“有職故実”を専攻していた。教授に優秀さを認められて、時折、助手として学生に講義した事もあった。そして、ここホーランドに避難してからは、書物の整理などをして、やや退屈な日々を送っていた。
 ふと視線を窓の外へ向ける。調度、オーギュストが砂浜をこちらに歩いて来るところだった。ニナは膝の上に厚い本を乗せて、オーギュストを目で追う。
 夫のマザランからは、「双眸炯炯にして鬼哭啾啾」と聞かされていた。だから、さぞ恐ろしげな男だろうと思っていた。だが、昨夜は自分を暗殺しようとした娘を必死に助けようとしたり、今は自然のままの純粋さで海を楽しんでいたりする。そんなに悪い印象を受ける事はない。誠実で、穏やかで、情が深い若者のように感じられた。
「よかった……必要ないわね」
 安心したように、ポツリと呟く。夫の上司からは、身の回りの世話のために、近隣から三人の娘を用意するように言われていた。「なんと下品な男なのだろうか」と不快感この上なかったのだが、品がないのは、どうやらホーランドの男達だったらしい、と苦笑する。
 オーギュストはウッドデッキに上がって、荷物を片付ける。海での爽快感をそのままに、清潔な笑顔を向けて、「何?」と首を傾げる。それに、ニナは「どうしたの?」と噛み合わない答えをした。
「御用でも?」
 続けて、ニナが言う。言った後で、自分がじっと見詰めていたのだと気が付いた。急に顔が熱くなって、兎に角自然な会話をしなければ、と心臓が波打った。
「お上手ね。本当に初めて?」
 ちょっと気さく過ぎただろうか、とはらはらする。
「海の知識はあったが、体で感じるのは、初めてでした。体中の筋肉が感動している。ご主人は?」
 オーギュストは何事もなく、話題を受け入れて、次に転じていく。
「まだ寝ているの」
 ニナは「困った人でしょ」と目の間を寄せて、口元で可愛らしく苦笑いした。
「夜明け前まで、警備の事とかで、打ち合わせしていたの」
「ご迷惑を」
 オーギュストは荷物を整理するふりをして、ニナに背を向けて膝を折り、朝陽に輝く海を見遣った。
――あの時、何故あの暗殺者を助けようと思ったのだろうか?
 助からない事は一目見て分かっていた筈だった。それなのに、無駄と知りつつ無意味な行動をしてしまった。可愛い少女だったからか、情報を聞き出そうと思ったからか、今となっては全てが弁明{いいわけ}に感じられる。
――考えがあったと言うよりも、自然と体が反応したようだった……
 常に冷徹に計算し尽くして、完璧な行動を選択してきた。そういう自負がある。それが、クレチアンヴィル村の時といい、今回といい、深層の感情に揺り動かさせて、唐突な行いをしてしまう。
――何だ?
 自分の中に、不条理な一面を見つけて、気持ち悪く訝しがる。
 そこへ、ニナの声がする。
「いいえ、貴方はホーランドを救うために来られたのだから。若いのにご立派だわ」
「そう言って貰えると、助かります。祖父が船医で、治療方法を開発していたのですが……」
「戦乱で?」
「ええ、まぁ……」
 オーギュストは曖昧に返事した。嘘を連ねるのが鬱陶しく、もう会話を打ち切りたかった。解答を得られない状況は、不快で耐え難い。
「ご意志を継いだ訳ですか。偉いですな」
 第三者の声がした。オーギュストとニナが同時に振り返る。薄い髪に寝癖をつけて、コールズボンのサスペンダーを片方上げながら、廊下からマザランが顔を出す。
「ごきげんよう」
 三人は同時に挨拶した。
「今朝は、相国との謁見があります。ご用意を」
「分かっています」
 オーギュストは立ち上がった。

