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第二十一章 千軍万馬

第21章 千軍万馬


【神聖紀1224年5月下旬、カッシー】
 アルティガルド王国軍がサリスに投入した戦力は、すでに10万を越えていた。セリア港には、絶える事なく輸送船が入り、倉庫街には約一か月分の兵糧が蓄えられている。
 アルティガルド王国は、北にロードレス戦線、西にカイマルク戦線を抱え、さらに、東のウェーデリア公国の内乱にも深く踏み込んでいる。如何に大国と雖も、これほどの大遠征は、人材、財政ともに国力の上限に近い。
 人々はこれを、国王ヴィルヘルム1世の天下統一への、意志と覚悟の強烈な宣布として、恐懼[キョウク]した。

map21.jpg
 5月、水浅黄色の下、新緑が野原を覆い、行き交う無数の人馬で街道は黒く染まる。
 カッシーは、帝都セリアと王都サイアを結び、さらに南下すれば、カリハバールの根拠地ランス(バビロン)へと続く、主要街道の交差する要衝である。かつて、オルレランが前線拠点としたが、大敗を喫した場所でもある。
 再び、この地をアルティガルド王国軍は、ランス攻めの軍事基地と定めた。
 カッシーの街道付近には、大量の兵糧物資を蓄積するために、幾つかの砦が築かれている。その中で一際豪華なのが、隣村の小独立丘陵のヴェルダン山に築かれた“ヴェルダン陣城”であろう。アルティガルド王ヴィルヘルム1世の御座所として造営されたもので、街道を見下ろして、黄金の瓦を被った塔が聳[そび]えている。
 午前、シデ大公国から、戦術顧問のベアトリックス大尉に伴われて、ナルセスの次男ナイトハルト・フォン・ディアンが到着した。騎士見習いとして、王の小姓に取り立てられたのだ。また、同様にサイア王国第一執政官カフカの甥も取り立てられ、さらに、その世話役として、カフカの実母も招かれている。名誉な事ではあるが、所謂、人質である。
 これらは、カフカやナルセスが、ヴィルヘルム1世に従属しているだけでなく、サイア王国とシデ大公国の宗主国が、アルティガルド王国、いや新生アルティガルド帝国である事を示している。世界がヴィルヘルム1世の新皇帝即位を暗黙で了解している証拠でもあろう。
 午後、このアルティガルドの仮王宮を、総司令部から、総参謀長ケーニッヒ大将が訪ねて来た。
「このセリアに2万、街道各地の警備に約1万、残りがこのカッシーからランスに掛けて展開しています」
 ケーニッヒ大将が、大きな地図を指差す。
 “王の間”は塔の最上階にある。内装は黒と赤を基調として、窓の手摺などに精密な鉄細工をふんだんに使い、美しく危険、豪華で暗、洗練でエロスというような妖しげな雰囲気を醸し出している。
 ケーニッヒ大将は、宰相ベレンホルストの懐刀として認知されていた。熟練した指導力をもって頭脳集団を統括し、ベレンホルストの厚い信頼を勝ち得ている。士官学校を首席で卒業して以来、順調にエリートの階段を上り詰めてきた。軍服以外の服を想像できないような、厳つい顔にも、皺と染みで老いを感じさせるようになり、そろそろ軍人人生の総仕上げを意識するような歳になっている。
「我が軍は約3倍の戦力をもって、石水峠、悪水峠、赤水峠の三つのルートから進撃します」
 血気盛んに、ケーニッヒ大将は言う。
「うむ」
 ヴィルヘルム1世が、相槌を打つ。雑多な専門用語の羅列された説明よりも、窓からもれ聞こえる、猛々しい軍楽隊の方が気になっているようだ。
 心が勇んでいる!
 今ヴィルヘルム1世は、それを強く意識していた。二十歳過ぎで、王位を継承した。その頃は、自分の若さに些かの疑問も抱かず、三十、四十と歳を取るなどと想像さえもした事がなかった。しかし、現実には、彼は三十歳を越えた。そして、強大な力を得ていても、何一つ成さず、ただ老けるばかりの人生に、焦りを抱くようになる。
「先鋒の第一軍はすでに石水峠を越えて、敵に第一撃を与えます」
「力押しだな」
 拍子抜けするほど、ヴィルヘルム1世は淡々とした声で言う。
「敵も備えておろう?」
「御明察、恐れ入ります」
 丁重にケーニッヒは頭を下げる。それから、あと一押しと言わんばかりに声を張る。
「ランスの戦力はおよそ3万強。堀を廻らして、要塞を築いております。しかし、地盤は軟弱で、恒久的な塔や城壁の建設は不可能と思われ、城塞と呼べるほどの防御力は無いと判断します」
「そうか」
 あっさりと頷く。
「さらに、必要であれば、第二軍を西へ迂回させて、敵の補給、退路を断ちます。敵は慌てて援軍を送りましょうが、その時こそ残った全軍で、セリム1世を葬り去ってご覧にいれます」
「頼もしいな」
 王の言葉に、ケーニッヒの顔がさっと綻ぶ。
「現在、投石車や雲梯車や井欄などの攻城兵器を、悪水峠から輸送しております。戦備が整い次第、直ちに総攻撃を開始いたします。勝利の報を今しばらくお待ちください」
「期待しておるぞ」
「はっ。ランス侵攻は軍事的散歩です。必勝の構えであります」
 最後に、ケーニッヒ大将が豪語する。その自信には、麾下に才気活発な将帥が揃っている、という裏付けがあった。
 第一軍司令官にアドルフ・デリンジャー中将、
 第二軍司令官にフランツ・アダム・フライヘア・フォン・バイエルライン中将、
 第三軍司令官にルードヴィッヒ・バーンシュタイン中将、
 第四軍司令官にペーター・シュヴァルツ中将。
 どれも、士官学校を首席で卒業した秀才ぞろいで、知的で精悍な顔立ちをしている。アルティガルド王国軍では、家柄よりも、学歴が重要視される。子供の頃から篩いにかけられて、最終的に少数のエリートが選抜される。そして、それらに対して、さらに徹底的なエリート教育が施されて、軍幹部へと育てていく。この幹部育成システムに、叩き上げの者や、一度道を反れた者の入れる余地は一切ない。こうして、やや均一的だが、常に安定した高度な人材を揃えている。
「エリーシアの混乱の源は、弱体化したサリス帝国に起因します。カール大帝以来のカリハバール打倒の命題を実現するためにも、強力な指導力が必要であり、それを成せるのは、栄光あるアルティガルド王ヴィルヘルム1世陛下をおいて他にはございません」
「決議通りでよし」
 ケーニッヒ大将は、作戦の承諾を求めて、恭しく書類を差し出す。それに、ヴィルヘルム1世はサインをしながら、さり気無い口調で問い掛ける。
「ランスとはどう言う所か?」
 その問いに、ケーニッヒはにこりと微笑んだ。
「カリハバールが根拠地とするランスは、南に険しいヴェガ山脈を背負い、周囲に大小の川と池沼を配しています。気候は高温多湿、6月で連日30度を越えるとか。“水都”と言う者もあります」
「ほぉ」
「かつて、エリース湖から大河が流れていた、という伝承があり、谷になっております。その谷の中に運河が造られています。また、雨や霧の日も多く――」
 ヴィルヘルム1世は、偉業の出発点なるであろう、まだ見ぬ地に思いを馳せた。


【ランス盆地】
「二ヶ月前と何も変わっていない!」
 馬上から、トルゴウド・レイス将軍が、誰ともなく怒鳴りつける。東のエリンパス台地でのシデ大公国軍との戦いを終えて、バビロン城(ランスのカリハバール名称)へと帰還したところである。まだ気分は戦場にあり、落ち着きを取り戻せていないようだった。

 甘水峠の陣城は街道沿いに東西に細長い。その先端曲輪は最も堅牢に造られているが、そこへ十分な投石と魔矢攻撃を行い、城兵の意識を引き付けた。そして、精鋭の中から突撃隊を選抜して、斜面を迂回させると、後方の曲輪に特攻させた。大きな犠牲を伴ったが、ついに門を押さえて、橋頭堡を得る。それから、分断した先端曲輪を背後から強襲して、攻め落とした。
「次は中心部分を攻めるぞ」
 部下を労った後、レイスは一気に城を落とそうと意気込む。しかし、予想外の速さで、シデ大公国軍の主力が到着した。
「ディーンなしでもよくやる。ここまでだな」
 挟撃を回避するために、レイスは撤退を命じた。

