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第十八章 怒髪衝天

第18章 怒髪衝天


【神聖紀1224年3月初旬、オルレラン】
「痛ぁ~あぁ!? あれ、ありゃ、敵は……いないのかぁ~はぁ~」
 突然大きな悲鳴を上げると、びくりと魚が跳ねたように、マックスは体を起こした。
「どうした?」
 すぐに闇の中から聞き慣れた声がする。
「夢か~ぁ、まだ眠ぃなぁ~」
 寝惚けまなこを手の甲で擦って、大きく欠伸する。それから、改めて声の主を見た。
「リューフか?」
 周囲は真っ暗で、正確に様子を把握する事ができないが、粗末な窓の横に、屈強な戦士らしき影がある。
「おい、リューフだろ?」
 もう一度声を掛ける。
「ああ」
 鮮やかに輝く美しい星空を背景に、人影は振り返らず、しばらく時間差をおいてから、低く唸るように答えた。
「そうか。……はぁ――」
 安心したように、マックスは大きく息を吐き出す。と、尻の下から、涼しい風が吹き上げてくる。感触で、湖からの風だと分かった。
「全く、嫌な夢を見たよ。病院で寝ていたらさ、お前がさ、踏み込んできて、『ギュスを迎えに行くから船を出せ』って言うんだ。結局、有無も言わさず、高速艇に投げ込まれて、セレーネ半島へ出発したんだが、オルレランで、『人に会うから少し待て』って言い残して別れたんだよ。たぶんナバール男爵の未亡人に会いに行ったと思うんだけど、帰ってきた時には、オルレラン兵をわんさか引き連れていたんだ。『どうしたんだ?』と俺が聞いたら、『公爵を殴った』って言うんだ。ははは、面白いだろ。で、俺は光の戦士に変身して、必殺技で雑魚どもを蹴散らし、ぐずなお前を守って、古ぼけた灯台に逃げ込むんだ訳よ。ちょうど、こんな木造で……隙間風がぴゅーぴゅーと……え???」
「そいつは面白いな。夢でいいから、ヒーローなお前に会ってみたいよ――」
 パチンと切れる音がした。
「ちぃ、最後の弓も切れたか!」
 リューフは舌打ちすると、持っていた弓を足元へ投げ捨てる。その弓は転がって、マックスの足元で止まった。
「どう言うこと?」
 ぽかんと口を開けて、首を傾げる。しかし、どんなに考えても、真っ当な解答を得ることはできず、首は捩じ切れる寸前までいく。
 そんなマックスとは関係なく、リューフは愛用の青竜偃月刀を手に取った。
「今宵の月が、最後の月となるだろう……お前も良く見ておけよ。」
 刃に、湖面近くの月を写す。だが、すぐに雲が隠してしまい、リューフは哀愁のある笑みを浮かべた。
「ある筈がない。ある筈がない。ある筈がない。ある筈がない。そんな事、ある筈がない……」
 マックスは全身全霊を使って、ある絶望的な空想を打ち消そうと懸命になる。そして、恐る恐る窓の外を覗き見た。
 灯台の立つ岬をびっしりとオルレラン兵が埋め尽くしている。そして、強面の騎士達が、『降りて来い、コラァ!!』『沈めてやる!!』と怒鳴っている。
「ひぃ~~~ぃ!!」
 顔面を蒼白にして、悲鳴を上げた。
「マックス、ここまで来たら、サーガに残る戦いをしてやろうぞ!!」
 リューフは青竜偃月刀を大きく振った。そして、突き出すようにして、ぴたりと構える。
「天よ聞け、地よ聞け、人よ聞け。我が名はリューフ、リューフ・クワント! シデ大公国、最強の騎士だ!!」
 勇猛に見得を切った後、『次はお前だ』とマックスへ真摯な瞳を向ける。
「……ありえん」
 マックスはがっくりと腰が砕けてしまった。
「シャイニング……何とかを出してみろ!」
 煽るリューフの腰にすがり付くと、両目を涙で一杯にして、必死に首を横に振りつづける。
「無理無理無理……無理だってェ~」
 このマックスの絶叫は、満天の星空に吸い込まれていった。


 ティルローズはサッザ城から、オルレラン公国へと移動した。そして、オルレラン公メルキオルレと会見を行い、シデ大公の襲爵とシデ大公国の承認を求める。メルキオルレは当初、会見での即答を避けるような気配を見せていたが、ティルローズがサッザ城管理権譲渡などを匂わせると、両国の相互支援体制の継続を確約した。この発言で、シデ大公国は広く認知されるようになる。
 港では、オルレラン艦隊が誇る新鋭超大型戦艦の二番艦が、進水式を迎えていた。
「隣に停泊する超大型戦艦アンドロメダ級一番艦に続いて、ついにこの二番艦“大マゼラン”も完成した。オルレラン艦隊の威光がエリース湖に永久の平和をもたらすであろう」
 公爵の三男ティモテオが、高らかに、オルレラン公国の栄光を宣言した。しかし、シャンペンを何度叩きつけても、割れる事はなく、式場に不吉な雰囲気を漂わせてしまう。
 それを吹き払うかの如く、軍楽隊の演奏、道化のショー、オペラ歌手の歌など、式典は華やかに進行していく。一方、岸壁には赤い絨毯が長々と敷かれて、そこを紳士淑女が派手な衣装を競い合って行き交う。まるで仮面舞踏会のような光景だが、観光客には一見の価値はあるだろう。
 この夜の第一の賓客は、ティルローズに違いない。今や彼女は、悲劇の皇女から、時代を担う若き覇者へと進化を遂げて、その一挙手一投足に、誰もが注目する存在となっていた。そして事実、彼女の登場で、宴は最高潮に向かえる。だが、まるで出し惜しみするように、挨拶を済ませると、早々に着替えの為と言い残して、控え室へと下がってしまった。
 薄暗い室内に、湖面の上に浮かんだ月の銀光が差し込み、触れ合う二つの顔を照らし出している。
「もうすぐ、迎えが来るわ……」
 ティルローズが震える声で告げる。
「やっと二人っきりになれたと言うのに……つれないお言葉」
「へへ……残念でした」
 はにかむように笑う。
「じゃ、もっと濃厚に楽しまなくちゃ」
 オーギュストも笑い返した。
「そんな……ダメよ…変に思われるわ……」
 長い睫毛が小刻みに揺れて、潤んだ瞳で扉を見詰める。
「ティルには、たまらない刺激じゃないの?」
「そんな訳ないでしょ……あん」
 オーギュストは左手を開いた胸元から差し込み、整った右の膨らみを握り崩す。それにティルローズの言葉は途切れて、甘い吐息へと変わっていく。
「あーーッ、はひぃ、ま、またっ、やんっ」
 窓際の椅子に向かうような形で、ティルローズはオーギュストの上に跨って座っている。清楚な筈の長いロングスカートは、一旦腰まで捲し上げられて、その後に太腿から床へ垂れ落ち、二人の繋がりを隠している。
「あはぁ……だ、めっ」
 自らも腰を振りたてて、柔らかな粘膜に肉棒に押し付ける。膣肉が抉られる感触は、ティルローズを悦楽の世界へと導いていった。
「は……あぁァッ!」
 すとんと腰を落とすと、さっと顔が淫らに輝く。ぐぃと腰を持ち上げると、辛そうに眉間に皺を刻む。擦れ合う肉と肉の結びつきは、一瞬の火花のようで、背筋を妖しげな衝撃が駆け昇っては、脳をも甘美に痺れさせていった。
「…すっ…ご……」
 ティルローズはオーギュストの肩に顎を載せる。そして、腕を然も愛[いと]おしそうに、オーギュストの頭に巻きつけた。
 淫らな尻の動きで、肩紐が片方だけ落ちる。晒し出した椀型の美乳には、オーギュストの指がからみついて、執拗に桜色の乳首を摘んだ。
「どうした。もう止めようか。扉の外に誰か来てるんじゃないのか?」
「そんっ…なッ……ひど……ぃいい~~い!」
 語尾で大きく息を吸い、声が妖艶に震える。品のある顔は、恍惚に火照って、弛んだ口元からは、涎さえ垂れている。
「あ、ああ…あああ、あぅッ!」
 すすり泣きを洩らすと、脚を足先までピンと伸ばして、本能の赴くまま、美しい尻を小刻みに痙攣される。それを聞いて、オーギュストは括れた腰をがっちりと掴んだ。そして、呼吸を合わせて、下から突き上げる。もはやティルローズの可憐な口からは、意味をなす言葉は出てこない。ただ切れ切れの喘ぎ声が、悲鳴のようにもれている。
「ひ、いいぃ、ぃひいーーーーーッ・I」
 ティルローズの首が後ろに、がくりと折れた。手が宙を掻いて、思わずカーテンを掴む。その瞬間、ティルローズの知性が崩壊した。白目を剥くと、激しく悶絶する。
「はぁ……ああ……」
 そして、白く熔[と]けて行く思考の中で、「白く汚れたペニスを舐めて綺麗にして上げなくては」と呆然と想った。