 ファンデルパルク宮殿では、ガスパール・ファン・デルロース相国が朝食前に日課となっている、献上された特産品の鑑定を行っていた。皿を一枚手に取る。だが満足できる出来ではないらしく、溜め息で皿を曇らせた。
 それから、ゆっくりと躊躇いがちに振り返る。重厚な装飾の部屋中央には、両脇にたくさんの椅子を付属させた細長いテーブルがあり、上に一つ、小さな小瓶がある。オーギュストが薬品を入れていた物で、息子のラスカリスが薬の説明をするために置いていった。
 鮮やかな赤が、女神の衣を彩っている。デルロース相国は、時間の流れを奪われたように、じっとそれに魅入った。
 そこに、ラスカリスが入室する。
「相国、どうしたのです。約束の時間は過ぎています。ディーン殿を待たせるなんて、失礼でしょう」
 いきなりの見幕に、デルロースはこめかみを押さえた。
「先ほどまで、“太陽の亡霊”旅団の首領がいた」
「あのアポロガイストが、ですか?」
「本名はアポロニウス・フォン・カーンだ。また敗れたらしい……」
 今度はラスカリスが息を吐き出す。そして、父と息子は小瓶を挟むように、テーブルに座った。
「またですか……」
「シュナイダーめ、マキシマムをいい様に利用している」
「またしても、あの死神……どれだけの人間を殺せば気が済むのだ……」
 旧カイマルク公国が滅亡し、アルティガルド王国の属領となっても、カーン一族の遺臣などを中心にして、反アルティガルド抵抗運動が続いていた。その代表的な組織が“太陽の亡霊旅団”である。エリーシア中原が“月と湖と女神”を象徴としているのに対して、彼等は“太陽と剣”を旗に掲げていた。
 カーン公爵家傍流のアポロニウス・フォン・カーンは、すでにかなりの高齢なのだが、その老いを隠すように、最近まるで鳥のような仮面を付けるようになり、アポロガイストと名乗るようになった。自身のカリスマ性を上げるためでは、分析されているが、不可解な事に、それ以後、突然実績も急上昇した。各抵抗組織の指揮系統をほぼ一つに統一して、叛乱組織として強化した。そして、軍や行政組織への戦いを活発にした。
 現在では、ホーランド政権とも繋がりを深めて、アルティガルドへの大規模な独立戦争を仕掛けている。だが、その前に立ち憚ったのが、カイマルク方面軍副司令官兼参謀長ジェラルド・ハインツ・シュナイダー准将である。
 シュナイダーは、エリート参謀集団“ヴァイスリーゼ(白い巨人)”のリーダーだった。三十代前半の少壮気鋭の軍人で、士官学校創立以来の天才と評されている。さらに、その容姿も美しく、黄金の髪に、均整のとれた長身、鋭気をみなぎらせた端正の顔立ちを持つ美丈夫でもある。
 そのシュナイダーは、方面軍内部を瞬く間に掌握すると、次に北陵流の宗家継承者マキシマムを手懐ける。アポロガイストの独立運動を、民衆の平和と安全を乱す悪辣な行為として、マキシマムに参戦を促した。これによって、カイマルクの戦況は、アルティガルド優勢に転じた。
「人が消え去るまで、だろう」
 デルロース相国が唸る。
「このままでは、北方の人間は大きくまとまる事ができず、厳しい環境の前に、何れは死に絶えましょう……」
「うむ、そこで、アポロニウスはサリス伝国の魔剣を貸して欲しいそうだ」
「“幻鏡剣”ですか?」
「そうだ」
 幻鏡剣とは、鞘から抜いた瞬間、薄い紫の光とともに、周囲に多数の幻影戦士を出現させる、魔剣である。使用者の素養によってその数は決まるのだが、非常に扱いが難しく、素質の劣る者が使った場合、本人が幻覚に狂う場合もある。故に、一度も鞘から抜かれた事がなく、皮肉な事に幻の剣となっていた。
「そんなもの軽率に扱えませんよ」
「そう答えた」
「納得しましたか?」
「せんよ。取り敢えず、軍議を開くから、作戦企画書を提出するように指示した」
「軍議?」
「そんなものは永遠に開かれん、がな」
 デルロース相国は薄く笑う。
「なるほど」
 ラスカリスは頷く。そして、「では」と待ち切れないように、いそいそと立ち上がった。「ああ」と返事して、デルロース相国も立ち上がる。そして、扉へと歩き出したが、ふと後ろ髪を引かれたように立ち止まり、名残惜しそうにもう一度小瓶を覗き見た。

 オーギュストは、謁見室の手前にある控え室にいた。ベージュの絨毯に赤い壁、そして、黄金で装飾された椅子が一つ部屋の中央に鎮座している。オーギュストは猫足のサイドテーブルに、空のコーヒーカップを置く。そして、座り心地の良い椅子を離れて、退屈を紛らわすように窓から海を眺めていた。
 長く待たされた後、宮中警備局長と名乗って、ゲルト・ドレイクハーブンが呼びに来た。ゲルトは昨日の事には何も触れず、あくまで儀式的に振る舞うので、オーギュストもそれに合わせて、感謝の言葉も述べずに無言を通した。
 赤絨毯を進んで謁見室へと入ると、そこを素通りして庭へ出る。緑の芝生の上には、白いテントが張られて、そこに朝食が用意されていた。
「よく来られた」
 ラスカリスが笑顔で迎える。その奥の上座には、デルロース相国がいた。オーギュストが席につくと、使用人が海鮮のスープを注ぐ。
「ご苦労でした。たいへんなお力だ。国民を代表して感謝する。その気持ちの一環として、朝食に招待した」
「ええ」
 オーギュストは短く答える。
「将軍は医療だけでなく、芸術への造詣も深いご様子。その皿は如何ですかな?」
 デルロース相国は、オーギュストを値踏みするな視線を向けて、質問する。
「稚拙ですね」
「ほお」
「構図もよくないし、筆も荒い」
「然もあらん」
 満足したように、デルロース相国は大きく頷く。
「ホーランドは如何ですかな?」
「気に入っています」
「昨夜は色々あったようで、こちらの不手際をお詫びします」
「いえ、この時勢ですから。メルローズ様の回復、シデとホーランドの結びつきを快く思わぬ連中は多いでしょう」
「ですな」
 二人とも澄まして、スープを啜った。コリコリとした感触の肉が美味である。
「医術、芸術、戦術、剣術、みな見事な知識でいらっしゃる。何処で得られた」
 オーギュストは鋭くデルロースを睨んだ。
「訊いて悪かったかな?」
「いいえ」
 オーギュストは否定したが、答えをなかなか言おうとはしない。ゆっくりスープを飲み干した挙げ句、徐に口を拭ってから、「さて」と声を発した。
「特異体質で、一度読んだ本を忘れないのです。それだけです」
「なるほど。では膨大な情報を常に持っていらっしゃると?」
「ですね」
「歩く図書館ですな」
 海ですよ、とオーギュストは比喩を言い変えた。それに、羨ましい、とデルロースは口元だけで笑う。
「では、その情報の海の中で、どう最善の判断をなさる。いえ、余も歳の分だけ、経験だけは多く積んでいるのだが、いつも決断に悩まさせる」
 デルロースはオーギュストを秤に掛けている。オーギュストもそれを知りつつ、敢えて手の内を明かす事にした。その反応から、デルロースを知ろうと考えているのだ。
「知識、情報、経験、どれも今の私にとっては、もはや処理不可能な域まで達している。竜やエルフ、そう神ならば、無限に広がる可能性の全てを、正確に処理できたかもしれない。しかし――」
 オーギュストは人差指で頭を指し叩く。
「これではどうする事もできない。だが、私(ひと)には大局を見抜く直感力がある。直感はただ漠然とした偶然ではない。選択の結果が良くなるのか、悪くなるのか、その限りない記録の積み重ねを元に、一瞬で、流れの状況を掴み、大胆に決断する」
「……面白い話ではある。だが、いや、結構、期待以上の話しは聞けた」
 デルロース相国も口を拭いた。
「今後もメルローズ様、宜しくお願い致します。それから、僻地の村々にも、疫病が蔓延しているようですが、どのように対応すれば?」
「出来るだけ、感染した村を焼く事です」
「分かりました。早速に」
 デルロース相国は頭を下げて、去っていく。
 残ったラスカリスが、そっと囁く。
「頭が堅いオヤジでしょ」
 オーギュストは何も答えず、ただ笑った。