「防衛工事が遅れている。アルティガルド軍はすぐそこまで来ているのだぞ!」
 鬼のような迫力で発破を掛けると、レイスは強く愛馬の腹を蹴った。
 レイスが外堀を通り過ぎると、作業を指揮していた現場監督が、一言左右に「行ったか?」と訊いてから、頭を上げる。いきなりの見幕に、背中は嫌な汗でじっとりと濡れてしまった。
「一朝一夕で出来るものか。門外漢が……」
 レイスは何も変わっていないと評したが、軟弱な地盤に城壁を築くのは、非常に難工事である。サリスやアルティガルドでは不可能とされ、これまでランスのような湿地の開発は、ほとんど手付かずだったと言っていい。
「もたもたするな!」
 大きな不満を蚊の鳴くような小さな声で呟くと、現場監督は一転して大きな怒声を張り上げ、作業の再開を告げた。
 工兵が腰まで泥に浸かりながら、人がすっぽり入るような銀色の筒を、沼地に何本も立てていく。この銀の筒には、圧縮された石化の魔術が封印されていて、それを高圧力で軟弱な地盤の中に吹き込めば、一瞬で地中に石の柱を立つ。
 これは、湿原の国であるカリハバールで開発された最先端建築土木技術で、先進地域であるエリーシア中原を遥かに陵駕していた。

 レイスはバビロン城の中心部へと急ぐ。
 大手門で、軽装鎧をまとった女性が出迎えた。レイスに一礼すると、左胸の胸当てを飾る大粒のダイヤモンドが輝く。その光条に連動して、腰に佩く細身の剣の柄、頭部のサークレット、そして、両腕の篭手のダイヤモンドも、眩い光条を放つ。この豪華な装束{いでたち}は、女性親衛隊のものである。
「ご苦労様です」
「……」
 無表情で下馬すると、レイスは目も合わせず、無下に手袋と鞭を手渡す。
 レイスはこの親衛隊を毛嫌いしていた。さらに言えば、戦場に飾りのような女が、立つ事さえ不快であった。解散を何度も上申したが、セリム1世には「これも宣伝の一環だ」と突き返されてしまう。セリム1世は『竜殺し』の勇者であり、何事にも派手さを好む。また同時に、無双の頑固者でもある。それは、片腕として常に轡を並べて戦場を渡り歩き、時には泥水を啜り、時には一杯の粥を分け合ったレイスにとって、嫌と言うほど骨身に染みている事である。もう諦めるしかなかった。
「レイス将軍でいらっしゃりますね?」
 親衛隊の女性がわざとらしく訊く。従者として扱われた事への報復であろう。
「……」
「役目です」
 きつい口調である。レイスは足を止めて、女の顔を見た。褐色の顔が、よく引き締めている。髪は黒く、身体は小柄だ。目、鼻、口とどれも派手ではないが、形は理想的に整い、それがバランスよく配置されている。肌からしてまだ若いようだが、不思議と大人の色気が感じられた。特に黒真珠のような瞳が濡れ光っていて、まるで誘うようである。
――ほぉ……
 内心、ほくそえむ。レイスが驚くのは、その美貌よりも、瞬き一つせず、レイスの厳しい視線を捉えた点だ。と、急に何処か見覚えがあるような気がしてくる。
「ターラか?」
 そして、突然大声を出す。
「はい」
 長い睫毛[まつげ]を二度三度上下に動かして、ふっくらとした下唇がやや開いて笑う。その仕草が、やけに少女っぽい。つい先程感じた艶っぽさを、もう微塵も感じさせていない。
「そうか。大きくなったなぁ」
 思わず、戦士の顔が綻ぶ。
「綺麗になった、と言うんですよ。叔父上」
「そうだな」
 レイスは声を出して笑った。
 ターラは、レイスの兄ハッセム・レイスの娘である。ハッセムも弟に劣らず武勇に優れ、皇太子バヤジットの守役を務めている。ターラも皇太子の親衛隊として仕えていたが、今日は伝令として、バビロン城を訪れていた。
「シデ軍を翻弄されたとか。さすがですね」
 もう声からして違う。頼もしい叔父をからかう、かわいい姪という感じだ。
「隔靴掻痒だな」
 レイスは遠い目をして答えた。
「はぁ?」
 透かさず、ターラは眉を顰める。
「いや。兄上は?」
「元気ですよ……」
 その声に、不服の感情が過ぎった。
「どうかしたか?」
「初陣は先鋒と思っていたのに……」
 皇太子の護衛に不満らしく、それを父親の策略と勘繰っているのだろう。
「それは違うぞ、ターラ」
 答えて、レイスは歩き出す。それにターラも一歩遅れて続いた。
「え?」
「皇帝陛下の戦いは、常に敵を懐深く抱き込まれる。前線も後方もない。皇太子殿下の傍こそ死地と、心しておけ」
「はい」
 ターラは力強く頷く。
「幾つになる?」
「17です」
「そうか、俺の目を黙って睨み返せるの者は少ない。期待しているぞ」
「失礼な。睨んでなんかいませんよ」
「へえ?」
「最近、ちょっと眼が悪くなっていて、それでよく見えないから、それをみんな目付きが悪いって。失礼しちゃう」
「そうか、あははは」
 膨れるターラの横で、レイスはすっきりとした納得顔で、大笑いした。

 中央に噴水のある中庭に面して、皇帝の部屋はあった。床には竜を描いて絨毯が敷き詰められて、壁には盾や剣が無造作に飾ってある。
 レイスと入れ替わるように、ぞろぞろと文官達が退室していく。頭に白いターバンを巻くカリハバール衣装の中に、肩から赤い襷を下げている者が多数混じっていた。彼らはヴェガ山脈などの出身者で、カール大帝に滅ぼされたセレーネ帝国貴族の末裔である。セレーネ帝国滅亡後、一部は新天地を求めて海を越えて、カリハバールにまで逃れたが、サリス帝国に降伏した一部は、ヴェガ山脈に流刑となった。
 カリハバール軍が侵攻して来ると、喜んで協力している。特にリヴィウス一族は長老の孫をセリム1世に差し出して、忠誠の証としていた。
 セリム1世の前で、レイスが跪く。
「ご苦労だった」
 声が擦れている。右頬から首にかけての大きな傷の所為であろう。傷は昨今のものではなく、まして、人間によるものでもない。二十歳少し前、“竜殺し”の偉業を成し遂げた時に、竜の爪でつけられたものである。レイスはこの古傷を見るたびに、主君への心酔を新たにし、更なる忠誠を心に期す。
「恐れ入ります。それより、アサド・ジュスを見ませんが?」
「悪水峠で、アルティガルドの輸送路を遮断させている」
 頬を弛めて、レイスは頷く。他の峠に比べて、悪水峠の道幅が広い。大型の車を使うならこの道しかないとレイスも睨んでいた。時間的余裕があるのなら、レイス自ら行うつもりであった。
「アヤツはじっとしていると濁る。多少動かしてやった方がいい」
「御意」
 僚友への評価にも、全く同意する。
 セリム1世も浅黒い顔で薄く笑った。顔は細く、顎と鼻が尖っている。平穏な時代に生まれていれば、甘い恋愛物語の主人公だったかもしれない。だが、少年の頃から戦いの中に身を置いてきた所為で、肌は酷く荒れて、頬を上げるたびに、ひび割れて崩れ落ちてしまいそうに見える。その中で、眼は鋭く大きく、そして、生き生きと輝いている。恰も、世の全てを見渡すようであり、かつ、全ての真実を射抜くようであった。
「外周の工事が、遅れているようですが?」
「うむ」
 喉をならして、長い髭をなぞる。
「多少は隙を与えてやらんと、攻めかかってこんからな。レイスよ」
「はい」
「今度の戦いで、余はアルティガルドを追い返す程度では満足せんぞ」
「はっ」
「徹底的に叩き、誰の目にも勝敗が明らかな大勝利を得るつもりだ」
「御意」
「そのためには、このバビロン城まで敵を引き込む。余も敵にこの胸を晒す事になろうが、お前にも死んでもらう事になろう」
「身に余る光栄」
「うむ」
 レイスは頭を下げた。堪え切れず、眼に熱い想いが込み上げてくる。武人の本懐に、魂が震えている証だった。