 窓のない狭く長い廊下で、無数に連なった蝋燭の火が、僅かに揺れていた。
「こちらね」
 カテリーナ・ティアナ・ラ・サイア(カレン)は侍女に微笑む。亜麻色の長い髪を編み上げてまとめて、その幼さの残る丸い顔には、清楚な優しさが溢れている。
「ティルローズ様、ティモテオお兄様がお話があるとか。別室にお越し頂きませんか?」
 扉をノックして、声をかける。しばらく待ったが、返事がないので、もう一度声をかけようとする。と、扉の鍵が外れた。
「ちょっと待って」
 気さくな、ティルローズの声がした。言葉にはやや笑いが含まれているようで、特に最後の方では、少しくぐもっているようにさえ感じられた。カレンは若干不思議そうに首を傾げると、扉の開くとのを静かに待つ。
 男女の小さな笑い声が重なって、先に燕尾服姿のオーギュストが出てくる。白い蝶ネクタイを几帳面に調整していたが、カレンに気付いて、笑顔で軽く会釈した。
 そして、僅かに目が合う。
 カレンはやや頬を赤らめて、慌てて俯く。そして、短い間の後に、上目使いで見詰めた。
「昼間はありがとう」
「い、いえ、こちらこそ。素敵なダンスでした」
 カレンは瞳を輝かせる。
 昼間、二人は舞踏会で踊っていた。旧サイア王女であるカレンに、ダンスを申し込む男は多い。しかし、どれも年長者ばかりで、17歳のカレンには不釣り合いに思えた。その時、オーギュストが進み出る。
 18歳のオーギュストとカレンの組み合わせは、初々しく、誰もが爽涼を覚えた。そして、奏でられる三拍子の優美なリズムの中で、さわやかに踊る二人を中心に、いつしか輪ができ上がっていく。和やかな眼差しと手拍子に励ませて、二人はぴったりと息の合ったダンスを披露し続けた。
 オーギュストの巧みなリードに導かれて踊る中で、いつしか有頂天と呼べるほどの快感が、カレンを包み始めていた。そして、曲の終わりと同時に場内が喝采に沸くと、人知れず恍惚とする。
 ダンスの後、カレンはオーギュストに悩みを相談した。
「カフカ・ガノブレードは支城の攻略を終え、いよいよ王都サイアへ向かっています。私(わたくし)にも、サイアへ出向くように要請がありましたが……いえ、決して怖気ついるのではありません。私(わたくし)も伝統あるサイアの王女です。覚悟はできています。しかし、良く仕えてくれる者達に感謝はしているのです……ですが……」
「部下の、特に騎士達の気持ちが分からない、と?」
「はい、そうです――」
 暗い表情が、俄かに晴れる。
「ご存知のように、サイアは文治主義の国でした。私は戦う騎士というものを、身近に感じた事がなく、よく理解できないのです」
「何も難しい事はない。あなたと何も変わりませんよ」
「しかし、時に彼等は容易く命をかけます。戦い、敗れれば、忽ち自らの命を断つ……少し恐ろしいのです。戦いとはそれほどに重く、敗れるとはそれほどに羞恥な事なのでしょうか?」
「何も、戦い敗れる事は恥ではない」
「しかし」
 焦るカレンに、オーギュストは優しく諭す。
「恥とは、いざという時に、持てる力を全て出し尽くせない事。これこそが騎士の恥。そのために、日々の習練に励む。そして、先達の技の境地へと挑んでいく。騎士が自らの死を選ぶ時、それは敗れた羞恥ではなく、先達の技を越えられなかった場合。騎士はその時初めて自らを羞じて、そして、後に続く者達へ、その道の険しさを、死を以って示す。勝ち負けに何の意味もない」
 カレンの心を、すっと一陣の風が通り過ぎた。そして、揺れざわめく樹木のように、胸が打ち震える。もう不安の暗い影は心の何処にもない。春の青空のように、暖かく明るく晴れ渡っている。
――ああ彼に感情を染められていく……
 見詰める瞳が熱して、もはや締め付ける苦痛に似た憧憬を、どうする事もできない。
 と、ティルローズが、ティアラの位置を気にして出てくる。ドレスは、パールのような輝きを放ち、背中は腰の辺りまで開いている。
「お待たせしました。ワインを落として、割ったものだから」
 雅な笑みで、ティルローズはカレンに語り掛ける。
「そうでしたか」
 カレンも遜色のない同様の笑みで受けた。そして、再び、従兄のティモテオからの誘いを伝える。それをティルローズは快諾する。


 カレンに案内されて、オーギュストとティルローズは、艦橋にある会議室へ向かった。会議室の手前には待合室があり、ティモテオの従卒や、謁見待ちの者達が八人ほど待機していた。
 ティルローズの姿を見て、「お待ちしておりました」と、小さな机に向かっていたティモテオの秘書が立ち上がる。そして、「お付きの方は、ここで」とオーギュストを制して、ティルローズとカレンだけを会議室へと入れる。
 オーギュストは壁の棚から雑誌を取り、長椅子に座って脚を組んだ。と、いそいそと従者達が待合室を出て、代わって、屈強な男達が13人ほど入って来た。皆、にやにやと笑って、オーギュストを見ている。それに、オーギュストは雑誌の影で「面倒だな」と囁いた。
 会議室は、然程広くない。中央に一枚板の卓子があって、その周りは人が一人歩けどの空間しかない。窓は一つ、入って左側にあった。奥にはオルレラン公国の旗、右壁には大きな世界地図が張ってある。
「ようこそ。我が大マゼランへ」
 卓子の奥から、ティモテオが両手を広げて、親しげに挨拶する。豪奢な金髪の巻き毛の男だが、太い眉が焦げ茶色をしているので、おそらく染めているのだろう。
「困った事が起きましたぞ、ティルローズ大公妃殿下」
 席を勧めてから、ティモテオはやや芝居がかった風に、太い眉を寄せた。
「如何したのです?」
 姿勢正しく座ると、ティルローズは落ち着いて問う。その横に、カレンも座った。
「実は――」
 やや勿体振って、ティモテオは話し出した。
「リューフ・クワント殿が、公爵の列に乱入して、公爵を殴り、新しい側室を連れ去ろうとしました。結局は、拉致に失敗して、独りで逃亡したのですが……」
「それで、リューフは?」
「岬の古い灯台に、追い詰められています。公国の沽券にかかわりますので、死は免れないでしょう。そして、あなたもここを離れる事はできない」
 突拍子もないの話に、ティルローズは平静を保てない。兎に角、情報を整理しようと、目を伏せる。
 と、それに勝機と、ティモテオは身を乗り出した。
「そこで、です」
「……?」
 瞳を上げると、ティモテオの意気込んだ顔が飛び込んでくる。思わず、ティルローズは僅かに身を退いてしまった。
「私が取り成しましょう」
「え?」
 想わぬ申し出に、はしたなくも、ぽかんとティモテオの顔を見た。
「何、難しい事ではない。私が口添えすれば、公爵の誤解も解けよう。そして、これを機に、我々はより深く協力し合える」
「……」
 俄かに真意をくみ取れず、ティルローズは小首をかしげる。それをティモテオは愉快そうに眺めていた。
「シデの後見人に、このオルレラン公国軍総帥の私がなりましょう」
「え……?」
 余りに自信たっぷりのティモテオの顔に、ティルローズは唖然として、2度3度と瞬きをした。
 その表情を見て、ティモテオは、ティルローズの度肝を抜き、完全に交渉の主導権を握った、と確信する。しかし、オルレラン公国軍に総帥という職名はない。公国軍の総司令官は、公爵の孫イッポリートが就任している。つまり、ティモテオは後継レースから一歩遅れてしまっているのだ。そこで、総司令官に匹敵する曖昧な表現として、総帥を自称していた。
「私達が、オルレランとサリスの絆となるのです。それだけでなく、もし男子誕生となれば、立派なサリス帝国の後継者の資格有する。旧サイアの王太孫と結びついた姉君にも対抗できましょう」
 怪しげな目つきと口調で、ティモテオは一気に畳み掛ける。
 この時の世界情勢として、カリハバール追放後の秩序再建に、新しい動きがあった。それは、良識的な学閥“聖森派”の知識人達を中心として提案された物で、カール5世の後継を選挙で選ぼうというのである。そして、“選帝侯”と呼ばれる選挙権を有する有力者の名が幾つか上がり始めていた。その中には、シデ大公妃ティルローズの名も当然ある。この美しき独身女性を射止めれば、一気に権力の中枢に近付く事ができるのである。オルレラン公爵家の後継争いに、一周遅れのティモテオにとって、これほどの好機はなく、現実問題、彼も必死だったのである。
「ちょっと、お兄様。失礼ですよ」
 それに、カレンが声を荒げた。
「これが政治なのだよ、カレン。お前に見せたのは、乱れたサイアへと旅立つお前に、年長の従兄としての贐[はなむけ]だ」
「そんなものいりません」
 カレンは大いに気を悪くして、精一杯顔をふくらませる。
 と、ティルローズは笑い出した。
「可笑しいですか?」
「申し訳ございません。しかし――」
 ハンカチで口元を押さえると、ティルローズは2度咳をして、気持ちと表情を引き締めた。そして、いとわしそうに言い放つ。
「失礼ながら、あなたは“月の影取る猿”ですね」
「猿? 随分な、言い様ですな」
 一度視線を横に外すと、太い眉の端を微震させる。それでも、ティモテオは自分の優位を疑っていない。
「水面に映った月を取ろうと、無理に手を伸ばせば、足元の枝は折れ、溺れ死にます。悪い事は言いません。身を滅ぼす前に、身のほどを知りなさい」
 ティルローズは彼女なりに、最大限、誠意を込めて言ったつもりだった。
「私はオルレラン軍の総帥だ。世界の力の大半を支配する男――」
 だが、古代の暴君さながらに、ティモテオはすごむ。
「これからは、俺に従えばいい」
「……下らない。そんな陳腐な言葉を聞くなんて、がっかりしました」
 ティルローズは美しい顔にむっとした不快な色を加えて、さらに声にも怒りを滲まれる。
 対してティモテオも、品のよかった目を三白眼に変えて、見せ付けるようにゆっくりと手を持ち上げると、徐に一度叩く。
「ご自分の立場が、よく理解できていらっしゃらない様子。私がセレーネ半島中から集めた、最強の13人衆が、隣の部屋にいる。今頃君の護衛を八つ裂きにしているだろう。迂闊だねぇ。護衛があんな若造独りとは、所詮は女か?」
 ティモテオは勝ち誇ったように、ふんぞり返って、低く言い放つ。しかし、いつまで経っても、隣から物音一つ立たない。ついに苛立ちを隠し切れなくなり、小さく舌打ちすると、もう一度手を叩いた。
 と、ようやくに扉が開いた。それにティモテオは僅かに安堵の息を吐く。しかし、その扉の影から現れた男を見て、忙しく表情を変えた。
「もういいの?」
 ティルローズは然も当然とばかりに、オーギュストに話し掛ける。
「はい」
 一度ティルローズの背後に立って、その肩に優しく手を置く。それにティルローズもそっと手を添えた。
「ば、ばかな。十三人衆は……如何したのだ? 我が命に背いたのか!」
 狼狽して、ティモテオは叫ぶ。そして、不様にも、椅子から転げ落ちそうになった。
「その言いようは可哀想だ。皆忠実でしたよ。ただ姫君が二人もおられる。血で穢[けが]す事もなかろうと思って、そこで少しばかり人生を休んで貰う事にした」
 オーギュストは何事もなかったように、整然と言う。それから、卓子と壁の狭い間を廻って、窓を開けた。
「ば、馬鹿な……俺を殺すつもりか。俺はそ、総帥だぞ。オ、オルレランが黙っていないぞ!」
 顔に汗が滲んで、頓狂な声で叫ぶ。
「だから、場を汚さないと言った」
 オーギュストはティモテオの首根っこを掴み上げると、窓へと放り投げる。それから、喉が潰れるほど泣き喚いて何とか踏ん張ろうとするティモテオの頭を押さえて、水面へと押し出していく。
「しぃー、静かに。二度とは言わん――」
 そして、宙ぶらりんになったところで、一度止めて、耳元で囁く。
「俺の女に手を出すな。次は殺す」
「わか、わかぁ~ぁ…………ぁ」
 言い終わると、返事を待たずに、あっさりと手を離す。叫び声が徐々に小さくなって、終には、大きな水音となって消えた。
「ご苦労、褒めてつかわす」
「ありがたき幸せ」
 型通りの主従儀式を行うと、二人は弾けるように笑い出した。
「でも、本当かしら」
「たぶんな。ナバール未亡人を、公爵が絡め取った話は聞いた事がある」
「……そう」
「しかし、総帥と言う肩書きはカッコいいなぁ~」
 その一部始終を、雷に打たれたように身じろぎ一つせず、カレンは見詰めていた。もはや驚きを通り越して、心は無に至っている。
――な、何……
 と、今までに感じた事のない、不思議な感情が、水のように流れ込んで来た。それが小波{さざなみ}立って、柔らかな心の壁を荒く削り、その谷間に、熱泉のように激しく沸き立つ澱みが、堅くこびり付いた。
 そして、カレンが、この感情の正体を理解するには、まだまだ時間を必要とした。