【北サイア、セブリ山脈、アルティガルド国境付近の村】
「おい、そっちは?」
「もう誰もいません」
「よし、火をつけろ」
 ホーランド兵が、寒村の貧しい家々に火を放つ。藁葺きの家は、瞬く間に黒煙を立ち昇らせて、暗い谷間を詰め尽くしていく。
 その光景を、山頂から見下ろす騎馬があった。
 一人は、長い黒髪を後ろで束ねた長身の男で、他を圧倒するようなオーラを持った剣士である。もう一人は、白いアルティガルドの軍服を着ている。
「マキシマム師範」
 ルイーゼ・イェーガー大尉が呼ぶ。赤い巻き毛を男のように短く刈り、クールで戦闘的な顔立ちが印象的である。知性と行動力に満ち溢れた女傑で、一切の妥協を許さない攻撃的な性格は、仲間内でも恐れられていた。
 マキシマムが振り返った。北陵流宗家継承者に苦悶の表情が滲んでいる。
「まさか、あのデルロース相国がここまでやるとは……」
「その通りです。確かに、デルロースは高き理想を持っていた。しかし、権力とは人の精神を腐敗させるもの。理想を叫んだその同じ口で、自らの権力を守るために虐殺を命じる。彼はよく頑張った方でしょう」
 ルイーゼは溜め息混じりに冷笑する。
「……」
「ですが、これを進言したのがディーンです。彼が生きている限り、同じ悲劇が繰り返されるでしょう」
「オーギュスト・ディーン……」
 黒煙を見詰めて、低く唸る。
「乱世に覇道の野望を抱く男です。最も危険な男でしょう」
「うむ」
 マキシマムは頷く。その眼光に鋭い決意が浮かぶ。その後ろで、ルイーゼは頬を緩めた。


【5月下旬、ホーランド】
 眠っているメルローズの額から手を離すと、胸ポケットから女神エリースのペンダントを取り出して、彼女の手に握らせた。
「……これ?」
 弱々しい声で、訊ねる。
「君の姉君からだ」
「……え?」
「君は一人じゃないよ」
「はい」
 メルローズは痩せこけた顎を、僅かに縦に動かした。そして、頬の薄い筋肉を震わせて、微笑みかける。
 オーギュストはメルローズの部屋を出ると、廊下でラスカリスと出会う。一緒に、隣のラウンジに入ると、立ったまま窓辺のカウンターに向かい、用意してあったサンドウィッチを食べ始める。
「体力は衰弱しているが、意識ははっきりとしている」
「改めて感謝します」
 ラスカリスが口の中の物を強引に飲み込んで、きちんと頭を下げる。
「それにしても、このコリコリしたものは、斬新な味ですね……初めてかも」
 オーギュストが不思議そうに、かじった後を見て、呟く。
「ああ、オットセイのペニスです。元気になるらしいですよ。どうです? 毎食、入れていましたけど」
 一瞬二の句も告げないほど唖然とした。次の瞬間、激しく口から火を噴く。
「だから、三人用意していたでしょう」
 ラスカリスは、冷やかすように笑った。オーギュストは、カウンターに置かれていた水差しから、直接喉へ水を流し込む。
 と、窓の向こう、宮殿の正門で騒ぎが起きて、ラスカリスは眼を凝らした。
「うむ、何だ!?」
「剣を借りる事になりそうだ」
 喉の嗽[うがい]を終えたオーギュストが、不敵に呟く。
「へえ?」
 ラスカリスはサンドウィッチを咥えたまま、ぽかりと眼を丸くする。