 6月に入ってすぐに戦闘が始まる。
 悪水峠で、アサド・ジュスがアルティガルド軍を奇襲した。少数騎兵での攻撃だったが、一撃離脱で、輸送中だった大量の物資を焼き払う事に成功する。
「高があの程度の敵に、狼狽[うろた]えるな!」
 報せを受けて、第一軍司令官アドルフ・デリンジャー中将は、大いに誇りを傷付けられた。そして、全軍をもってジュスを追撃する。デリンジャーの性格は、細かく、執念深い。同僚から蛇と喩えられるほどである。その所以を実証するように、粘り強い探索と追尾で、ジュスの逃げ道を一つ一つ塞いでは、終には包囲下に収めた。
「あと百騎あれば……。ちぃっ、広がるな。小さくまとまれ!」
 ジュスは舌打ちをして、思わず愚痴をこぼす。
 包囲されて、僅かの時間で、ジュス麾下の精鋭は半数までに減ってしまった。アルティガルド兵がここまで戦意が高いとは、全くの予想外であった。かつて自分たちがそうだったように、これが天下を目の前にした武人と言うものなのだろう。ジュスはついに戦闘の継続を諦める。
「やもえん。最も薄い箇所を突破するぞ」
 周囲の部下に声の続く限り命じると、愛馬に鞭を入れて、先頭を切って駆け出していく。
「振り返るな!」
 初陣から共に戦ってきた側近が、射抜かれて落馬する。取って返し、手を差し出して、ただ短く「乗れ」と叫びたかった。だが、今は情を断腸の想いで断ち切り、必ず仇を打つと誓う事しかできない。
 相応の被害を被りながらも、囲みを一点突破した。それから、ランス盆地の原野を駆けて、一路バビロン城へと逃げる。背後には、アルティガルト騎兵がぴったりと張り付いていた。
 振り切れなかったが、どうにか螺旋状の堀の外周を越える。本来であれば、ここには、城下町が形成されて、迷路状の道に、家臣の館や教会などの施設で、侵入者を迎え撃つ予定であった。だが、現状バビロン城は城壁の工事も終わっておらず、中心部まで、有効な障害物はほとんどない。
「無念」
 ジュスは悔しく、セリム1世に何と詫びよう、と自分を責めた。

「罠か……?」
 と、敵の首魁を前にして、デリンジャーは警戒した。
 しかし、城の中心部は目の前で、抵抗も僅かである。カリハバール勢の油断が手に取るように分かった。このままジュス軍の混乱に乗じれば、城内侵入も容易いだろう。それを感じてか、将兵の士気がまた一段と上がっている。デリンジャーは決断した。
「よし、このままランスを落とすぞ!」
「おお!」
 敵の本拠への一番乗りである。アルティガルド兵は発奮して、激流のように、攻め込んでいく。
 しかし、バビロン城は未完の城下町全体を含めて、時計回りの螺旋状に堀が刻まれている。必然として、攻め手の動線は長くなる。セリム1世の影を間近に感じられても、堀沿いに迂回を強いられて、さらに、その進撃の間中、絶え間無く、側面からの攻撃を受け続ける事になる。
「考えてあるわ……」
 デリンジャーは即座に攻略の難しさを悟った。だが、もう、ジュスに続いて、先頭部隊は大手門への橋を渡ってしまった。
 大手門は枡形になっていて、橋から入って、直角に曲がると大きな鉄門がある。門の前は、小さな四角の空間で、高い城壁が四方をぐるりと囲んでいる。
 ジュスを迎え入れると、門は堅く閉ざされた。足の止まったアルティガルド軍の頭上に矢が降り注ぐ。鉄門へと向きを変える必要上、必ず、城防衛側に側面と背中を晒す。瞬く間に、その四角の広場は、アルティガルド兵の死地となった。
「調子に乗り過ぎたか……」
 デリンジャーは第一波突撃の失敗を認めて、速やかに、撤退を命じた。

 退却していくアルティガルド軍を、バビロン城の塔の上から、セリム1世とレイスは見下ろしていた。
「もう少し誘い込めたら、搦手門から打って出て、前後から挟撃できたでしょう。残念です」
「こちらの用意した餌が不味かったのだろう」
 セリム1世は、からからと不敵に笑った。
「大魚を得ようと思えば、それなりの餌を用意せねばならん」
「御意」
「次は余が出よう」
 まるで散歩にでも行くように、セリム1世は軽く言い放った。

 初戦に敗れたデリンジャーは、一旦高台に兵を退いて、そこに砦を築き始めた。自身の軽率を反省して、以後は本来の目的である橋頭堡造りに専念する。そして、主力の到着を待った。だが、ただじっとしていた訳ではない。先の戦闘中に、城下に諜報部員を忍び込ませて、バビロン城の内情など徹底的に調べ尽くしていた。
「城内には、カリハバール全軍の3万が揃っていた。セリム1世も間違いなく在城した。防御施設は未完成ではあるが、十分に機能していた」
 それをカッシーの総司令部に報告した。
 これを受けて、ケーニッヒは第二軍司令官バイエルライン中将を呼んだ。
「敵がランスに戦力を集中させているのなら、空のペラギアを占拠して、敵の背後を遮断せよ。セリム1世は袋の鼠となろう」
「援軍を派遣した場合は?」
「数が多ければ、対峙して遊軍とせよ。少なければ、撃ち破って西より攻めよ」
「はっ」
 これで、第二軍は別働隊として西へ迂回する事が決定した。
「さて、いよいよランスへ乗り込むか……」
 ケーニッヒは低く囁く。


【6月初旬、サイア】
 サイア城はショーヴ山脈の最北端、ヴィーナ川に最も迫った丘陵の上に築かれている。地質は熔結凝灰岩で崩壊し易く、あちらこちらに雨による侵食でできた急峻な谷があった。このため標高は50メートル程だが、攻め難く守り易い城となっている。
 戦う城して建設されたサイア古城は無骨であったが、第11代サイア王アベール4世の時代に大改修が行われ、華やかな王朝文化に相応しい、白壁の美しい王宮へと作り変えられていた。
 最澄部に『アレクサンドリア宮殿』があり、その手前に謁見用の施設である『白書院』と『黒書院』が段違いに並ぶ。ここまでが、王の居住空間である。ここから“王の坂”を下って、行政府や家臣の屋敷などに繋がる。これらを広くて深い内堀が囲んでいるが、ここまでをサイア城と呼び、その外側の城下町を含める外堀までを王都サイアと呼んだ。