 灯台には幾本もの梯子が掛けられて、続々と騎士が登っていく。
「もっと落とせ!」
「もう何も残っていない」
 マックスが悲鳴に似た声で叫び返す。
「ここまでか……」
 荒い息を吐きながら、リューフが唸る。
「お前が諦めたら、俺は如何なんだよ……?」
「し、しかし……」
 苦く顔を顰める。と、マックスの顔が赤く染まっていることに気付いた。
「火?」
「へ?」
 リューフは素早く振り返り、そして、ニヤリと笑った。

 巨大な火の塊が、灯台へと突き進む。と、騎士達は「アンドロメダだァ」と叫びながら、梯子を飛び降りる。
 オルレランが誇る巨大戦艦は、火に包まれて灯台に激突する。その反対側から、マックスを抱えたリューフが、湖へと飛び降りた。そして、途中でマストに引っ掛かって、転がるようにして、甲板に叩きつけられる。
「上等、上等」
 腰を打って、のた打ち回るマックスを踏みつけて止めると、オーギュストは腹這いのリューフに手を伸ばす。
 それをリューフは疲れた顔で見上げる。激戦の負け戦を物語るように、額や頬には、乱れた髪が汗で張り付いていた。
「随分、派手な失恋じゃないか?」
「……うるさい」
 リューフはオーギュストの手を拒むと、自力で立ち上がった。そして、よたよたと船内へと歩き出す。
「若い時に、自分やら人生やらで悩み過ぎて、いい恋愛をしなかったからだ。まぁ、子供に手を出す奴もいるが、あれもどうかと思うがね。しかし、もう他人が手を付けたものに、手を出すのもどうかと……」
「言うな!」
 その背を追いながら、オーギュストは冷やかしを止めない。
「その顔いいぜ。最初に会った時は、無表情で鉄仮面かと思ったが、人の顔になってきた」
「なっ!」
 リューフは口を大きく開けて、オーギュストを指差したが、何も言う言葉が見つからず、あわあわと顔を引き攣らせた。そして、ようやく「勝手にしろ」と怒鳴って、思わず目に入ったボトルへ手を伸ばした。
「そいつは幻の…させるか! なゅ?」
 奪い返そうと、オーギュストが跳ねようとするが、脚に巨漢のマックスが縋り付いて、思わずよろけてしまう。
「おお、心の友よ!」
 泣きじゃくるマックス。
「分かった。分かったから、離れろ。服が汚れる」
 オーギュストは必死に引き剥がそうとするが、濡れ落ち葉のように執拗{しつこ}い。
「へへ」
 リューフは悠々と年代物の銘酒を口に含むと、ふと想いに耽る。
――あの時、馬車に乗り込んで公爵を殴り倒し、あの女(ひと)へ手を伸ばした時、首を振る彼女の瞳は、何かを言いたげだった。それがどう言う意味なのか、心からの拒絶だったのか、それとも……。もはや知る術はない……
 リューフの胸にぽっかりと大きな穴が空いていた。
 港を出ると、沖に大マゼランが待っていた。それに、リューフとマックスが、再び緊張する。
「あれは刀根が奪った。さすがだね」
 オーギュストが操舵輪を握って呟く。「どうやって」とマックスが問うと、「カレンを人質にした」とオーギュストは悪ぶれもせず言って、そして、高らかに笑った。


 燃え盛る港を楼閣から見詰める目が四つあった。切れ長の眼を持つ美女を、深い皺を備えた目を持つ老人が、背中から抱き締めている。
「燃えておるわ」
 老人の笑い声は乾いていた。
「……」
 それに若い女性は口を開けない。
「まずはナバール男爵家を滅ぼし、次は天下無双のリューフをあの炎の中に葬る。そして、シデ大公国などと名乗る連中へと続いていく訳だ。歴史に名を残す悪女だ」
 耳元で辛辣に囁く。
「……怖気付かれました、公?」
 どこか冷めた口調である。
「否[いや]、我が女に相応しい」
 そう言うと、オルレラン公メルキオルレは指を蠢かせて、夜着の上から胸を揉む。女の扱いに慣れ切った手付きである。実際、生涯で800人の女性を抱いた、と豪語しているほどである。
「あの世のナバールやリューフを想いながら、今夜は存分に楽しもうではないか」
 そして、耳を舐め上げる。
 ソフィアはただ流されるまま、公爵に身を任せていく。そして、この老人に初めて屈した時を思い出していた。
 ある夜、降服したソフィアに、公爵からの呼び出しがあった。
「4歳の長女、3歳次女、1歳の長男は全員処刑とする」
 そう冷たく言い放った瞬間、
「あぁ・」
 嘆く母親の顔が、公爵を魅了した。
「本来ならそうなるところだが、助ける方法はある」
「わ、私の命ならば捧げます。財産も要りません。ですから・」
「そう意気込むな、な~に難しくはない。保護者である貴女が従順な女性である事を示してくれればよいのだ」
「わたくしが・」
「そう貴女次第」
 そう意味深に公爵は言って、ぎらつく視線を投げ掛ける。それにソフィアの顔が、強ばっていった。
 その閉ざされた唇に舌を差し込むと激しく吸う。
「ううっ……」
 夜着の上から胸を揉んでいた腕が落ちて、裾をたくし上げると、中へと滑り込んで行く。そして、太い指が、その熱く蒸れた秘唇に触れると、秘唇からは堰を切ったように熱い蜜が溢れ出し、白くすらりとした脚をすぅーと雫が滑り落ちていく。公爵の女を知り尽くした指に、瞬く間に翻弄されていく。逆らう術もないまま、ソフィアはぐっと唇を噛み締めて、屈しかけた心を引き締めた。
「あ、ううんッ・ひぃっ・」
「わしを飽かせぬ事だ。何れ男爵家の再興もあろう。それもこれもわしの気持ち次第。精々、精進せいよ」
 好色な笑みを浮かべる。
 ソフィアはその言葉に目を閉じる。闇の彼方に男の顔が見えた。
――これでいいのよ。男は誇りに死ねばいい。私達は生きていかねばならないのだから……
 彼女は想いを吹っ切る。そして、ぐったりと公爵の肩に顔を伏せた。そして、ハアハアと荒い息を繰り返す。汗に濡れ放心した表情はゾクゾクするほど美しかった。