 マキシマムは宮殿の正門を押し破っていた。そして、その前に、ゲルト・ドレイクハーブンが立ち塞がる。
「退かぬか?」
「退けぬ」
「そうか。では」
 ゲルトは細身の剣を抜いた。
 マキシマムはふわりと立ち、やや左足を前に出す。体中から全く力を感じさせない。そして、ゆっくりとした動作で剣を顔の横に運ぶ。
 それに対して、ゲルトは、上段下段と忙しく構えを変えて、マキシマムを誘う。
 だが、マキシマムは自らの気力の充実を待つ。そして、牽制で前に出たゲルトが僅かに退くのに合わせて、電光石火の踏み出しで、間合いを一歩で縮めた。
「きぃえぃいいいい!!!」
 壮絶な気迫とともに、剣を一閃振り下ろす。迅速で正確無比な剛剣である。
 ゲルトは一歩右足を下がって避け、同時に脇に構えて直して、反撃するつもりだった。だが、ゲルトの動きよりも、マキシマムの方が圧倒的に鋭い。
「ま、間に合わん!」
 逃げ場を失ったゲルトは、両足を揃えて、正面で北陵流の剣を受け止める。が、勢いに押されて、心ならずも後退へ弾き飛ばされた。
 それは北陵流にとって、必勝の定跡であった。マキシマムは、浮遊するゲルトに狙いを定めると、再び顔の横に剣を立てる。そして、着地と同時に、一気に畳みかけて、ゲルトを袈裟斬りにした。
「バカなァ……」
 その強さに圧倒されて、ホーランド騎士達の震え上がった。目の前で、ホーランド最強の剣豪が、鎧袖一触されてしまったのだ。中には腰を抜かして、剣を投げ捨てる者までいた。
 そこに、一陣の風が吹いた。そして、絡み付く風を薙ぎ払って、オーギュストが登場する。
「瞳が赤い……」
 内に小さな波が立ち、マキシマムが呟く。
「闘神……か?」
「ああ、そうだよ」
 平然とオーギュストが答える。その瞬間、マキシマムを霹靂のように打った。
「彼には恩義がある。仇を討たせて貰おう」
「……死んでいった者達の思いを知れ!」
 マキシマムは、じっとオーギュストを見詰めたまま、また同じように、剣を顔の横に立てた。対して、オーギュストは剣を抜かず、だらりと手を下げる。
「闘神よ、容赦はせぬ」
「俺はしてやっても構わんぞ」
「きぃえぃいいいい!!!」
 北陵流は初太刀の一振りに全身全霊をかけて斬り下ろす。二の太刀も受け太刀も存在しない。一撃必殺を奥義としている。その渾身の気合を込めた剣を、マキシマムは奇声と共に放つ。
 オーギュストはその剛剣を、のけぞって避ける。マキシマムの剣は、虚しく石畳を叩き、無数の破片が舞う。その砂塵の中をマキシマムはさらに踏み込み、全体重を乗せた突きを打つ。
「迅いッ!」
 オーギュストは剣を抜き、マキシマムの突きを払おうとするが、それを弾き飛ばして、オーギュストの首筋をかすめる。すかさずバックステップで、間合いをとった。
「北陵流に二の太刀があるとは、聞いていないが、な?」
「北陵流秘奥義“封神突き” 闘神を屠り去るために、歴代継承者が鍛えてきた技。今こそ北陵流の悲願を達成する」
「なるほど」
 オーギュストは首筋に手を当て、付いた血を赤い瞳で確認する。
「白刃の下では、対等というわけかい?」
 オーギュストは静かに顔を上げる。同時に、口の端が不敵に上がった。それは、見る者の心を戦慄で凍り付かせる、極寒の笑顔だった。
 右手に剣を、左手にソードブライカー(受け流し用の小型の剣)を持って、オーギュストは構えた。構えた瞬間から、マキシマム以外の存在が視界から消えた。雑念邪念が一斉に思考から消え去り、光さえも届かない深海のような領域へと、集中力を深めていく。
 同様に、マキシマムも不惑の構えを取る。
 この時の二人の瞳を見た者は、それだけで血が凍り、気を失ったと伝えられている。そこには、音も光りも時間の感覚さえもない、ただぞっとするような死の予感だけが、背中に貼り付いている。
「北陵流秘奥義“封神幻幽陣”」
 マキシマムの体がゆらりと揺れる。多数の残像が浮かぶ。それらは重なり合い、そして、妖しげな陽炎のように微震する。
「……ちぃ!」
 幻影がオーギュストの感覚を狂わせる。
 その一瞬の隙を、マキシマムは見逃さない。左足を鋭く踏み込むとスムーズな重心移動で右足を大きく踏み込ませ、壮絶な斬撃を振り下ろそうとする。
 秘奥義に意表をつかれて、戸惑いはした。が、最高の域まで高められていた集中力は、マキシマムの左足を輝かせて見せる。
「見切った!」
 そして、オーギュストもまた剣を振り下ろす。
 神の時間。
 二人は実際の時間とは別次元の流れの中にいた。他の者には刹那な出来事も、この二人には無限にも等しい時が刻まれていく。
――始動が早い。これなら避けられる。
 マキシマムは思う。オーギュストの剣が先に振り下ろされた。だが、このタイミングでは必殺の間合いに足りない。マキシマムの鼻先をオーギュストの剣が通り過ぎていく。その瞬間、勝利を確信する。
 だが、その僅か後、マキシマムの顔色が変わった。そして、着地寸前だった左足を慌てて退く。
 オーギュストは踏み出されるマキシマムの左足の着地点を読み切って、予めそこへ剣を振り下ろしていた。今度はマキシマムが意表をつかれた。
 剣を避けるために、左足を退いた。スムーズな体重移動は失われ、右足はただ棒立ちとなってしまっている。結果、必殺の剣は、腰の退いた、右腕一本の力だけの柔な剣撃へと成り下がっている。
 勢いが削がれた剣を、オーギュストは左手のソードブライカーで軽々といなす。そして、右手の剣を再び持ち上げると、マキシマムの顔を突く。
 すでにバランスを崩していたマキシマムは、それを倒れこむような格好でしか、避けられなかった。煌めく閃光がマキシマムの首筋で輝くと、鮮やかな鮮血が吹き上がる。
「突き合いは、俺の方に分があったようだな」
 マキシマムは左手で素早く血止めしながら、睨みを効かせて立ち上がる。
「ふふ……よく、我が前に現れた。これも北陵流を極めた者の宿命か……」
 マキシマムは再び剣を立てる。首筋の傷からは絶え間なく血が流れ続け、服を汚して、ずしりと重くしていく。
 オーギュストはソードブライカーを捨てると、マキシマムと同じように剣を顔の横に立てた。
「敬意だ」
「小癪な!」
 ふっとマキシマムが笑う。そして、さらに顔を引き締めた。
 二人はじりじりと間合いを詰めていく。
 剣が届く間合いに両者の左足が踏み込むと、同時に二人は大きく右足を踏み出して、必死の剣を振り下ろす。両者の剣圧が石畳を切り裂いた。二つの剣傷に、小さな埃が舞い上がる。
 マキシマムは笑っていた。生涯最高の笑顔であったろう。それはまさに最後にして最高の太刀の証であったに違いない。それから、ゆっくりと自らの血の中へと沈んで行く。
 オーギュストは顔についた返り血を拭うとせず、上着をマキシマムの上に被せた。
「紙一重だった」
 一言添えると、ゆっくりと宮殿へと戻って行く。再び風が舞った。