 『黒書院』の執務室で、カフカは目を覚また。硬いソファーから、頭を擡[もた]げたが、極めて気分は悪い。
「……また同じ夢か」
 頭を掻き毟りながら、苦々しく呟く。
 地方の小さな街の祭り、仮装した人々の流れに逆らって、少年が走る。何度も何度も大人にぶつかって、幾度も幾度も転がり倒れる。その度に少年は、這うようにまた走り出す。少年の顔は怯えて、手には血の付いたナイフが握られている。そして、人気のない路地裏の川にナイフを、荒い息と共に投げ捨てる。そこで、決まって目が覚める。
 これはカフカが初めて人を殺した時の記憶である。
「あの街は完全に破壊したと言うのに……忌まわしき記憶は消えぬか」
 死ぬに値する男だった。後悔はしていないが、結局は卑怯な殺人者に成り下がったようで、惨めだった。これ以後、何もかもが変わった。喜びに笑う度に違和感が込み上げ、幸福を求める事自体が誤りであるようにさえ想えた。それから、人の温もりを避けるように、武人への道を選んだ、一向{ひたすら}私情を捨てて生きて来た。否、二度(ふたたび)、私情に流される事が怖かったのかもしれない。だが皮肉な事に、心の闇に触れた事が、陰謀術数を習得する上で、役立って行く。
 カフカは病んだ目付きで窓の外を見た。薄青い空の中に、消えかかった白い月が見える。王都は霧に霞んで、僅かに灯った明かりが点在している。
「本当に僅かだ……」
 かつての賑わいはない。人口は減り、人の心は荒んでいる。街角に、貧困が暗い影を落とし、暴力が我が物顔でのさばる。侵略の後遺症である秩序の崩壊、モラルの低下、また国家分裂による国力の減少、流通の分断、そして、山賊、夜盗の横行による治安悪化などなど、原因は数えたら切りがない。
 カフカは第一執政官の地位にあり、諸問題に対処している。カレン王女を慕って多くの文官が集まり、それらを相棒のジャンヌが纏めている。ジャンヌは海千山千の男達を、いとも簡単に、掌の上で扱う。近いうちに、行政組織の再建で、幾つかの問題は、目処[めど]がつくだろう。
 しかし、第二、第三執政官はオルレランから送り込まれた人物で、どうしても独自の政策を貫けない。また、サイア王国復活と言っても、領土は王都サイア周辺と東部の一部だけに留まる。北部はホーランド朝があり、南部はまだカリハバール帝国が支配する。経済では、ホーランドに全ての塩田を奪われた事が痛手である。
 特に軍事力の強化は急務だった。元蒼鷹騎士のローゼンヴェルトとファンダイクが、元王太孫アベールの元から、合流した点は大きいだろう。だが、シデ大公国に比べると、小粒感は否めない。
 背でドアを叩く音がした。
「ここで寝たの?」
 入ってくるなり、ジャンヌが嫌な顔をする。
「早かったな」
「送ってきたわよ」
「そうか」
 全く動じる様子もない。
「冷めているのね」
 がっかりだわ、とジャンヌは拗ねてみせる。
「泣いてみせるとでも思ったか?」
 とカフカが返すと、ジャンヌは薄く笑っただけで、ソファーに腰を下ろす。
「これで、乱世も終わりかしら。もう少し大きな獲物を得たかったわ?」
 煙草に火を点けて、言う。
「……王都サイアでは不服か?」
 カフカは窓際に立ち、ガラスに写るジャンヌに話し掛ける。
「私には狭いわ」
「……」
 カフカは無言でやや眉を寄せる。ジャンヌは自分の事を語っているようで、実はカフカの野心を代弁して、それを揶揄しているのだ。
「そう言えば、シデのナルセスの次男(ナイトハルト)に会ったわよ」
「そうか」
「なかなか賢そうよ」
「見境のないヤツだ。男なら歳は関係ないのか?」
 アルティガルド王ヴィルヘルム1世は、ナルセスとカフカに対して、人質を求めていた。ナルセスは次男を、カフカは母親をヴェルダン陣城へ差し出している。
 だが、このまま乱世が終わるとは思っていない。ランスの動きが不気味だった。どうやら受けに専念するつもりらしい。セリム1世は名うての戦上手である。どんな秘策を用意しているか分からず、決して侮れない。自分ならば、ランスから如何に誘い出すか模索するだろう。ヴィルヘルム1世は攻めて攻めて、完勝を狙っているのだろうが、無駄だと思う。要は勝てばよいのだ。しかし不意に、だからお前は飛躍できないのだ、と言う声が心の奥底からした。
「北東部の“モンベルの森”が手子摺{てこず}っているようね?」
 唐突にジャンヌが話題を転じる。毎度{いつも}の事ではある。
「ああ、ファンダイクを向かわせるつもりだ」
 北東部の山地には金鉱山があり、その麓にモンベルの森は広がる。現在は山賊の巣窟となった為に、閉山に追い込まれている。サイア王国にとって、経済的打撃であったが、それ以上に、この森の中を通って、ホーランドとサリスを結ぶ街道も存在している。元々は金の運搬用だったのもので、今はホーランドから塩や工芸品が多数サリスへ輸出されている。
 速やかに、このルートを断ち切り、鉱山を再開させたい。そのために、山賊追討の部隊が編制されていた。
「気になるのか?」
「……モンベルの森に、大きな存在を感じるのよ」
「もっと具体的に?」
「それが分からないから、確かめに行きたいのよ」
「また……直感か?」
「ええ」
 ジャンヌは臆面もなく頷く。
「放置すれば、危険よ、きっと」
「そうか。お前の感は当たるからな」
 カフカは口の端に、冷めた笑いを零す。
「だが、山賊相手にお前を出しては、鼎の軽重をとわれよう」


【モンベルの森】
「お願いだ。来週までにセリアに届けなくてはいけないんだ。開放してくれ」
「うるさい」
 荷頭が蹴り倒される。
「つべこべ言わず、一列に歩け!」
 見窄[みすぼ]らしい装束姿の男達が、ホーランドからの塩商人を襲撃した。無精髭に、髪は薄汚れ乱れている。鎧をまとっているが、一式揃っている者はなく、中には、前後を間違っている者さえいた。この森に巣くった山賊達である。
 と、森の中から、矢が飛ぶ。正確な射撃で、あっという間に、山賊達は全滅した。今度は、多少身形の整った一団が現れて、荷車と商人たちを強奪した。
 モンベルの森の奥、鉱山の労働者の街がある。整然と木造の長屋が並び、街の中心には広い広場と公園があって、それを取り囲んで、劇場、浴場、病院、銀行、そして商店が建ち並んでいる。だが、今は人も住まず、荒れ果て、草木に埋もれかかっている。その劇場に、拉致された人々が集められていた。ほとんどは商人達だったが、紺の法衣を来た巡礼の一行もいた。
「我々は義勇軍である。カリハバール、アルティガルドの侵略に対して、戦うために立った」
 若い男達が舞台の上に一列に並んでいる。そのうち一番左端が、サリス帝国軍ケイン・ファルコナー軍曹と名乗って、演説を始める。
 皆よれよれのサリス帝国軍の軍服や、傷だらけの鎧をまとっている。部隊がバラバラの所為か、どうにも統一感はない。しかし、着こなしは板に付いて、正規兵であることに間違いはなさそうである。
「我々は栄光あるサリス帝国軍の兵であった。グザヴィエ、ラマディエ、ガンベッタの三将軍閣下の下で、セリアを守っていた。が、アルティガルドの悪辣な侵略を受けて、武運拙く、この地に活動拠点を移した。だが、三将軍の志は些かも色褪せてはいない。我らはモンベル義勇騎士団を創設した。今日から諸君等も同士である。我らのリーダーを紹介しよう。ラマディエ将軍の又従兄弟のご子息であられるマルセル・ラマディエ特務曹長である。気ょ~をつけェ!」
 呼ばれて、恰幅のいい中年男が前へ出た。黄土色の髪は縮れて長く垂らしている。だが悲しいかな、頂部が薄くなり、それに本人は気付いていないようだった。
「今はサイアの簒奪者どもが、野心の矛先を伸ばして、この自由と自立の聖地にまで、攻めて来ようとしている。諸君達は我が下で、戦うのだ。心配するな。私の指示に従えば、必ず勝つ」
 熱い演説だが、誰一人の心にも届いていない。
「質問」
 紺の法衣を着た少年が二人、手を上げる。
「義勇軍の義って、誰に対してですか?」
「特務曹長って、偉いんですか?」
 あからさまに、ラマディエがむっとした顔をする。そして、舌打ちで合図を送る。ファルコナーは察し良く、舞台を飛び降りた。
「ふざけやがって!」
 ファルコナーが腕を伸ばすと、少年達の横に立つ、フード付き法衣をまとった男が、その腕を捻り上げた。
「子供相手に大人気ない」
 そして、そのまま投げ飛ばすと、徐に頭のフードを外す。赤い瞳が舞台を睨みつけた。
「早く、食事をさせろよ。こっちは三日、まともな物喰ってないんだから」
 オーギュストがふてぶてしく言い放つ。
「何~ぃ!?」
 ファルコナーが痛みに顔を顰めながら、精一杯威嚇する。
「俺の名はマックス。貴様の声など、この腐った耳には届かんぞ」
「はぁ?」
 それを「まぁ待て」制して、ラマディエが見事な口髭を擦りながら、オーギュストを見据えて言う。
「兄さん、渋いねぇ」
「爺さん、間抜けだねぇ」
 それでお互いの意思疎通が成立した。
 ラマディエは腰から鞭を取り出して、足元で一度鳴らした。硬い床が、簡単に削れる。
「一角鯨の髭か!」
 オーギュストが口笛を吹く。
 “一角鯨の髭”は、名の通り一角鯨の強靭な髭を武器に加工した物である。非常に強力な事で知られ、世界に数本しか存在しない程、貴重である。
「小僧、びびったか!」
「どうやって手に入れた?」
 オーギュストは嫌味っぽく笑って、問う。
「答える必要はなかろう」
 渋く顔を歪めて、答える。
「宮殿の宝物庫から奪ったな――」
「黙れ!」
 オーギュストの言葉を遮るように、ファルコナーが鞭を放つ。一角鯨の髭は波打って宙を走った。そして、紺の法衣が切り裂く。が、そこにオーギュストの姿はない。すでに、ラマディエの眼前に迫り、掌で額を小突く。
 ラマディエはふらふらと、バランスを崩して、後ろに倒れていく。
「おっ! もったいない」
 慌てて、オーギュストは一角鯨の髭を拾う。それから、拉致された人々に振り返って、「さぁ、飯の時間にしようぜ」と叫んだ。
「テメェ、何者だ」
「フン」
 オーギュストは鼻で笑うと、再び振り返る。
「だから、マックスだって言っている。俺が『底なしの間抜け』と叫んだ時、体内の腹黒エネルギーがスパーク、0.1ミリ秒で、脳みそがからっぽになるのだ。ではもう一度――」
「見らんでいい!」
 ふざけたように、右腕を鈎にし、そこに左腕を添えて構える。その腕を邪魔だと払い除けて、耳元でランが叱るように囁いた。
「これがふざけずにいられようか! マキシマムとは言わんが、もう少し骨のある奴と闘いたいねぇ。体もプライドも鈍る」
 オーギュストは溜め息混じりに囁き返す。
「詰らないプライドなら、捨ててください」
 ランも頭が痛いと溜め息を吐いた。それから、一歩踏み出して咳払いすると、背筋を伸ばす。
「控えろ! この御方は、シデ大公国軍ディーン総参謀長閣下でいらっしゃる」
 一同に動揺が走った。
「黙れェ!!」
 立ち上がったファルコナーが叫んだ。
「そんな大物が、如何してこんな所に居るんだ。俺たちはもう騙されないぞ!」
 そして、小さな角笛を吹いた。
 高窓を打ち破って、妖しげな大鳥が舞い込む。茶色の翼を広げて、禍々しく曲がった嘴を大きく開いて、不快な声で鳴いた。
「やれ!!」
 逞しい脚と鋭く太い爪を、オーギュストに向ける。
「本当の“一角鯨の髭”の使い方を教えてやる」
 大鳥の羽ばたきで、オーギュストの黒髪が靡いた。その奥で、赤い瞳が鋭く輝く。そして、素早く“一角鯨の髭”をしならせると、瞬く間に伸びて、一瞬で、大鳥を絡め縛る。
「はっ!」
 それから、気合と共に、オーギュストが魔力を発動させる。大鳥は絞められて、無数に切断された。
「ば、ばかな……」
 支えを失って、ファルコナーは膝から崩れ落ちる。
「俺はマックス、マックスの名が間抜けの代名詞になるまで戦い抜くぜ!!」
「はいはい、もういいですよ」
 再び構えるオーギュストの腕を、ランが跳ね除ける。そして、前へ出た。
「総参謀長閣下は、皆さんをスカウトに来ました」
 ええ、と再び動揺が渦巻く。
「だから、食事を寄越せ!」