【ブーン邸】
 翌朝、朝食の場に、ブーン家の一門が招集された。
「しかし、圧巻ですね。オルレラン艦隊の半数に延焼したそうです」
 聖職者の四男ロレンツォが新聞を見ながら、他人事のように呟く。
「茶化すな。で、バジーリオ。13人衆の様子は如何なのだ?」
 判事で堅物として知られている長男ガブリエーレは、軽くロレンツォを諌めると、視線を医者の三男バジーリオへ向ける。
「酷いものだ。心を完全に砕かれている。顔を拭こうとする女の手にも怯えていた。昔の勇姿を知っているだけに、無残だよ」
「言葉通りとは、やや信じ難いな」
「魔法だよ。兄貴」
 バジーリオは手振りを添えて、13人衆の末路に関して、見聞きした情報を具体的に伝えようと努める。しかし、どう言葉を連ねても、真実には程遠い印象しか与える事ができずに、もどかしさを覚えていた。
「それほどか。あの少年がなぁ。時代が変わったようだ」
 ようやく、三代目当主で、家長であるコルネーリオが口を開いた。
「フランチェスコはどう言っている?」
「それほどの信頼は得ていないようです。あいつはいつも口だけですよ」
 次男フランチェスコはナルセスの部下となっていた。そして、主力の一部を任されて、軍功を重ねている。が、オーギュストとの個人的関係は希薄である。
「例の融資の件は、もう少し色を付けてみては?」
 ガブリエーレが進言すると、コルネーリオは唸って考え込む。この老人の癖で、考える時は常に、頬に手を当てる。
「もはや、オルレランは終わったかな……」
 そして、独り言のように、静かに呟いた。
 カッシーでの大敗に続いて、このオルレラン港の事変は、名門中の名門公爵家への信頼を揺るがす契機{きっかけ}となった。そして、これが後の“オルレランの惨劇”へと繋がるのだが、この時には誰一人知りようがない。

 朝食の後、ナーディアは一人自室に駆け込むと、堅く鍵を掛ける。身体中が火照って、まるで逆上せているようだった。その異変は、父と兄達がオーギュストの話をしだしてから始まる。オーギュストの名が出る度に、心がむずむずと疼いて、激しく心臓が鼓動した。そして、苛々と落ち着かなくなり、遂には、じっとしていられなくなって、「食欲がない」と席を中座してしまった。
 ナーディアは動悸のする身体をベッドに投げ出し、腹這いとなる。
 初めは強い信仰心でそれを諌めた。だが、次第に膨れ上がる衝動に、ついに、その手をスカートの中へと滑り込ませる。
 そこはもう濡れていた。
――あれは夢だったのかしら……
 ナーディアは麻痺して行く思考の中で、おぼろげな記憶を辿っていく。
 エスピノザ滞在中、深夜眠れず、夜風に当たろうと部屋を出た。そして、迷路のような城の中で迷っていると、偶然にも、オーギュストとミカエラの密会を盗み見てしまう。
――あ…あそこが……なんだか…ヌルヌルして……熱い……
……
………
「ミカエラ様!?」
 ナーディアは口元を押さえながら、敬愛する優秀な女性の名を呼んだ。
 ミカエラは無表情で、ササと絹のこすれる音を鳴らして、足元に深緑色のドレスを落とす。その白い肌に月の明かりが彩りを添えていた。
「な、何を・」
 茫然とした虚脱の状態で、まじまじと見詰める。そんなナーディアとは関わりなく、目の前の光景は進んでいく。
 ミカエラは跪くと、オッギュストの股間へと顔を埋める。そして、何の躊躇いもなく、ペニスを口に含むと、口を窄めて数回しごいた。
「……」
 ついにナーディアは言葉を失った。あの知性溢れ、誇りの塊のような女性が、ここまで変貌するものだろうか。そして、何の前触れもなく唐突に、ミカエラの姿が自分と重なった。
 左手でペニスの根元をしごいて、さらに右手で袋をさする。その間も、亀頭をチロチロと舐めて、それから、再び口に含むと激しく頭を振る。そして、卑猥にも、自ら腰をもじもじと震わせていた。
 オーギュストはそれを見下ろしながら、そっとミカエラの頭を掴むと、その口の中に白濁した液体を吐き出す。
 液体は小さな口には納まり切れずに、その端から溢れ落ちていた。
「もう、苦い~ぃ」
 上目使いで、舌足らずに訴える。
 ナーディアは泣いていた。頭の中心が溶けているような、鈍い思考の中で、その光景をただぼんやりと眺め続ける。今自分は何処にいて、何をしているのか、目の前にいる男女は誰なのか、何も分からなかった。ただ、決して負けてはいけないという想いだけが、頭の片隅に引っ掛かっている。
ッッどうして負けてはいけないの?
ッッ何に負けてはいけないの?
 まるで呪文のように、頭の中をくるくると同じ問いかけが廻っていた。
………
……

 オーギュストの放った精の臭いが、自慰を始めると、臭覚に鮮明に甦ってくる。それは倒錯した淫靡な世界への誘いでもあった。
――欲しい……
――何を……
――何処に……
 ナーディアはゆっくりと秘唇をなぞる。その瞬間に目眩がして世界に霞がかかった。背中を電撃が貫き、身体が燃えるように熱くなる。指はピッタリと秘唇に密着して、もはや離れる事など想像だに出来ない。
 ふと、部屋の隅に置かれた鏡が目に入る。そこには快楽に悶える一匹の雌の姿が映っていた。湧き上がる羞恥心はもはやさらなる快感への道具にすぎない。
 鏡に向かって、脚を開き、左手の人差し指と中指で秘唇を左右に開いた。ヌチャという音が部屋に響く。生々しいピンク色が、照明に照らされて、きらきらと光っている。
ッッいやらしい子……
 鏡の中の自分にそう呟いた。
 薄い襞に守れたそこは、些かも清純さを失っていない。菱形に開いた秘肉の上端には、小さな蕾が、まだ半分皮を被ってひっそりと眠っている。だが、透明な蜜をとめどなく垂れ流すうちに、徐々に女の匂いを醸し出し始めている。
 そして、ナーディアは秘唇を右手の人差し指でなぞり、甘ったるい喘ぎ声を漏らし始める。指を伝ってシーツにぽてぽてと滴が落ち、そこに小さなシミを作る。
 だが、どんなに激しく指を上下させても、どうしてもあの時のような高みに至る事ができない。そして、必ず虚しい飢餓感だけが、後に残った。
 これから、こうして何度自慰を繰り返すのだろうか。女神エリースへの罪悪感の中、癒し切れない、渇きのような欲望がどんどん募って行く。
「フリオに逢いたいなぁ~」
 そして、ベッドの上で、ぼんやりと囁いた。


【4月、サイア周辺パリオ】
 カフカ・ガノブレードは薄い布団の上に起き上がった。床や壁はしみが目立つが、白い洗面台とベッドだけがやけに新しく、妙に滑稽な思いがする。見上げると、小さな高窓があり、路上を歩く人の足が見えた。これでここが地下室である事が分かる。まるで古い監獄のような部屋だが、これでもれっきとした宿屋である。
 トントン、とドアから音がする。それが不思議と、陽気な音色に聞こえて、カフカは無邪気に微笑む。そして、枕元のパイプへ手を伸ばすと、視界がふわりと歪んだ。まだ靄が残っているようで、頭は夢の世界を彷徨っている。
 と、木の扉が開いた。若い女が入ってくる。
「カフカ、またなの」
「ジャンヌか?」
 眉を吊り上げるジュンヌに、カフカは病んだ声で問い返した。カフカは戦争がない時、阿片を吸って、自らの名策略に酔い痴れる習慣があった。悪癖と側近は眉を顰めるが、カフカ自身に、止める気などさらさらない。逆に、「次のひらめきへのステップだ」と開き直る始末だ。
 カフカはふらふらと歩いて部屋を出る。部屋の外は小さな中庭で、洗濯用の井戸がある。その井戸の水を頭からかぶると、四角い空に向かって、大きく息を噴出す。
「ランスからの援軍は?」
「C地点を抜けたわ」
「マズイなぁ。動きが城内と呼応している」
 塗れた髪をかき上げる。そして、顔の水滴を気にせずに、真っ直ぐにジャンヌを見た。その顔は先ほどとはまるで別人で、鋭く殺気立っていた。
「ルブランのアレックスに教えてやれ」
「補給を断ったばかりよ」
 アーカス王国からルブランに移った、アレックス・フェリペ・デ・オルテガは、前線に出ると積極的にカリハバール軍を攻撃した。偵察部隊を執拗に追い回しては殲滅し、小さな砦すらも見逃さなかった。時には、西に東に転戦して、一日に三度の合戦を行った事もあった。だが、連戦は兵を疲れさせるし、兵糧、物資も激しく消耗する。それで、周辺領主に援助を求めたが、対応は常に冷ややかだった。
「旧サイアの俺たちが、奴を助ける必要はない。だが、手伝わせるのは別だ」
 不敵に口の端を上げる。