 その後、オーギュストはカーン邸に戻った。
「あれ、今のは?」
 テラスで紅茶を楽しんでいたニナは、無言で突き進むオーギュストの気配に気付いて、立ち上がる。そして、予定外の帰宅を、不思議に思い、オーギュストを追った。
 昼下がり、使用人達が休憩の時間のために、館の中はがらんとしている。その静寂{しじま}の中を、オーギュストは浴室へと向かう。
 体は、自らの血とマキシマムの返り血で汚れていた。だが、それ以上に、火照った体に冷水を浴びせたかった。
 心身ともに疲労していたが、まるで体力の消耗と反比例するように、男根が硬直している。服を破るように脱げ捨て、冷水を被る。だが、怯むどころか、ますます強く勃起していく。激戦の緊張感から開放された精神は、異常な興奮に満たされているのだ。
――野獣か……?
 鏡を見た。飢餓にも似た欲情に、眼をぎらつかせていた。
「女が欲しい……」
 思わず、鏡に呟いた。
「どうしたのですか? こんな時間に……」
 その時、ニナが浴室に入って来る。そして、裸のオーギュストと出交[でくわ]してしまう。ニナは一瞬見惚れた。夫の弛んだ腹と垂れた胸に対して、オーギュストの腹は幾つにも割れて、胸は厚く、腕は太く、肩はたくましく盛り上がっている。ただの筋肉の量が多いというのではなく、実用的に引き締まって、見るからにしなやかである。
 すっとオーギュストが顔を上げる。目と目があった。瞬間、視線は白刃となって、ニナの斬り抜く。ぞっとする冷気が身体を走り、余りの戦慄に凝然と立ちつくす。
 オーギュストが迫る。心臓が早鐘を打ち、身がすくんで声が出ない。
「来い」
 抵抗する間もなく、抱き寄せられていた。
「ひぃ」
 短く悲鳴をもらす。唇が近付いて、それを震える瞳で見詰めた。
「うっ…うむむ…んん……」
 蒼ざめた唇に唇が重なる。冷たく麻痺した神経に、甘美な感触がよく浸透する。
「あ……あん」
 唇が離れた時、ニナは喘ぎをもらしていた。
 次の瞬間、オーギュストに押し倒された。背中に感じる、タイルの冷たい感触に、ようやく夢から覚める。
「な、何をするのッ!」
 ニナは金切り声を上げる。
「黙れ!」
 馬乗りになったオーギュストは、ニナの頬を叩いた。咽返るような死の直感に、ニナは絶望の眼差しをして沈黙するしかなかった。
――どうなっているの? 恐い……逃げなきゃ……でも、身体が動かない!
 オーギュストが手首を掴んで、唇を重ねる。ニナはその唇を噛んだ。
 一旦オーギュストは上体を起こして、手の甲で口の血を拭う。赤い血が、また一段と獣の魂を焚き付ける。
 もう一度、頬を張る。そして、怯んだニナのサマーセーターを捲り上げて、ブラジャーを剥ぎ取る。こぢんまりとした膨らみが露となった。
「や、……やぁ」
 ニナが肘で胸を被う。三度、オーギュストの手がしなった。痛みと屈辱のために、ニナは泣き咽る。それでも、女性の防衛本能で、身体を裏返しにすると、這い逃げようとする。
 オーギュストは逃げるニナのパンツを掴むと、ショーツごと一気に擦り下ろす。そして、髪の毛を掴むと、強引に仰向けに返した。
「きゃあ!」
 乱暴に扱われて、悲鳴を上げる。
 素早くオーギュストはニナの脚を開いた。咄嗟に、ニナは閉じようと努力するが、圧倒的な力の差に、ピクリともしない。
「いやぁ!」
 短く叫んだが、もう抵抗する気力は残っていない。
 オーギュストは乾いた秘唇に、ペニスを押し当てて、一気に貫く。
「あっ、ううーっ、ああ!」
 準備のできてない身体を串刺しにされて、ニナは仰け反った。
 悲痛に眉を顰めるニナを見下ろして、オーギュストは乳ぶさを握り潰す。そして、恍惚とした表情で、くつくつと笑った。
「う、うぐっ……」
 激しく抽送が続く。その鞭で打たかれたような、身を引き裂く衝撃に、ニナは呻く。
 そして、長い凌辱の果てに、オーギュストに顕著な反応が現れてきた。
「膣内(なか)には、やめて!」
 それだけは許すまいと、ニナが叫ぶ。だが、容赦ない射精の感触が子宮に広がって行く。夫以外の男の精を身体で受け止めて、余りのショックに心が狂いそうになった。
「いやぁーーぁ!!」
 絶叫が浴室に反響して、ニナは急激に意識が遠退[とおの]く。