 鉱山の迎賓館で、オーギュストは肉に喰らい付いていた。
「美味いなぁ、アン」
 一心不乱に食した後、少し落ち着きを取り戻す。そして、隣のランへ、茶を注いでやる。その時、ランの隣にもう一人少年が居る事に気付いた。鳶色の髪に、暗緑色の瞳をして、繊細そうな少年である。
「君誰だっけ?」
「何言ってるんですか!」
 ランが呆れと怒りを織り交ぜた声を放つ。
「ヤン君ですよ。ドレイクハーブン殿のご子息で、弟子にされると約束されたじゃないですか!」
 捲くし立てるランの横で、ヤンは小さくなっている。
「ホーランド脱出の手配もしてくれたのに、謝って下さい」
「お前……」
 真剣な表情をすると、オーギュストは静かに肉を皿に置く。
「だんだん大胆になってきたな」
「いいから早く」
「はいはい。ヤン、これからもよろしく頼む」
 と言って、握手を求めた。
「それもう五度目ですよ」
 そう言って、ランはヤンにサラダを取ってやった。
「俺ぐらい忙しいと、ガキの名前とか覚え切れんものだ。おお、そうだ。調度ここはモンベルだから、お前達は、『モン』と『ベル』に変えろ」
 と、オーギュストは笑いながら言う。
 ランの手が怒りに震える。そして、こいつは一度ここで殺しておいた方が良いのかもしれない、と思っていると、ヤンが耳元で「天災みたいなもの、と教えてくれたでしょ」と囁いた。
 その時、腰を低くしたラマディエが、手もみしながら、へらへらと入ってくる。
「お口に合いましたでしょうか?」
「ああ、満足したぞ。そちは今日から少尉だ」
「あ、ありがたき幸せ」
 目に涙を浮かべている。と、後ろから、女性が酒を運んで来た。グラスには可憐なスズランが添えられている。
「娘のエマと申します」
「似ていないな」
「恐れ入ります」
「これ、お注ぎしなさい」
 頭を下げたまま寄って、エマは両手を添えて作法通りに酒を注ぐ。と、突然、その手をオーギュストは掴んだ。その時、遥か後方に控えていたファルコナーが、さっと立ち上がる。今にも剣を抜きそうな勢いだった。
「冗談だ」
 高笑いして、オーギュストは手を離した。そして、じっとファルコナーを観察する。
――挑戦的な眼だ。さて……
 黄玉色の瞳が、猫科の獣の様に輝いている。そして、まるで針金のように硬そうな髪を乱雑に垂らして、粗暴な雰囲気のある男だ。
「ファルコナー、下がりなさい」
 真っ先に、エマが叱りつける。とファルコナーは返す言葉もなく、その場に跪く。
「躾が行き届かず、ご無礼をお許しください」
 エマは丁重に頭を下げる。
 エマに手を振ると、オーギュストはファルコナーを睨みつつ、一気に酒を飲み干した。