 数騎の騎士が護衛して、馬車がパリオの門をくぐった。銅板ぶきのとんがり屋根の円塔が二つ並んだ門は、黒ずんで僅かに傾いている。かつてこの街は、裸馬のレースで有名だった。祭りの日には、数万人の観衆が街を埋め尽くしていた。だが、今は戦禍の傷が深く、街の大半が焼け落ちて、廃墟と化していた。
 馬車の中で、カレンは涙ぐむ。窓の外の荒廃は、彼女の想像を遥かに越えていた。住民達の苦痛を想うと、胸が締め付けられてくる。しかし、より衝撃だったのが、この現状が、カリハバール軍の攻撃ではなく、カフカ軍の攻撃によるものだという真実だった。
 サリスからサイアへの道すがら、カフカについての色々な噂が、聞こえて来た。
 カッシーでオルレランが大敗した頃、カフカはサリス・サイア国境付近に迫っていた。この地方はルドワイヤン将軍一族が勢力を張っていたが、まずカフカはこの重臣の娘と婚姻する。前もって話を進めていたらしく、式はすんなりと終わった。そこで、ルドワンヤン将軍に、この重臣が謀叛を企んでいる、と讒言した。そして将軍の許しを得て、鷹狩りの最中に討ち取ってしまう。その後、検分に訪れた将軍も、油断し切っている所を殺害した。さらに、ルドワンヤン一族の長老が男色と知ると、オルレランの若い歌手を送って、その膝の上で眠ったところを暗殺された。こうしてルドワンヤン一族を滅ぼすと、その城と領地を奪う。さらにさらに、隣接する地方豪族ドゥーメルグ家に対しては、養女を嫁がせて、昵懇[ジッコン]になった後に毒殺した。また、クリタンドル男爵家に対して、兄弟の対立につけ込んで、まず弟に兄を殺させて、その兄の未亡人と遺児に助力する形で、結局クリタンドル男爵家を滅ぼした。このように、奸智の限りを尽くして、カフカはサリス・サイア国境地方を統一する。
 この不義で残忍な行いに、カレンは心を傷めた。
『ティルローズ様のオーギュスト殿はなんと立派な事か……』
 そして、深く嘆く。
 オルレランでの一件で、ティルローズは終始余裕に満ち溢れていた。カレンにはそれが不思議で仕方がなかった。が、今ならよく分かる。オーギュストへの絶対的な信頼があっての事なのだと。カレンは、ティルローズとオーギュストの関係を羨ましいと想った。
――私も頼れる騎士が欲しい……
 揺るぎない忠誠心、圧倒的な強さ、そして、崇高な騎士精神(と、カレンは思っている)。幼い頃に読んだ、お伽噺に登場する、白馬の騎士そのものである。
 そして、あの夜サイトでのキスを思い出して、胸が詰った。
 もしあの時サイトで別れなかったら、オーギュストは自分の臣下となったのだろうか、自分のためだけに戦ったのだろうか、そう埒もない想いが、振り払っても振り払っても、頭の中を渦巻いた。しかし、もうオーギュストはティルローズに仕えている。もはや如何する事もできない。そう考えて、改めて自分の周りを見渡した。そして、カフカという名に思い至る。だが、その信頼は再会を前に、脆くも揺らぎ始めていた。
 カレンは知らなかったが、現実のオーギュストは理想の騎士などには程遠い。
 エリプスを占拠した直後、兵の略奪を受けたと訴え出る者が多数いた。それらに対応したのが、オーギュストだった。遺族の中には「生き返らせろ」と強行に言い張る者もいて、オーギュストは見舞いとして金貨20枚を与えた。が、それでも「女神エリースはお許しにならない」と引き下がらない者がいた。「そこまで言うなら」とオーギュストはペンを取って手紙を書き始める。そして、「直々に女神エリースに問う事にしよう。ここに詳細はしたためたので、エリースに直接お前がお渡しせよ」と、その首を切り落としてしまった。
 これとて、些細な一例に過ぎない。
 カレンがオーギュストの実情を知った時、どう感想は変わるのだろうか。カフカと同様に奸悪と誹謗するか、または智謀と称えるか。何れにしても、まだ未成熟なカレンに、この二人の男は極端過ぎた。
 そして、馬車は“聖カタリナ教会”へと向かう。


【ホーランド】
 北サイアの中心的な都市ホーランドには、メルローズを擁する、ガスパール・ファン・デルロース伯爵が勢力を張っていた。
 デルロース伯爵は、カール5世出兵の際にセリアの留守を預かっていた。が、カール5世の戦死後、姪の第三皇女メルローズを推し立て、一度はセリアを治めようとする。しかし、流入してくる周辺勢力を抑え切る事ができず、さらに、カリハバールの圧力が増すと、“スタールビーの王冠”“グングニルの槍”“玉璽”の三つの伝国の秘宝を持ち出して、ホーランドへと後退した。
 ホーランドに移ってすぐ、伝国の三秘宝を根拠として、メルローズを皇帝へと即位させると、自らを“相国”と称して君臨し、爵位も侯爵に陞爵した。
「これ以上、中原の搾取に甘んじなければならないのか?」
 デルロース侯爵の演説が続く。この日は、甥をサニエ准男爵家の後嗣に決まった事を祝って、晩餐会が華やかに行われていた。サニエ准男爵家は、海辺を本拠とする一族で、デルロース侯爵の妻の実家である。嗣子のないまま、当主が急死した為に、急遽この縁組が決定した。
 その挨拶の時、デルロース侯爵は徐々に昂奮して、熱弁を振るい始めた。
「今やドネール湾岸の世界は、中原に対して、優るとも劣らない生産力を有するようになった。しかしながら、中原は昔と変わらぬ態度で、我らを辺境と呼ぶ。これからも、我々は中原の失政に振り回せ続けなくてはならないのか?」
 エリーシアの西方、ドネール湾は、北のバイパール半島、南のシェルメール草原に囲まれた穏やかな内海である。その湾岸一帯は近年開発が進んで、エリース湖沿岸に匹敵する経済圏に成長しつつあった。デルロース侯爵の持論は、このドネール湾岸地域の自立と独立である。
「否、その必要はない。ここに三秘宝があり、そして、メルローズ様が居られる。私は、この日のある、を信じてきた。すぐそこに、もはやすぐそこに、ホーランドの栄光が輝いているのだ。皆様の力を私にお貸し下さい!」
 赤毛の巻き毛はすっかりと薄くなり、顔も皺が目立っている。しかし、その青い両目は、全く力を失わず、鋭い眼光が人々に射抜いていく。老いても、かつての美男子の笑顔は、人々を引き付ける。恰も魔法のように、絶対的な信頼を与えていた。
 デルロース侯爵の言葉が響く中、その嫡子ラスカリス・ファン・デルロースは、会場をそっと脱け出していく。
 宮殿の中庭、噴水の縁に腰を下ろすと、苦く酔った息を芝生に吐き出した。
「何がメルだ……何が栄光だ……」
 ネクタイを噴水に投げ捨てて、父親と同じ赤毛の髪を掻き毟る。宮廷サロンの人気者とは思えないほど、不様な酔い方である。
 深夜になって、ようやく宮殿の光が消えた。
 ラスカリスは両肩を従者に担がれて、宮殿の奥へと運ばれていく。
「皆の前で、醜態を晒しよって!」
「……」
 部屋に入るなり、いきなりデルロース侯爵に一喝される。と、ラスカリスは従者を振り解いて、独り千鳥足で歩き出した。そして、倒れ込むように、金糸の刺繍のあるソファーに腰を落とす。
「そんな事では、大事を成せぬ!」
 怒鳴って、腹の中に溜まった物を全部吐き出すと、デルロース侯爵は静かに、机の上の眼鏡を取る。
「大事だなんて……」
 ラスカリスは、酔いでだらしなくなった顔を、父親から隠すように下を向いた。そして、そのまま小さく呟く。
「余に不服か?」
 デルロース侯爵は眼鏡をかけると、壁をぐるりと埋め尽くした、山羊の毛の織物を鑑定し始めた。植物をモチーフにした模様が、斬新で、人気の高い作品である。他にも、銀食器や陶器などが、部屋中に並べられている。これらは全て、この地方の特産品であり、デルロース侯爵の後押しで、高い評価を得るまでに至ったものばかりである。余談だが、この時蒔かれた種は、後にホーランドの南、アウエルシュテット州に根付いて、州侯マイセンの元大輪の花を咲かせる。
「そんな物に何の価値があるのです。そんな物にかまけているから、伯爵家は危機に陥るのです」
「危機とは?」
 デルロース侯爵は、淡々と織物の出来を鑑別しながら、息子の話を聞いている。
「メルは病気で、今夜も出席できなかった。そのうち支援者達も気付くでしょう。そして、セリアでは選帝侯の噂が……」
 ラスカリスは自暴自棄に言い放つ。混乱を避けるために公表されていないが、その言葉通り、メルローズは、カリハバール兵が持ち込んだ伝染病に感染して、もう幾許[いくばく]もない。
 息子の言い草に、デルロース侯爵は小さく息を吐いた。そして、眼鏡を外すと険しい表情で歩み寄る。
「時代が見えぬ愚か者よ」
 そして、頭上から怒鳴りつける。と、その言葉に、ラスカリスはかっとなった。
「乱世が続くのではなかったのですか? その間に、我らは北サイアからペトラサ大河を遡って勢力を拡大する。そして、中原とは一線を画す新国家を築く。それがどうです。我らは北サイアの一都市を抑えただけに過ぎない」
 真っ赤な顔で、息継ぎさえせずに一気に言い切る。
「余のミスは、セリアでメルローズ様の御即位を実現できず、正式な遷都を発令できなかった事だ」
 デルロース侯爵は向かいに腰を下ろすと、じっくりと息子の不満を聞く。そして、刮目[カツモク]して答えた。それに、ラスカリスは益々眉を吊り上げていく。
「そうでしょうか? 今や中原は連合し、カリハバールと戦っている。我らは総{あら}ゆるものの蚊帳の外です」
「我らには志がある。そして、その志はこの北サイアに根差し、ドネール湾岸全体へと広がっている。その力を信じるのだ」
「ですが……」
 揺るぎない父親とは対照的に、ラスカリスは不安に悩み、苦悶している。
「よいか、時代は逆戻りしない。10年前、この北サイアにサリスの正統なる血筋の王女が立つ、と誰が考えた。バイパールの最果てなどではなく、このサイアに、サリスに媚び諂[へつら]う属領ではない、独立国が、だ。うむ?」
「誰も……想像していなかったでしょうね」
 納得し難いが上手く反論もできず、兎に角、ラスカリスは肯定した。
「その通りだ。ホーランドは人類史に輝かしい一歩を記すだろう」
 自信満々の父に、ラスカリスは耐え切れずに失笑した。
 確かに、ホーランドはドネール湾海上運輸の要の一つである。内陸の王都サイアやエリース湖沿岸のサリスとの連絡もよく、早くから栄えて来た。
 だが、その王都サイアはカリハバールの占領下にあり、セリアは混迷に沈んでいる。また、東のアルティガルド王国とは敵対関係にある。
 今ホーランドは、中原との物流が滞り、街全体が機能不全に陥ってしまっているのだ。辛うじて、辺境の王国パルディアとは、対アルティガルド対策で一致して、軍事同盟を結ぶ事ができた。だが、それでパルディア支配下で、トラペサ大河河口の都市トラブゾンが攻略できなくなった。当初の構想である、広大なトラペサ大河流域の支配は、不可能となったのである。
「精神論では、この事態を切り抜けませんよ」
「ならば、お前なら如何すると言うのだ?」
 テーブルの上の葉巻に手を伸ばして、デルロース侯爵は火をつける。まるで他人事のような仕草に、ラスカリスは呆れた。この父をして、稀代の楽天家か、もしくはマゾではないかと思う。
「強引なやり方で、中原での評判が頗[すこぶ]る悪い――」
 俯いたまま、ラスカリスは揺らぐ声で喋りだした。それを、デルロース侯爵が笑って聞く。
「しかし、もっとあくどい奴がいますよ。カフカとナルセスです」
「ほお。で、どうする?」
「ナルセスに三秘宝を贈り、世界の目をそちらに向けます。そして、カフカとナルセスを潰し合わせて……後は、分かりません……」
「まぁ、40点だな」
 苦笑いすると、厳しい採点を下す。
「カフカとナルセスは潰し合わんし、アルティガルドが三秘宝とその二人を放ってはおかん。しかしなぁ、決定的な欠点は、お前の眼は中原しか見ておらん、と言う事だ。世界にはまだまだ闇が多く、それは深く複雑だ。もう少し勉強が必要なようだな」
「おっしゃる意味が……?」
「まぁ、取り敢えず、お前はナルセスに会って来い。そして、よく観て来る事だ。話はそれからにしよう」
「そんな所、殺されます……」
「今のお前に殺す価値もなかろう。あちらがその程度なら、誰も苦労せんよ。兎に角、お前には、得る物が多い旅となるだろう」
 葉巻を灰皿に押し付けると、デルロース侯爵は立ち上がった。
 このデルロース侯爵は、オルレラン公爵と比べられる事の多い人物である。俗に、これにロードレス神国のゲオルギオスを加えた三人を“乱世の三梟雄”と呼ぶ。天下を臨む地力があり、権謀術数に長けて、権力奪取に手段を選ばないなどの類似点があるからだ。しかし、驕淫なオルレラン公爵とは違い、デルロース侯爵は愛妻家で、子もラスカリス一人だけである。乱世を、節度を持って生き抜いた人物、だったのかもしれない。