「おーい」
 マザランが慌ただしく玄関のドアを開く。髪の毛を弄りながら、ニナが廊下から出てきた。無理に作った笑顔で、「お帰りなさい」と言う。
「おお、居たか。どうしたのだ、すぐに出てこずに?」
「いえ、何も」
 わざとらしく、明るい声で答える。
「ディーン殿は、帰っておられるか?」
「え? い、いいえ、知らないわ……」
 咄嗟に言葉を濁す。まさか、夫に、つい先程レイプされた、などと告白する勇気はない。いや、しっかりしている自分と違って、おとなしく、争いを嫌う、温和な性格の夫が、そんな告白を聞いたならば、正気を保っていられるか疑問である。それを思うと、勇気などという言葉では片付けられなかった。
――ああ……あれが夢だったら……
 どんなに良いだろうか。だが、身体にはまだ太い杭が打ち込まれたような感覚が残り、不快な痺れで、歩き方がぎこちない。耐え難い屈辱に、怒りと憎しみと悲しさが、渾然となって渦巻く。
「そうか……」
「何かございましたか?」
「ディーン殿が、マキシマムを斬った。一刀両断だったらしい」
「……どういう……?」
 ディーン、マキシマム、斬った、一刀両断……。マザランが言った単語が、頭の中を駆け回り、全く収拾が付かない。
「だから、北陵流宗家のマキシマムが宮殿に突然な現れて――」
「どうして?」
「知るか! ディーン殿が病人を救うのが気に入らなかったのだろう」
「そんな……」
「で、あのドレイクハーブン殿を秒殺したのだ。そして、その仇を、あのディーン殿が討たれた」
「ディーンって、家[うち]に泊まっている……」
「ああ、お前は何を言っているのだ!」
 なかなか要領を得ないニナに、マザランは苛立っていく。
「ここにも、人が押し寄せてくるかもしれん。誰も屋敷に入れるなよ」
「はい」
 マザランは最後に、「ディーン殿は何処におられるのだ」と愚痴りながら、額の汗を拭って、外へ飛び出していく。
 ニナは夫を見送った後、再び、浴室へと戻って行く。
 そこには悄然と浴槽に浸かるオーギュストが居た。身体は疲労感から、指一つ動かす事はできないが、精神は病んだように昂揚している。
 ニナには、そんなオーギュストが、茫然自失に見えた。
――正義感の強い…少年……
 紛れもなく善人だった。傷付いた敵を救おうとしたり、無邪気にヨットを楽しんだり、そして、たくさんの病人を救おうと励んでいた。恩人の仇を打つために、あの殺人鬼、死神マキシマムとの戦いにも挑んでいった。そこに悪念の欠片も感じられない。その証拠に今こうして震えているのだ。
 きっと自分が軽率だったのだろう。知らず知らず、迂闊な行動をしていたのかもしれない。若い男性と一緒に暮らすのだから、年長の自分が気を配るべきだったのだ。
 ニナはそう思った。或いは、一方的に受けた暴力という衝撃から、心を守るために、そう思い込もうとしたのかもしれない。もっと言うなら、セックスなど大した事ない、と心が勝手に逃げ道を探したのかもしれない。
――なんと……才能豊かな若者だろうか……
 その芽を摘むべきなのだろうか……いや、私が守ってあげよう。
 ニナは自分から服を脱ぎ捨てると、浴槽に入っていく。
「大丈夫、私(わたくし)が慰めて差し上げるわ」
 そして、オーギュストの股間へと顔を埋めていった。

 その夜、マキシマム来襲の混乱で、マザランの帰宅は遅かった。
「あ…ああ……いやっ。こんな格好は嫌よ」
 ニナはオーギュストのベッドの上に居た。四つん這いになって、後ろから犯されている。白く細い裸体は汗に塗れて、髪は振り乱れて、美しい顔は真っ赤に染まり泣きじゃくっている。
「もぉ……うッ! はひぃ! ど、どうしてこんなに気持ちイイのッ!」
 獣のポーズで息も絶え絶えに、ニナが喘ぐ。この角度で、発熱した粘膜を抉られるの初めてだった。その未知の感触に、ニナは血を吐くような叫びを上げる。
 夫は敬虔なエリース教の信者で、禁欲主義者でもあった。だから、セックスは子を作る行為という意識が強く、必要以上の愛撫をせず、ただ入れて出すだけと言う感じであった。ニナもセックスへの興味が薄く、快楽も淡白だったので、それを然程不思議と思わなかった。そんな物なのだろうと信じていた……
 そして、ゾクリとするほど悩ましげな眼差しを、オーギュストへ向ける。
「何を言う。雌豹のポーズがお似合いさ」
 オーギュストはさらに激しく打ち続ける。ぢゅぶ、ずちゅ、と卑猥な音が接合部から響き渡っていた。
「雌豹……」
 ニナは学者である。外に出ず、室内でじっと本と向かい合ってきた。到底、自分に似合う表現とは思えない。豹と言うのは、女騎士や女剣士の猛々しい姿に対して使うべきだろう。
「不徳に昂奮するのは、獣だろう?」
「あたしが……獣……」
「ああ、雌さ」
「そうね……そうかもしれない……」
 ニナの素直に頷いた。もう自分は綺麗な身体ではない。もう戻れない道を踏み出したのだ。そう思った瞬間、ニナの頭で何かが切れる音を聞いた。
 子宮でズキンズキンと脈打つ疼きが、脳髄にまで響いて、道徳やら貞操などという価値観を打ち砕いていく。禁断を犯すというものは、何と甘美なことなのだろうか。まさか自分が不貞に身を穢[けが]すとは思いもしなかった。一生無縁だと信じていた。だが、今夫以外の男の下で身悶えている。考えただけで、魂が熱く震えた。粘膜がどろどろに灼き爛れて、逢ったばかりの男のペニスを貪欲に締め付けていく。
「だめえーーッ! いっちゃうぅぅ!」
 背を折ればかりに反らして、よがり狂う。
「またぁ…まっ…たっっ、イクっ! イクぅーーーッ!!」
 卑猥な言葉を吐く口からは、涎が落ちていた。
「すっかり出来上がったな」
 力を失っている裸体を見下ろしながら、オーギュストが呟く。
 オーギュストは何時しか、ナルセスの妻エヴァを思い浮かべて、今下に組み伏せている女と重ねて見ている。もしあの時、あの子アマーリエが現れなければ、こうなっていたのかもしれない。そう思うと、腹の下にどす黒い衝動が蠢く。きっと背徳感はこんなものではなかったであろう。きっと身も心も地獄の業火で焼かれて、不埒な感情もその形跡も、灰すら残さず消え去ったであろう。そう思うと、益々目の前の快楽にのめり込んでいく。