 その夜、オーギュストは迎賓館の3階を寝室とした。絨毯は深紅、と言うよりも、綺麗な赤が黒ずんだだけだろう。柿色の壁には、剥がされた絵画の跡がくっきりと残り、天井のシャンデリアは鎖だけとなって垂れている。出窓の前には、古ぼけたピアノが残されて、在りし日の栄華を微かに残している。ベッドの白いシーツは、全て新しく清潔なものに取り替えられている。サイドテーブルには、金メッキの剥げたランプが置かれて、仄かな明かりを放っていた。
 オーギュストはベッドのクッションに凭れて、辛口の酒を舐めながら、地図を眺めている。
 と、弱くドアがノックされた。素っ気無く返事をすると、ゆっくりと開いて、白い夜着姿のエマが現れた。「どうした」と問うと、エマは黙って俯く。
「そうか……」
 オーギュストは、ラマディエの冴えない顔を思い出して、鼻を小さく鳴らした。そして、「入れ」と促す。
「……はい」
 消え入りそうな声で答えて、エマは震える足を懸命に動かして、ようやく部屋に入る。そして、背でドアが閉まり、それにびくりと反応した。
「親父殿が?」
「…め、名誉と……こ、心得ております……」
「いい覚悟だ」
 地図を壁に投げ捨てると、足を被っていた夏用の布団を跳ね除け、勢いよく立ち上がる。それに、エマは一歩足を引いて、身体を固くした。
 足の先から頭まで、じっくり監察するように近付く。エマは少し眠たそうな眼が特徴的で、真面目そうな顔立ちをしている。
 オーギュストが右腕を伸ばして、頬に触れた。長い睫毛が、そわそわと揺れている。
「恐いか?」
「いいえ」
 そうきっぱりと言った。
「いい度胸だ。来い」
 左手を誘うように差し出す。エマは躊躇いがちに手を上げて、一度震える息を長く吐き出すと、手を添える。
 不意に、オーギュストが手首を強く掴む。そして、素早く引き寄せた。エマの身体がくるりと廻り、その小さな背中を抱き締める。
「あっ……!」
 夜着の胸に手を差し込む。一層強く、エマは瞳を閉じる。
 肌に触れると、小さく震える。だが、全てを諭されているのだろう。一切声を出さない。
 肌を撫でると、小さく息を吐いた。
「はぁ……」
 オーギュストは首筋に口づけをする。
 湯上りの身体は、火照り、匂い立つような色香があった。夜着を開くと、あっ、と短く声を上げて、小さく纏まるように腕をたたんだ。腕で隠された胸は顔に似合わぬ膨らみがある。
 オーギュストは、乳ぶさを下から掬い上げるように、包み込む。若い硬さが心地よい弾力を伝えていた。
――あの男、ファルコナーと言ったなぁ……
 エマの髪に鼻を埋めて、ファルコナーの目を思い浮かべる。
「くぅ……」
 揉み解され続けられ、エマは押し殺したような声を発する。
「どうした? 男は初めてか?」
 エマの口が、「はい」と動くが、音にはならない。
「気にする事はない。少しずつ馴染んでいけば良い」
 息を詰まらせながら、こくりと頷く。
 オーギュストはエマを全裸にして、うつ伏せに寝かせた。そして、背中から腰、尻と撫でまわしていく。腰は細く、脚も思いのほか長い。
「は……恥ずかしい……」
 瞼を閉じて、恥じらう仕草が可愛らしい。
「ファルコナーと言ったか? 気に入らん目をしていた。どういう関係だ?」
 一瞬、エマの表情がこわばる。そして、聞きたくないとばかりに、顔を背けてしまう。
 だが、それをオーギュストは許さない。顎から頬を挟むように掴んで、強引に引き寄せる。
「言え」
 短い言葉には、殺意を込められていた。眼前の瞳が幻想的な赤に輝いている。まるで魅入られたようで、目を背けることなどできない。魂が吸い取られるとは、きっとこのような事なのだろう、ともう一人の冷静な自分が呟く。
「な、何も……」
 オーギュストが太腿をきつく抓る。痛みが、死を連想させる。これほど生々しい死を実感した瞬間はない。
――恐ろしい……この方からは逃げられない……
 もう従うしかないのだろう。そう思うと、自然と口が動いていた。
「…お慕いしていました……」
 怯える子羊のように囁く。
「ふーん、そうか。よく言った。褒美にかわいがってやる」
 オーギュストは優しく笑うと、軽く口づけをする。そして、右手をすばやく動かして、へそから下へとなぞる。
――他人の女か……
 そう思った瞬間、熱い衝撃が背中から頭へと駆け登り、脳の中で禍々しく渦を捲く。
――どう手懐けようか・
 真白なエマの身体を、月日をかけて自分好みに染めていく。男の醍醐味であろうが、それ以上に、女になったエマをファルコナーに見せた時、どんな表情をするか、そこにこそ一番の興味があった。
 黒い情念が、思わぬ力となって、エマの腿を締め付ける。
「いっッ」
 顔を歪めて、悲鳴をあげる。だが、オーギュストの耳には届かない。勢いに任せて、エマを引っ繰り返すと、仰向けにする。
 髪と同じ黒い毛が、逆三角形に生えている。その茂みの下の潤みに手を滑り込ませていく。
 エマは息を呑んで、ただじっと肢体を硬直させていた。
 秘唇を指でなぞったが、湿りはうすい。今度は舌を伸ばして、秘唇を舐め上げる。処女独特の甘酸っぱい匂いがした。
「ひぃッ!」
 舌が深く抉った時、エマの手がオーギュストの髪を掴み押した。
 その手を荒く払い除けると、エマは怯えて手を引っ込め、顔の前で萎えて漂わせる。だが、舌が秘唇を深く舐め上げられると、再び手が下へ動く。それを何とか自制しようとして、腕が不自然に胸の前を舞った。
 オーギュストは意に介さず、丹念に秘唇を舐めまわし、自分の唾液で秘唇をなめらかにしていく。
「恐いか?」
 顔を上げたオーギュストが訊く。それにエマは首を左右に振って答えた。顔は未知の感覚に戸惑うように火照り、身体からは力が抜け落ちている。
 難なく腿を小脇に抱えると腰を埋める。先端が秘唇を捉えた。そして、ゆっくりと腰を進める。
 先端がつるんと滑るように填まる。だが、すぐに膜の激しい抵抗にあった。
「痛いか?」
 エマは激しく首を振る。瞼を硬く閉じ、眉間には鋭い盾皺が生まれている。白い歯を強く噛み締めた表情を見下ろしながら、オーギュストは笑った。
「あははは!」
 心地よい征服感と優越感があった。自分が歪んでいると思えたが、この昂揚感には変えられない。オーギュストは自分にこういう一面がある事を、改めて自覚する。
 肉棒は軋みながらも、未開の地を切り開いていく。膜を切り裂き、根元まで埋め尽くす。
「あーっ!」
 耐えられなくなって、エマが切なく泣く。
「閣下……!」
 痛みに耐えながら、オーギュストを敬称で呼ぶ。自然とエマの瞳から涙を零れていた。まだそこに、男を受け入れた甘い感覚はない。


【6月中旬、ランス】
 ペラギア占領の報告が入ったのは、蒸し暑い雨が三日続いた後だった。
 バイエルライン中将の第二軍が、ペラギアに迫ると、僅かに残っていたカリハバール守備隊が、ヴァガ山中へと逃げ出して行った。こうして、一戦も交える事なく、ペラギアの街に入城を果たす。
「おめでとうございます。皇帝陛下もお喜びでしょう」
 第四軍司令官シュヴァルツ中将がワイングラスを傾けて、祝いの言葉を言う。それに、ケーニッヒは首を振った。
「いや、まだセリム1世の首を取った訳ではない。取り逃がしては何もならん」
「そうですな。あやつには、その悪行に相応しい死を与えましょう」
 幹部たちが、一斉に頷き合う。
 ケーニッヒ総参謀長は、第四軍とともにランスに入って、第一軍が築いた砦の背後に陣を張っていた。すでに、第三軍は砦の前に展開しつつある。
「ここまでは、順調ですな」
「ああ、これからもそう願いたい」
 ケーニッヒは曖昧に笑って答えた。そして、目を伏せると、天幕を叩く雨音を聞いた。
 何もかもが、流れるように進んでいる。だが、順調とは、何か違っているように想えた。当初の予想では、セリム1世はペラギアに援軍を送り、それを契機{きっかけ}に決戦が始まる、と踏んでいた。
――主戦場はバビロン城!
 ペラギアを失って、カリハバール軍は孤立した。後は、兵糧が尽きるのを待つだけで勝ちに繋がる。どんなに硬く守ろうとも、餓えた兵は必ず内通に応じる。巧く利用すれば、兵糧を焼く事も、城門を内から開く事も容易い。
 逆に出て来るならば、野戦において、大軍の利を主張できる。ケーニッヒの手元には、7万2千の大軍を揃っている。勝つ必要はない。一度でもカリハバール軍の攻撃を退けたならば、カリハバール兵の士気はたちまち低下するだろう。
 事態は予想よりも遥かに優位となった。十中八九、勝利を確信する。しかし、油断は出来ない。相手は不可能を可能にした戦名人なのだから。
 伏せていた目を開く。天幕の至る所に昂揚した顔があり、意気込み声が「序盤を征した」と響いてくる。
 不意に、言葉にし難い不安が、勝利へと勇む心に、うっすらと影を落とす。
――もし敵に策があるのならば、偽装の撤退を企み、待ち伏せをしてくるか……
 思考を巡らせているとと、新たな報告が入る。
「ランス城から、セリム1世出陣」
 いよいよ逃亡か、将兵が沸き立つ。
「直ちに、追撃戦の用意!」
 誰かが言った。それに各々が拳を突き上げて、雄叫びを上げる。そして、雨の中をも厭わず、ぞくぞくと出陣していく。
「これで負けよう筈がない」
 ケーニッヒはそう思った。
 しかし、事態は想わぬ方向へ向かって行く。
「敵が向かって来る?」
 先行する偵察部隊からの報告を聞いて、ケーニッヒは顔を引き締めて、小さく呟く。
「どうやら、敵の大将は腹をくくったらしい……死に場所を決めたようだ」
 それから、声を張って、「全軍前進」と告げた。