【シデ】
 春になって、シデは南国の鮮やかな花々に包まれていた。シデで最も高所に立つエリース大聖殿でも、ツツジが見事に咲き誇って、丘一面を赤紫色に染めている。
 ドアを出て、数段階段を降りる。芝生の庭に降り立つと、オーギュストは手袋をゴミ箱に捨てた。その後ろに、ファイナも続いて歩く。
「ご苦労様です」
「ああ」
「閣下のおかげで、希望が持てるようになりました」
「だろうね」
「ですが、もう少し言葉に気を使ってもらえませんか。患者の前で、テストとか、モルモットとか、酷過ぎます……」
「新薬の開発は簡単じゃない。その辺は聡明な君なら理解している、と思っていたのだが?」
「……はい。ですが、患者が傷付きます!」
 ファイナはエリースの首飾りを握り締めて、強く睨み付ける。今にも、エリースの教えを諭そうという構えである。
 冬が終わろうとしていたが、エリース大聖殿に運び込まれる病人の数は、増える一方だった。ついにはベッドも足りなくなり、廊下にまで溢れ出す。司祭のファイナ・デ・ローザスとその同僚達は、甲斐甲斐しく、患者達の間を廻っていた。しかし、病人達は回復の見込みすらなく、彼女達も次々と過労で倒れていった。
 そこに、オーギュストとリューフが現れる。二人は入港寸前で湖に飛び込み、岬の裏側から上陸、マックスが土下座している間に、エリース大聖殿に飛び込んで、一方的に「謹慎する」と宣言した。そして、空いた時間を利用して、治療を始めた。
「おい」
 芝生の上を歩いていると、白いエプロンを付けて洗濯物を干していた、リューフが声を掛けた。
「どうだ?」
 リューフは、ファイナに駆け寄ると、心配そうに見詰める。
「消毒液が足りません……」
「よし、俺が何とかしよう」
 透かさず、リューフはオーギュストを見詰める。それにオーギュストはやれやれと顔を横に振った。
「さとうきびから作れた筈だ」
「さとうきびなら、アーカスで取れます」
 はっと、ファイナの顔が晴れる。
「アーカスか~ぁ。よし、俺が行こう」
 リューフが顔を堅く引き締める。
「また戦争は始める気か?」
「……ゅ」
 変な声と共に、リューフの足が止まってしまう。
「アーカスとは国境線の画定もある。そのうち俺が行く事になるだろう」
 オーギュストが政治的な発言をすると、それを嫌ったように、ファイナは無言で礼をした。そして、足早に病棟へと戻って行く。
「かわいそうに」
 リューフと二人だけとなって、ポツリとオーギュストが呟く。
「何だと言うのだ?」
 間髪入れず、リューフが反応した。
「自分で考え、自らの信念に基き判断する。なまじ行動力があるから、さらに悪い」
「……褒め言葉のような気がするが?」
「尼僧には向いていない、と言う事だよ。近いうちに、二律背反で苦しむ事になるだろう」
 白いエプロンを払い取ると、リューフは苦い顔で振り返る。そして、ファイナが病棟に消えるまで、その後ろ姿を見詰め続けた。
「ファイナ……」
 オーギュストは崩れかけの壁に取り付けられた真新しい扉をくぐって、敷地外れの宿舎へと向かった。その屋根上部屋がオーギュストの部屋で、屋上の洗濯物干し場に、小さな小屋を載せたものである。朽ち掛けの木のブラインドを上げると、見晴らしは素晴らしく、シデの街とエリース湖に浮かぶ“乙女の城”が一望に見渡せた。この城は、白くて、尖がっていて、水に写っている、と女性が好みそうな美しい条件を全て揃えている。ここで、オーギュストはゆっくり絵でも画くつもりだったのだが、結局、昼夜新薬作りに専念する羽目となった。
 薄い鉄板の階段を登る。足元は花の鉢がずらりと並んでいる。と、下から、洗濯をしていた、ここの夫婦が声をかけてくる。
「大先生、今日も一杯だよ」
 痩せて、肌が真っ黒に焼けた爺さんが、陽気に言う。その後に続けて、太った婆さんが遠慮のない大きな声で言った。
「毎日毎日、近所迷惑なんだからね。ちゃんとして貰わないと、ソフィア様の紹介と言っても、出て行って貰うからね」
 オーギュストは苦笑いでその場を誤魔化すと、いそいそと部屋に入った。部屋の3分の2はベッドが占め、玄関ドア隣の壁のくぼみが、タンス代わりになっている。そこに上着を投げ込むと、ロッキングチェアに疲れた体を倒した。その途端、玄関から元気のいい声がする。
「おかえり。それじゃ、お客さん、入れるからね」
 利発な顔を覗き入れて、中性的な顔立ちの子が、早口で流暢に告げる。それにオーギュストは、遣る瀬無く、手を上げて答えた。
 と、その子を押し退けて、男が入ってきた。
「ちょっとぉ! 順番を――」
「そいつはいい」
 素早く体を張って、男を阻止する。と、オーギュストがそれを止めた。
「早いじゃないか、ナルセス」
「時間通りだ」
「そうか……なんか、最近朝も夜もなくてね……アイツらときたら、人を馬車馬のように酷使{こきつか}うくせに、自分達は安息日だの祈りの時間だのと――失敬、取り乱した」
 オーギュストが愚痴ると、ナルセスは「盛況だな」と嫌味に笑った。と、先程の子は、この二人の会話だけで全てを理解したらしく、丁寧な謝罪と退室の挨拶を早口ですらすらと述べる。それから、場に不釣り合いな正式な作法で、玄関ドアを閉めた。
「気が利く子じゃないか。何処で見付けた」
「ああ、ここの子だろう。何時の間にか、側に居付いた。まぁよくやるから、雑用は任せている。確か……レンだったかベロだったか……」
「そうか、ふーん」
 二人は短く、利発な子の感想を述べ合うと、話題は本題に入っていく。
 玄関ドアからそれを盗み聞いて、ラン・ローラ・ベルは小さくガッツポーズをする。そして、階段の手摺を滑り降りると、宿舎の外へと飛び出して行った。
「はいはい、整理番号1番の方、こちらで待機してください。新しく来られた方は、こちらで整理券を受け取ってください」
 それから、テキパキと行列を整理し始める。
 この宿舎に続く田舎道には、オーギュストに自分のアイディアを一目見て貰おうと、野心的な人々が集まっていた。それは、政治家、建築家、芸術家、そして、武人と総{あら}ゆる分野に及んでいた。
 ブラインド越しにランの声に耳を傾けていたナルセスが、視線をオーギュストに戻す。オーギュストはスレードからの手紙を読んでいた。
 スレードは、シデ大公国に割り振られた南西門守護の任に就きながら、セリアの状況をつぶさに報告していた。そして今回は、アルティガルド軍が、かつてサリスを統治していた三将軍(グザヴィエ、ラマディエ、ガンベッタ)の最後の一人ラマディエを攻め滅ぼした、と報せてきた。これまでも、アルティガルドは、ランスへの進撃より、セリア近郊に蔓延る盗賊の討伐や、宗教勢力の追放など、セリアの占領政策を重視してきた。
「アルティガルドめ、やけに慎重だな」
 顔を上げると、オーギュストは感想を短く述べる。
「カリハバール攻めよりも、セリアの固めを優先している。セリアを直轄地にするつもりか?」
 ナルセスは唯一の家具である粗末な机に座る。隣には底の尖った素焼きの壷があり、気化熱で水を冷している。その水で勝手に喉を潤した。そして、疑問を一つ呈示する。
「カリハバールなど単独で何時でも倒せる、とふんでいるのだろう」
「征竜大将軍となってカリハバールを破り、その功績をもって、皇帝に即位する。その式典をセリアで行い、名実ともにエリーシア中原の盟主もしくは覇者になる、と予想していたが、完全なる統一を目論んでいるようだ」
 オーギュストの回答に、ナルセスの眼光が鋭くなる。
「さて、欲張り過ぎのような気もするが。自信があるのだろう。ナルセス、俺達とぶつかる日もそう遠くはないぞ」
「ああ、パスカルに要塞再建を急がせよう」
 ナルセスは大きく頷いて、机から降りる。
「そう言えば、もう一つ困った事がある。ティルローズ様が、ローズマリー様を呼び寄せたい、と仰っている」
 天を仰いで、オーギュストは顔を手で覆う。
「あの二人は、あのままポーゼンに居た方が、幸せなのだが……」
 そして、苦い想いを吐き出した。
「ローズマリー様一人だけなら良い。だが、余分な者達がついて来る。ポストを与え様にも、高過ぎても低過ぎても、あちこちから不満が出る。如何する?」
 書類などの荷物をまとめながら、ナルセスは訊く。
「俺が会って、説得しよう」
「そうだな。早く降りて来い」
「謹慎中だ」
「誰もそう思っていない。ただサボっていると思っているぞ」
「心外だ。本気で反省している、そう告げてくれ」
「困ったヤツだ」
 ナルセスは苦笑いすると、玄関ドアのノブに手を掛ける。と、オーギュストが呼び止めた。
「そうそう、フリオの誕生日には、降りるよ」
「ああ、その時に」
 ナルセスは別れの挨拶をして、部屋を後にした。