 翌朝、オーギュストとマザラン、ニナの三人は一緒に朝食を取った。
「どうです。1000万Czで、シデに来ませんか?」
「え……」
 唐突な申し出に、マザランはしばし言葉の意味を飲み込めず、呆然として、まじまじと見詰める。それから、思いもしない高待遇に気付いて、きょとんとした丸い眼に、驚きと喜び、さらには不安の感情を、忙しく入れ替えた。
「あ、あまりに突然で、な?」
 縋るように、マザランは妻を見た。
「私(わたくし)には……貴方の好きになさって……」
 ニナは逃げるように顔を背ける。
 まともに、顔を見る事ができない。昨夜初めてエクスタシーを知った。まるで娼婦のように荒々しく扱われ、屈辱的に犯された。何度も何度も気を失い。終には、肉棒に貫かれたまま、自ら腰を振りたて、ふしだらな言葉を吐きながら絶頂に達するようになった。
 本の中の世界ばかりに生きていたニナは、オーギュストによって、こんな世界もあるのだと教えられた。熟した肉体は、すぐに女の悦びに順応して、乙女のように淡い心は肉欲に溺れていく。その変化が自分でも恐ろしかった。
「そ、そうか……」
 マザランは顎に手を当てる。
「よく考えて下さい。しかし、余り時間はありませんよ」
 そう言い残して、オーギュストは立つ。
「あ…ああ……ぁ」
 思わず、マザランはオーギュストの背に手を伸ばしていた。

 昼過ぎ、ランは街の病院にいた。オーギュストとともにホーランドに来たが、偶然姉のリタと再会して、以来オーギュストと離れてリタの看病をしていた。
 姉妹は別れてからの事を語り合う。
 南サリスの農村で、カリハバール軍に両親を殺された。それから、リタは叔母に引き取れてトラブゾンの商家に行った。叔母の夫は裕福な商人で、豊かな生活を送っていたが、疫病にかかり、このホーランドの病院に入院していた。
 一方、ランはサリスの農家に預けられたが、その村もカリハバール軍に焼き払われ、一人生き残った所を、今度は人買いに攫われて、遊興の街トレノに送られた。そして、暴行を受けている所を、絶対神教の司教に保護された。それから、オーギュストに出会って……
「ベム、そこに居たのか?」
 そこへ、白衣姿の医者団を引き連れて、オーギュストが入ってくる。一瞬で、大部屋の病室が静まり返った。
「師匠!」
 いきなり師匠と呼ばれて、オーギュストは怪訝に思ったが、疲れているので、訂正する気も起こらない。
「お前の姉か?」
「はい」
 オーギュストはリタの首のリンパ節を触り、次に舌を出させて、最後に額に手を当てた。
「大丈夫みたいだな」
「本当ですか?」
「俺を疑うのか?」
「いえ」
 子犬のように怯えて、ランは激しく首を振る。
「そう言えば、昨日、北陵流のマキシマムを倒したそうですね」
「……そんな名前だったかな」
「ほんと、不可能無いみたいですね」
 カルテに書き込みながら、突然、オーギュストが笑い出す。
「お前は面白い奴だな。それじゃまるで俺に不可能があるみたいじゃないか」
 オーギュストは疲れが頂点に達している所為か、乾いた笑い方をする。それから、口を開けて呆れているランの肩を、戯[じゃ]れるように何度か叩いた。そして、そっと耳元で「帰るぞ」と告げた。
 その直後に、ホーランドの医者に呼ばれて、オーギュストは病室を出る。
 すると、隣のベッドにいた老婆が、ランに声をかけてきた。
「本当に、お弟子さんだったんだね。来れ食べり」
 と言って、たっぷりとミルクのかかった苺を差し出す。
「ありがとう」
 ランが笑顔で摘むと、次々に人々が集まり始めた。
「これもだべな」
「これもおいしいよ」
 あっという間に、人々が取り囲んで、次々に品物を差し出す。
「ちょ、ちょっと、そんなに、無理だよ」
 ランは訳も分からず、氾濫する人の善意に、妙な瞬きを繰り返した。

 夕刻、宮殿では、デルロース相国が幹部に囲まれていた。
「あの男は危険です」
 一人の側近が言う。
「そうです。今毒殺するべきです」
 すぐに賛同者が現れた。
「必ずや、我らの徒となりましょう」
 デルロース相国は議論の行方をじっと見守っていたが、一通り意見が出尽くしたところで、黙って頷いた。
 その時、オーギュストは、デルロース相国に夕食に招かれて控え室に居た。そこに、ランが忍び込んでくる。
「師匠、裏門に馬を用意しました」
「師匠は止めろ、師匠は」
「何をしているのですか?」
 声を顰めて、真剣な表情で報告するランだったが、すぐに眉を顰める。
「見て分からんか?」
「だから、こんな時にする事じゃないでしょう、と」
「俺様に意見か? お前も、だんだん大胆になってきたな」
「なりますよ。こっちも命懸けなのですから」
「なるほど。それは理に適っているな」
 オーギュストは適当に応対{あしら}うように笑う。作業の方に夢中になっているようで、ランの声には、お座なりに答えている。それに苦情を言おうと、ランが口を開くと、先にオーギュストが短く叫ぶ。
「よし、出来た。行くぞ」
「あ、はい」
 二人は窓から飛び出た。
 そのしばらく後に、デルロースが控え室を訪れる。ドアを開けて、すぐに壁に描かれた黒豹の絵に足が止まった。黒豹は黒い墨で描かれて、前脚を大きく踏み出して、今にも飛び掛ってくるような迫力があった。また、写実的に描かれる中でも、黒豹の顔には野獣の荒々しさよりも、人の表情のようなユーモアが感じられた。
 先に我に返った側近の一人が、墨の垂れた部分を指差す。
「まだ遠くには行っていない」
 それをデルロース相国は手で制した。
「止せ」
「はぁ?」
「もうよい」
 そう言い残すと、控え室から人々を追い出して、しばらく黒豹の絵を眺め続けた。