 セリム1世は全軍を一本の矢に見立てて進軍する。従うのは、精鋭2万8千。
「ここは死地である。何処にも逃げ場所はない。死にたくなければ、我が背に従って、前進せよ!!」
「おお!!」
 最後の檄が飛ぶ。そして、言葉通りに、セリム1世は真っ先に駆け出して行く。雨の中でも、竜の鱗を加工した鎧が銀色に輝く。その人馬一体となった姿は、まさに一匹の竜のようである。
 全将兵がその後ろ姿を恍惚と眺めた。まるで一枚の絵画である。
「陛下に遅れるな!」
 将兵達は我先にと、この英雄物語に参加すべく、馬を走らせて行く。

 雨が上がり、ランスの原野で、両軍は激突する。
 アルティガルド軍は、第四軍を中央にして、第三軍を右翼、第一軍を左翼に大きく展開されていく。大軍で包囲して、殲滅する作戦である。
 カリハバール軍の先鋒は、レイスだった。レイスは麾下の騎兵を率いて、セリム1世の前へ突き出る。
 ケーニッヒは第四軍から最精鋭部隊を選んで、これを迎え撃たせる。
 激しい衝突が泥の大地の上で起きる。騎馬と騎馬がすれ違い、槍と槍が火花を散らす。一騎が打たれて落ちれば、たちまち、別の一騎が打ちかかって行く。絶え間ない死闘の連続で、ぬかるむ土が跳ね上げられる。これを全身に浴びて、もはや敵味方の判別すら不可能となる。
 短い戦闘だったが、力は互角。
「押し出せ!」
 そこに、後方から、セリム1世の本隊が支援を始めた。セリム1世の叱咤する声が、湿った空気を震わせる。
「焦ったな、セリム」
 ケーニッヒが吼える。明らかに、セリム1世の位置は、上擦っている。しかし、これを咎めるべきか、ケーニッヒは迷った。基本方針は、第三軍と第一軍の迂回運動を待つ事にある。包囲が完成すれば、大軍で押し潰す事ができる。また、カリハバール軍の猛攻は鬼気迫るが、何処まで持続するか疑問がある。
「防御ラインまで、先鋒を下げよ」
 そして、他の部隊と併せて、三段の厚い陣形で守りを固める事を決断した。
 だが、これをセリム1世は待っていた。
「消極は気の弛みである! 勝利の女神は勇者のみに微笑む! 突き出せ!!」
 セリム1世は、レイスに代わって、ジュスを前に出して、一気に畳みかけていく。
「もう少しだ。もう少し耐えよ!」
 前線で、アルティガルドの各指揮官が、懸命に叫ぶ。厳しい戦いだったが、自分たちが着実に勝利に近付いている、という手応えがあった。この一時期さえ凌ぎ切れば、包囲は完成するのだ。だが、だからこそ、自分だけが無理をしたくなかった。折角の勝ち戦で、無駄死をしたくなかった。それが本人達も気付かぬうちに、微妙に体の動きを鈍らせていく。
 対して、カリハバール兵は昂奮が精神の限界を超えていた。
「前へ、前へ! 後はセリム1世陛下が拾ってくださる!」
 一瞬の感情の綾が戦局を左右する。
 アルティガルドの三段構えを、ジュスは錐で突くように、貫いていく。それにセリム1世の本隊が、切り傷を抉るように続いた。
 第四軍は成す術なく、瞬く間に中央を突破された。これを見て、第四軍司令官シュヴァルツ中将がケーニッヒに進言する。
「セリム1世は後方に出ました。我々は挟撃の危機ではありますが、逆に敵も戦力分断の危機にあります。セリム1世は孤立しています。私が陣頭指揮して引き付けます。その間に、両翼の軍に対して、反転の指示をお出しください。必ず勝ちます」
 シュヴァルツは昂奮している。
 だが、ケーニッヒはまずは総司令部の安全を考えた。総司令部を失えば、大軍は混乱して、烏合の衆になってしまう。それを危惧したケーニッヒは、まずは総司令部を、近い第三軍へ移す作業を優先させた。それから、改めて包囲網を完成させるつもりでいた。
 その間に、第四軍の後背で、カリハバール軍は左右に広がる。中央突破による混乱、さらに、前後からの挟撃で、第四軍は予想以上の速さで瓦解していく。
 一方、アルティガルドの第三軍と第一軍の司令官は、いきなりの第四軍の窮地に驚愕していた。
「何とかできんのか!」
 第一軍司令官デリンジャーが怒鳴る。カリハバール軍の側面を攻めたくとも、両軍の間には、草の生い茂る沼地が広がり、進撃できない。
「泥沼は深く、侵入するのは危険です」
「謀られたかぁ!!」
 デリンジャーは、戦場の地形を確認して、絶叫する。
 この付近は遊水地で、長雨の後、川から大量の水が流れ込む。セリム1世はランスの地形を調べ尽くした上で、ここを決戦の場所と選んでいた。
 だが、どんなに歯軋りしても、もう後の祭りである。デリンジャーは決断した。
「沼を越えて、側面攻撃する」
 足場の悪い沼地を越えての戦いは、非常な困難を伴う。足が沈んで身動き出来なくなれば、兵士は単なる的に過ぎない。
 それでもアルティガルド兵は臆する事なく、上官の命令に忠実に従う。泥沼へ恐る恐る足を入れて、のろのろと進み始めた。
「愚者も勇者も紙一重か。だが、俺に勇者は一人。側面へ矢を集中させろ!」
 そこに、残っていたレイスが、矢を射掛ける。タイミングとポイントが、見事に合致して、最も効果的な攻撃となる。
 たちまち第一軍に、大きな被害を出した。死者を盾にしながら、懸命に前へ進もうと努力するが、乾いた地は遥かに遠く、一向に辿り付ける気配はない。
 また、第三軍司令官バーンシュタイン中将は、躊躇していた。
「デリンジャーのような、無謀な行動に出ることが出来ない。いっそバビロン城を強襲してみるのも、手なのかもしれない」
 そこへ、ケーニッヒが第三軍の方へと移動中という報せが入り、取り敢えず、その援護に専念した。
「残兵に構うな。戦いは終わっていない。次の戦場へ向かうぞ!」
 セリム1世は、ケーニッヒが想定したよりも迅速に、第四軍は崩壊させた。そして、湿原へと散って行く第四軍の掃討を禁じて、続けて第一軍の後背へ移動する事を命じる。
 カリハバール軍は、第一軍を無理に突破しようとはせず、外側を掠めるように進む。もはや、体力の限界に達しているのだろう。騎馬の動きは鈍い。
 それをデリンジャーは見抜いていた。一人、前線に立って、剣を振り、声を枯らして、兵を叱咤激励し続ける。
「怯むな!」
 しかし、デリンジャーの声が虚しく響く。背中から攻められて、第一軍は浮き足立っていた。沼地では約半数の兵が、立ち往生している状況では、まともに戦線を維持できない。
 そして、無情にも、流れ矢がデリンジャーを襲う。呆気ない最後だった。それから、第一軍は流れ打って崩れて、脆くも瓦解した。
 その頃、ケーニッヒはようやく第三軍と合流を果たし、体勢を立て直しつつあった。
「セリム1世は疲労の極限にある。損害など気にせず、攻め続けよ」
 必死に笛を吹いたが、目の前で二つの軍が撃破されて、第三軍の士気はすっかり低下していた。
 また、セリム1世は、ここでも逃げ惑う第一軍の敗残兵を無視して、騎馬を走られつづけた。素早く戦場を離脱して、バビロン城の門の奥へと、悠然と引き上げて行く。その直後から、また雨が降り始めた。
 ケーニッヒは冷め切った自軍の雰囲気に、戦いの継続を諦める。そして、軍勢を元の陣まで引いた。
「デリンジャーは惜しい事をした……」
 第一軍司令官デリンジャーの戦死は大きな損失ではあったが、まだ致命的な敗北ではない。セリム1世が掃討戦術を行わなかったおかげで、多くの将兵が生き残っている。第一軍と第四軍は再編制して、シュヴァルツ中将に預けた。一敗地に塗れたが、まだまだ戦力に余裕があり、さらに、補強路の遮断を維持している。最後の勝利は揺るぎないだろう。
 それから、三日雨が続く。