【ポーゼン】
 旧サイアの王太孫、アベール・ラ・サイアの双眸が怒りに燃える。
「ふざけよって!」
 憤激の叫び声を上げると、書状を床に投げ捨てた。
「……」
 その書状を、元サイアの蒼鷹騎士ゴーティエ・デ・ピカードが、無言で拾い上げる。アベールの第一の側近であり、後頭部まで禿げているが、まだ30代と若い。地味で寡黙だが、忠誠心、責任感、勤勉、公正、規律性などを高く評価される良将である。
「余に、ポーゼンを守れ、とよ」
 アベールが憮然と言い放つ。
 アルティガルド王国に対して、征竜大将軍へ就任支持を正式に表明した。その返事は、「ポーゼン伯爵として現状維持に努めよ」という冷たいものだった。
「仕方がないでしょう」
「黙れ!」
 冷静沈着なピカードの態度が、無性に癇に障る。
 一時は、アーカス第二の都市ナントを拠点として、多くのアーカス諸侯を従えた。そして、意気揚々とアーカスの王都サンクトアークへ出兵したが、逆にアレックス将軍に散々に打ち負かされてしまった。それを契機{きっかけ}に、“ナントの四本柱”と呼ばれた、ゴンザレスト、ルイス、リポル、トレスの4人が、再びアーカス王国に寝返って、ナントを失陥した。そして、第二次フェニックスヒルの戦いに敗れて、ポーゼンへと敗走して現在に至る。
 ポーゼンの宮殿に出仕する者は、すっかり少なくなり、周りは閑散としている。そして、アベールの足元もぐらつき出す。ついに、見切りをつける者が相次いで、元蒼鷹騎士のローゼンヴェルトとファンダイクなどが、カフカに合流すべく出奔してしまった。
「アベール殿下、適切な手段で抗議すべきです」
「ああ」
 切れの良い事を進言したのは、ミーケ侯レオン・ホセ・デ・ガルシアである。
 彼は第一次フェニックスヒルの戦いの後、盟友のシュルタン伯リカルド・フアン・デ・エルナンデスと共にアーカスを裏切った経歴を持つ。しかし、アーカス王女クリスティーの偽書によって、エルナンデスと激しく対立して敗れ、今はポーゼンに身を寄せていた。
「アルティガルドの背後、ロードレス神国や旧カイマルク、さらには遠くパルディア王国などに、新たに将軍位を与えるのです」
「なるほど」
 アベールは自らの存在を広く訴えるように、古い将軍位の乱発を繰り返していた。
 例えば、カフカには昭文将軍、フリオには輔国将軍、ナルセスには安国将軍、オーギュストには軍師将軍、アレックスには鎮西将軍などである。
 さらに家臣団も、ペルレス・ド・カーティスを羽林将軍に、シド・ド・クレーザーを武衛将軍に、ゴーティエ・デ・ピカードを鷹揚将軍に、ミッチェルを牙門将軍に、ガルシアを討逆将軍などに任じている。
「安遠将軍などは?」
「うーん、平北将軍とかの方が喜ぶのでは?」
「ご推察、感銘致します」
 その会話を、ピカードは表情一つ変えずに聞いていた。
 その時、厚い扉が開いて、ローズマリーが、元聖騎士のペルレス・ド・カーティスとシド・ド・クレーザーを率いて姿を現す。
「ごきげんよう、アベール様」
「……」
 その優美な姿にもかかわらず、アベールは顔を顰めて、視線を合わせようとしない。
「ここは政治の場です。女性は遠慮して頂きたい」
「無礼であろう、ガルシア侯爵」
 ガルシアの言葉に、クレーザーが噛み付いた。その二人を、ペルレスが諌める。そして、ローズマリーはアベールに余所余所しく礼をする。
「これこれはマリー。ようやく顔を見せる気になったか? 西の別館は相当居心地がよいらしいな」
 アベールの嫌味な言葉を、全く意に介さず、ローズマリーは用件を切り出した。
「ティルから、手紙が着ました。聖カール5世大聖堂を新築するそうです。その式典に招待しています。私(わたくし)は行こうと思っています」
「……」
 黙って聞いていたアベールが、奮然と立ち上がった。
「すぐに帰ると言いながら我らを見捨てた、裏切者だぞ!」
「……かもしれません」
「あの戦力があれば、巻き返せたのだ」
 腸の煮え返るような憤りに、鼻の孔を膨らませている。
「それでも、皇帝陛下の供養に私(わたくし)が出ぬ訳にはいきません」
「それはセリアに戻ってから、盛大に行えば良い。行わせてやる、とそう言っているではないか!」
 気を腐らせて、ぶつぶつと愚痴っぽくアベールが呟くと、ペルレスが一歩踏み出した。
「もはや、セリア帰還は不可能でしょう」
 そして、毅然と告げる。
「何を言うか!」
 アベールは怒りに拳が震えた。が、それ以上言葉が続かずに、「もうよい」とその場を離れる。
 すでに、このポーゼンにも、選帝侯の噂は伝わっていた。その議席は七つとされ、十数の候補が上がっていたが、当然ながら、そこにアベールもローズマリーも含まれていない。一つの案として、アルティガルドに三つ、セレーネ半島から二つ、サリス、サイアからそれぞれ一つの配分が、予想されていた。
 だが、その夕刻、事態は急変する。セリア帝都守護を務めるリシャール・ド・ベアールが、親書と貢物を三男に持たせて、ポーゼンに届けさせたのだ。親書には、正統なるサリスサイアの継承者は、アベールとローズマリーの二人だけとして、何れお迎えに参上すると、明記してあった。これに喜んだアベールは、直ちに左将軍の位をベアールに与えた。


【シデ】
 ナルセスの中心にして、シデ大公国政権の骨格作りは進んでいた。
 元首はティルローズ大公妃で、その下に枢密院が置かれる。メンバーはナルセス、ミカエラ、スレード、フリオ、そして、元シデ市長のプロヴァンスの五人からなる。
 ナルセスは“総帥”と称して、政治軍事の最高責任者を務める。政務的には、政府の人事権を一括して握り、地方知事の任命解任権をも独占する。
 また、ミカエラは行政と法務を担当する。政策の発案と実行、そして、法の整備と取締りを担う。
 その基本政策は、貴族の課税、裁判、軍事権などを停止して、その権利を政府の元に集中させた。そして、特産品を買い上げて、大商人の中間搾取を防ぎ、物資流通の円滑化と物価安定を計る。また、低金額融資銀行を設立して、農民に種代や原材料代などの低金額を貸し付け、収穫時に返済させた。この制度で、貧民層を高利貸しや地主の搾取から救済するのである。また、5人一組で連帯保証人として、それを六組合わせて一つ事業単位とする。こうして、貸付から返済までの業務を自分達で行わせて経費を削減した。このように、ミカエラの政策根幹は、農民の没落を防ぐ事を意図していた。
 軍務的には、ナルセスの配下に軍務府、参謀府、査閲部、情報部があり、軍事活動の一切を管理している。
 リューフは軍務府の“総長”に収まり、各武将を統括する。また、戦時には軍の司令官となる。参謀府はオーギュスト、査閲部はフリオ、情報部はマックスが務める。
 リューフ麾下の精鋭は、ロベール・デ・ルグランジェ威東将軍、ミレーユ・ディートリッシュ威西将軍、ゴーチエ・ド・カザルス威南が率いる。
 そして、地方では、エルワニュール州牧をミカエラが、エスピノザ州牧をフリオがかねる。
 さらに、アラン・ド・パスカル威北将軍が、メルキュール州のマーキュリー要塞に入って、北のセリアに備える。フランチェスコ・ブーン揚威将軍はコリコス州の南境に、布陣してアーカスに睨みを効かす。パーシヴァル・ロックハート奮威将軍は西に進めて、エリンパス台地に配備してある。