【六月、エリーシア中原】
「開戦してからも、朕は民衆を思い、使者を派遣して、和平を望んできた。ところが、カリハバール人は、辺境地域への侵入略奪を止めようとしない。この横暴に、なおも、朕は使者を再三派遣して、非を悔い改める機会を与えた。しかし、使者は一人も帰ってこなかった。もはや、善悪の是非は明らかである。セリアに来て、諸侯は皆、南へ下り、カリハバール征伐を朕に乞うた。朕は偉大なる始祖の意志を受け継ぐ者として、自ら下って正義を諭す事を誓おう。卿らは、朕の命に従い、各々の剣を磨き、弓矢を研ぎ、勲功を上げるように努めよ!」
 セリアに、遂にアルティガルド王ヴィルヘルム1世が乗り込んで来た。そして、100人の諸侯の推薦により、征竜大将軍に就任すると、カリハバール帝国軍打倒を新たに宣言した。
 それを嘲笑う如く、カリハバール軍が動き出す。

「……うう」
 アレックスは砦の櫓の中で、熱にうなされていた。流行りの竜熱ではなく、疲れからの発熱だった事に、本人も家臣もほっと胸を撫で下ろした。
 戦い続けて、常に緊張状態にあった。それが、静かに眠れる場所を提供されて、つい心に弛みが生じたのだろう。
 情熱を燃やす事は容易いが、それを持続させる事は非常に難しい。一時でも、停滞を受け入れた時、運に見放される事もよくある事であろう。
 まるで全てを見透かしたように、ある夜、トルゴウド・レイスが、アレックスの砦を奇襲した。そして、敢え無く砦は落ちる。
「む、無念……」
 自害しようとしたアレックスだったが、重臣に捲土重来を諭されて、ようやく思い止まる。そして、家臣に支えられて、甘水峠の陣城へと落ちて行った。
 レイスは、続けて、ロックハートの守る甘水峠を攻める。投石による間断なき攻撃で、一時は落城寸前まで追い込むが、シデからリューフが救援に来ると、あっさりと囲みを解いた。
「鮮やかな撤退だな」
 レイスは兵を纏めると、仕掛けるなら仕掛けてこい、と言わんばかりに背中をさらして引き上げて行く。
「ギュスの不在がもれていたのか……」
 リューフは独語した。

 一方、サイア城を囲む、カフカは戦力不足と旧サイアの弱兵に悩まされていた。
 城内へ小石を放り込むと、巨石で反撃される。罵声を浴びせても、言い負かされる。夜には城内から夜襲を受ける。すっかり兵は怯えてしまい、疲労困憊で、昼まともな攻撃すらできない。さらに、サイア城内には、畑と水源、そして、十分な食糧の備蓄もある。対して、カフカの陣には、兵糧不足が深刻になりつつあった。占領地からの徴収も限界に近付いている。兵も足りないから、包囲網も完成できず、城内と外部との連携も断ち切れない。これではどちらが攻めて、守っているのか、全く分からない。
 そこに、カリハバール皇帝セリム1世が攻めて来ると言う噂が流れた。これに、兵士たちが浮き足立つ。見せしめに、噂を口にした数人の兵を処刑したが、軍の動揺を押さ切る事ができない。
 このままでは、アルティガルドかオルレラン、もしくはシデ辺りに、援軍を要請するしかないだろう、とカフカは苦悩する。
 オーギュストはナルセス、リューフと組んで、各地を転戦し、名声を上げ、軍功を重ね、屈強な兵を集めてから動き出した。それをカフカは遠回りだと判断した。おそらくは真の大儀がないからだろうと思っている。
 対して、自分にはサイア復興と言う大儀があった。だから、兵は集まるし、王都サイアへの道も自然と開ける。だが、今になって、近道の危うさ脆さを、改めて諭されているような気がしていた。
 しかし幸運にも、城内の指揮官アサド・ジュスは、翻弄されて薄くなっていた一角を突破して、南へと逃げ出して行った。正直、労せずしてサイアが手に入り、カフカはホッとする。
「本当に苦しかったのは敵だったのだ」
「俺たちは騙されていた」
「逃がしはしない!」
 旧サイアの将兵は、いきり立って、ジュスを追う。恐怖に震えた魂が、一度に開放されて、半狂乱となっての攻撃である。
「深追いしてはならぬ」
 カフカは必死に止めようとした。しかし、「武勲を取られるのを妬んでいるのだ」と将兵は鼻で笑った。結局、カリハバール軍主力の待ち伏せにあって、大敗した。
 こうして、東と西で、カリハバール軍は快勝を得た。
 そんな中、
「危険を冒して奇策に出るのは、カリハバールが焦っている証拠だ」
 として、アルティガルドは全軍をカッシーに集結させた。

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Date:2011/08/28
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