【カッシー】
 敗戦の報告を受けて、ヴィルヘルム1世は激昂した。
「何たる不様!」
 思わず、報告書を丸めて、使者へ投げ付けてしまう。恐懼[キョウク]した使者は、ただ、床にひれ伏したまま、雷に打たれたように震えていた。
「もうよい!」
 吐き捨てるように言って、ヴィルヘルム1世は奥へと下がる。
 それを、ナルセスの次男ナイトハルトは、よく意味も分からず眺めていた。
「おい」
 と、小姓の教導役に呼ばれて、ようやく立ち上がった。
 十人の小姓がヴィルヘルム1世の後ろを一列になって進む。その中には、カフカの甥もいる。全員、人質のようなもので、教導役は“刀根小次郎”と言いワ国人だった。非常に小柄で、目が線のように細い。髪型、所作、喋り方などの外面が、異常なほど堅苦しいのは、人質生活の中での処世術なのだろう。
 その小次郎に引っ張られて、ヴィルヘルム1世の背中を見ながら、奥へと向かった。廊下に並んで控えていると、室内から、またヴィルヘルム1世の罵声が聞こえてきた。
「ベレンホルストの推薦だったから、期待していたものを。奴も老い耄[ぼ]れたな」
「まあ」
 豪勢なシャンデリアの下、白いソファーで、ヴィルヘルム1世は女を膝の上に頭を置いていた。女の名はアゼイリア・ド・ベアール。セリア帝都守護リシャール・ド・ベアールの娘で、ヴィルヘルム1世の側室となっていた。まだ18歳だったが、顔立ちからは幼さが消えて、端正に整い豊かな黒髪と翡翠の瞳が、美女の片鱗を感じさせる。また、胸と腰まわりはふっくらとして、実に女らしい身体つきをしている。漂い始めた女の色香は、ヴィルヘルム1世を満足させ、寵愛を受けていた。
「しかし、いい機会かもしれん」
「何が、でございますか?」
「うむ?」
 ヴィルヘルム1世は、優しく微笑むと、アゼイリアの柔らかな太腿を撫でる。
「余は、ベレンホルストの操り人形で終わるつもりはない」
「……?」
 きょとんとするアゼイリアの顔に手を添える。
「男は父を越える、と言う事だよ」
 益々、アゼイリアは首を傾げる。
「お前はかわいいなぁ」

 翌日、ヴィルヘルム1世は出陣する。近衛約三千を伴い、目的地はランス盆地を見下ろす悪水峠。そこに布陣した。
「峠に王旗を並べよ。我が兵を慰撫するのだ」
 峠の岩に腰を下ろして、盆地の底にあるバビロン城を見ろして、叫ぶ。
「そして、セリム1世に、我が存在を見せ付けよ!」

 しかし、これは足元のケーニッヒにとって、大きな重圧となった。
「えーい、もう一度セリムを引き摺り出せ!」
 雨の中にもかかわらず、何度も、軍を動かして挑発したが、セリム1世は微動だにしない。ただ虚しく、ケーニッヒの金切り声だけが、池沼に波紋を刻む。そして、むせ返る暑さの中で、ケーニッヒは病に倒れた。


【モンベルの森】
 早朝、モンベルの森にも雨が降っていた。窓から外を眺めると、山腹を削って人工的に造られた街であるから、雨水は濁流となって、家々の間を流れている。幼い少年少女が、裸同然ではしゃぎ回っている。
「皆、孤児{みなしご}です」
 背後から声がして、オーギュストは振り返る。エマは白いシーツを羽織って立っていた。
「行き場がなくて、ここに流れ着いた者達ばかりです……」
「親父[おやじ]殿が面倒を?」
「はい」
 小さく頷く。
「顔はああですが、案外に面倒見がよいのです」
「なるほど」
 言うと、腕を伸ばして、エマを呼び寄せる。そして、肩を抱いた。

 朝食の後、オーギュストは倉庫を見て廻る。ずらりと並んだ、魔剣やら魔防具に、オーギュストは唸った。
「全部、盗んだ物か?」
「いいえ、故ラマディエ将軍が合法的にコレクションされたものばかりです」
「合法だが、道義には劣るのだろ?」
「……」
「戯言だ。忘れろ。困らせるつもりはない」
 エマが沈黙すると、オーギュストはその腰に手を廻す。そして、先へと歩き出した。これほどの品々をセリアから、運んで来ていながら、一切手を付けていない。律義と言うか、小心と言うか、オーギュストは少し面白く思う。
 二人は一番奥で足を止める。
「シャルル1世の黄金の鎧です」
「ああ、前にオークションで見たぞ。確か、黄金の鏡面処理材が、魔術波減衰効果と距離勘幻惑効果をもたらしているとか?」
「はい、私(わたくし)も、その場に居りました」
「そうか……前に会っていたか」
 オーギュストはエマの瞳を覗き込んだ。エマはすぐに伏せる。
 その時、外で馬の嘶きがする。その声に誘われて小さな窓から外を眺めると、馬場でファルコナーが馬の体を洗っている。鳥だけでなく、馬などの管理も彼の役目である。
 その馬にオーギュストの眼が留まった。
「あれは……?」
 他の馬とは、全く存在感が違った。ただ嘶くだけで、威厳のようなものを漂わせる。銀色の鬣を震わせて、しなやかな体付きが、躍動感に溢れている。
「まさに天馬だ」
 衝動的に、オーギュストは駆け出る。傍によって見ると、益々その逞しさに見惚れた。
 気付いて、ファルコナーが恭しく跪く。
「名は?」
「“リトルバスタード”と申します」
「セリア一の名馬と謳われた、駿馬バスタードの子です」
 と、追い付いたエマが説明を加える。
「ほぉ」
 オーギュストが唸った。
「こちらも、お受け取り下さい」
「ああ、頂こう」
 オーギュストは瞳を輝かせて、その首筋を撫でた。
 ファルコナーは黙って下を向くと、口の端で笑った。
 と、突然、門の方が急に騒がしくなる。間もなく門番が、「サイア軍だァ」と叫び出した。オーギュストは早速馬に跨る。いきなり、リトルバスタードが跳ねた。それを見て、ファルコナーは仲間たちに視線を送って、「それ見た事か」と冷笑する。
「静まれ!」
 オーギュストが一喝する。
 しばらくの後、リトルバスタードは静かに頭を下げた。
「よし、いい子だ」
 オーギュストは弓を受け取ると、助走を付けて、柵を飛び越えていく。それを、ファルコナーは唖然と見送った。
「あれは見た事がある」
 サイア王国軍の旗の下に居る人物を見て、オーギュストは首を捻った。そして、微妙に赤い瞳が点滅する。
「おーい、ファンダイク!!」
 それから、顔がぱっと晴れると、大きな声で呼びかけ、さらに大きく手を振った。
 一方のファンダイクは、暫し訝しがっていると、「ポーゼンで一緒だったディーンだ」とさらに聞こえて来る。それでファンダイクの顔が蒼褪めていく。
「あ…悪夢だ……」
 まさに蛇に睨まれた蛙のように、身動きできない。
「なんです、あの若造は?」
 横から副長が声をかける。
「攻撃開始しますか?」
「止せ!」
 咄嗟に、叫んでいた。怪訝そうな部下の顔が集まる。
「全滅するぞ!」
 眼を剥いて必死に訴える。
「あの若造が、ですか?」
「アイツは子供っぽいふりをしている時が、一番恐ろしいんだ」
 それから、慌ただしく退却を告げる。ぽかんとする部下達を無視して、馬を反転させようとすると、兜の飾りが吹き飛ぶ。確認しなくても分かる。オーギュストの矢に射抜かれたのだ。
「おーい」
 死神の鎌を首に当てられたような気分で振り返ると、屈託のない笑顔で、オーギュストは次の矢を番えている。
「おーい、思い出したかぁ? 弓が得意のオーギュスト君だよぉ。話があるんだ。こっち来いよ」
「来いって……」
 もうファンダイクは、恐怖で失禁していた。
「死ぬかもしれません……お母さん……」


続く
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Date:2011/11/11
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