 この夜、フリオの誕生パーティーが開かれていた。オーギュストはパーティーへの出席も兼ねて、建設途中の聖カール5世大聖堂の視察を行った。
 市街地北部の静寂な緑地の中に、大聖堂は建てられている。霊廟はドームのある八角形で、壁は青緑色のタイルで飾られる。ドームを支える巨大な柱には、ルーン文字で、女神エリースへの祈りの言葉と、カール5世の偉業が刻まれていた。
 玄関のモザイクについての打ち合わせが伸び、オーギュストは遅れて、会場に到着した。と、オーギュストの馬車に、ナルセスの妻エヴァが飛び乗り、「早く出して」とドアを閉めた。
 オーギュストは驚いた表情も見せず、そして、何も聞かずに「出せ」と短く命じた。
 しばらく、エヴァは窓の外の流れる風景を眺めていたが、湖が見え始めると、少し感情の整理ができたのだろう、「ご無礼を」と小さく頭を下げた。そして、きっと唇を結んだ。
「送りましょう」
 オーギュストはそう答えて、ハンカチを差し出す。
 それをエヴァは受け取ると、顔を窓ガラスに写した。すみれ色の瞳の周りは、赤く染まっている。
 程無く、馬車はディアン邸に到着する。
 エヴァが馬車を降りる時、オーギュストは手を貸した。右手を掴んで、腰にも触れた。しかし、いやらしさはない。ごく自然な仕草で、エヴァも手が離れてから、触れられた事に気付いたほどだった。
 そして、オーギュストは少し離れて、優しく微笑んだ。エヴァには、微かな香料だけが残されている。若さに似合った清潔感のある香りだった。胸の中に、忘れていた感情の泉が、湧き出してくるのを、否定し切れなかった。
 南側が全てガラス張りのリビングに、アンティークな家具が並べられている。
 オーギュストはメイドに氷を持って来るように依頼すると、ナルセスの究極のこだわり、バーカウンターへと向かった。そして、自慢コレクションが収まる棚から、高級酒を贅沢に取り出す。それから、氷が届くと、それを握りこぶし程度の大きさに削って、完璧な球体を作った。グラスの中に、透き通った球体の氷を入れて、酒を注ぐと軽くステアした。
 その頃、エヴァは洗面室にいた。鏡に顔を写すと、火照った頬に水を当てる。
「可哀想な、ナルセス……」
 鏡の中の自分に小さく呟くと、一本、二本と垂れたクリーム色の髪を直した。縺れた葛藤を作ったのはナルセスであり、その中に勝手に踏み込んできたのはオーギュストである、そんな事を弁明{いいわけ}に思いながらも、何より、若い男とのスリルに痴れていた。
 リビングに戻った時、オーギュストはサイドボードの上のオルゴールを鳴らしていた。そして、エヴァに気付くと、グラスに果物の飾りをつけて手渡す。
「綺麗ね」
 氷を転がしてみる。幻想的な光の揺らめきの中へ、思わず吸い込まれていきそうになった。
「強いの?」
「私が強く見えて?」
 エヴァは焦らすように、聞き返す。
「さぁ、だけど、男よりも一杯だけ少なく調整しそうだ」
「ふふ、どうしてそう思うの?」
「賢い女性は、尽くす事で男を支配する……」
「ふふ、何でも知っているのね」
 エヴァは一歩踏み出して、オーギュストにもたれた。そして、オルゴールの音に合わせて、身体を動かしていく。不義という言葉が頭を過ぎる。だが、この不義と言う響きは、何と甘美なものであろうか。
「さぁ、だけど、結婚はした事がないから」
「それは賢いわ」
 二人は少し悪戯っぽく、そして、やや照れているように笑い合った。と、男女の目と目が合う。エヴァは恍惚として、瞳を閉じる。何時の間にか、オルゴールが止まって、重い沈黙が流れていた。
 その時、「ママぁ~」と廊下から声がして、ドアが開く音がした。二人はさっと離れる。そして、エヴァは母親の表情をして、「どうしたの?」と末の子に駆け寄って行った。
 その母子を眺めながら、オーギュストはグラスの中を空にする。そして、バーカウンターに戻って、改めてグラスに酒を注ぐ。
 しばらくして、子供を寝かし付けたエヴァが戻って来た。もう二人にあの時の雰囲気は欠片も残っていない。
「ごめんなさい。折角のパーティーだったのに。伯爵にも謝罪しないと……」
「ナルセスと何かありましたか?」
「まぁ、いろいろとね。ここは今までの生活とは違うから。常識が通じないのよ。それなのに、私ばかりを責めるし。成功して、人間関係も難しくなったのは分かるのだけれど、ブーン家のお嬢様にまで、あんな幼い娘にまで、機嫌を取っている姿は見たくなかったわ……」
 オーギュストが何かを言いかけたが、エヴァはそれを制するように、続けて口を開いた。
「でも、もういいのよ。こんな立派なお屋敷にも住めるんだし。家族の為に頑張っているのだから」
「ええ、そうですね」
 オーギュストは単純に肯定すると、別れの挨拶をした。

 その後、オーギュストは市街地の南にある、フレイ神殿へと向かう。そして、抑え難い衝動に突き動かせるまま、アフロディースを抱いた。
 艶やかなアフロディースがオーギュストの上に乗り、激しく腰を振る。
「イイぃ、最高ぉ! ああ、あああ、ああ、ああん」
 熟した秘唇が適度に締め付ける。ふくよかな胸がたわわに揺れて、それを下から持ち上げるようにして揉み解すと、アフロディースの紅潮した頬が淫靡に歪み、半開きになった赤い唇からは甘い吐息が漏れた。
「きてっ、きてっ、きてぇーっ! 奥に一杯出してぇ、お願いぃ」
 蕩けるように濡れた瞳でそう叫ぶと、濃厚な口付けをかわして、互いの舌を吸い合う。
「あぁーん、奥にあたってるぅー」
 そして、軽い絶頂を向かえた。
 脱力して、オーギュストの胸に顔を埋めるアフロディースの表情は、満たされて安らかである。だが、それを見下ろす、オーギュストの瞳は、まるで餓鬼のように餓えている。強烈な嫌悪感に拒絶しようとするが、矛盾するように、一方でふつふつと欲望が沸き上がってくる。更なる刺激が欲しかった。タブーを犯したかった。
 オーギュストは荒々しく、アフロディースをベッドに押し倒す。そして、括れた腰を持ち上げると、べっとりと濡れた秘唇を一撫でした。指には粘り気のある汁がまとわりついて、それを萎んだままのアヌスに塗り込む。
「ああ……、そこは!?」
 刹那、虚ろな世界を彷徨っていた瞳に意志の光が戻った。そして、恐怖に慄く美貌を、オーギュストへ向ける。
 だが、狼狽するアフロディースに一切構わず、オーギュストはアヌスにペニスをあてがっていく。
「ひぃーーーッ! うぐぅうううう」
「息を吐いて、力を抜け」
 侵入をアフロディースのアヌスが強く抵抗する。そこに、脅迫的なオーギュストの言葉が飛んだ。
「や……ああッ、痛い…やめ……てぇ……」
 アフロディースは、美麗な瞳に涙を滲ませる。
「そら、いくぞ!」
 その苦しげなうめきも、もうオーギュストの耳には届かない。強引に打ち込むと、アヌスは無理やりに広げていく。
「うあ……あ…、あーーー!!」
 痛々しくも、ペニスを徐々に呑み込んでいくと、アフロディースは絶叫した。
「ひぃ、だめ…ぬ…抜いて…ぇ……」
 オーギュストは根元まで挿入すると、今度はゆっくりと引き抜け始めた。
「ひっ、ひっ、ひいっ……」
 衝撃がアフロディースの呼吸を奪い、苦痛に歪めた顔をシーツに押し付ける。それでもオーギュストの止まらない。止まるどころか、今度はさらに強く打ち込んだ。
「――ッ!」
 深々とアヌスに咥え込んで、アフロディースは涕泣[テイキュウ]する。内臓を突き破るような必殺の一撃は、被虐の炎となって、躯[からだ]の隅々までも焦がしていく。
「そんな……、そんな……お尻が熱い……」
 次第にアフロディースの表情から苦痛が消え、代わりに、恍惚とした淫靡な美しさを醸し出す。
――こんなところで……まさか……私が……
 いつしか悲痛の涙は、歓喜の涙に変わっていた。もう元戻りできない、自分が境界線を踏み越えたのだと実感する。
――イってしまう……だッ…ダメ…だ……め……ぇ……
 どこまで堕落していくのか、不安と被虐の快楽が交じり合う。そして、余りにもふしだらに、愛液を吹き上げてしまった。
 自分の中で何かが変わった事をアフロディースは実感した。初めて味わう快楽にどっぷりと酔い痴れて行く。その感覚の中で、二度目の絶頂を、より高く、より味わい深く、迎えていく。そして、快楽の波の中で、視界が白く濁り、意識は途絶えていった。
 行為の後で、オーギュストはこげ茶色の酒を飲んでいる。そして、うつ伏せに寝ているアフロディースの項から背筋を、愛しげに撫で下ろしていく。
 一人の女を虜にした満足感はあった。だが、胸中を掻き毟るような、情念の澱みを消し去る事までには至らない。あの時、エヴァと向き合った時に、怒涛のように熱く暗い感情が流れ込んできた。内臓が焼き爛れる中で、瞬く間に、理性は悲鳴を上げて、自制心は沈黙の誓いをたてる。だが、道徳心だけは、漆黒の炎の中に踏み止まり、これから起きる一部始終を目撃しようとしている。そして、細胞を焼き尽くす熱情の正体を、地獄の業火なのだと教えてくるのだ。だが同時に、その炎の何と甘美な事か、罪悪感の中にこそ本物の歓喜は潜んでいる事を、オーギュストは知る。
「奪う喜びか……」
 酒で薄めようとしても、以前ナルセスが言った言葉が、今夜は頭から離れない。


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Date:2011/08/28
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