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第十七章 金城湯池

第17章 金城湯池


【神聖紀1224年2月、エルワニュール州西部エリンパス台地】
 シデを放棄したカリハバール軍のトルゴウド・レイス将軍は、運河沿いに西へと進んでいた。しかし、予想以上の速度で、ナルセス率いる鎮守府軍が迫る。
「やはり振り切れん……かぁ」
 腕組みをしたまま、レイスは副官に呟く。それに申し訳なさそうに副官が頷くと、「お前の所為じゃないだろ」と苦笑した。
 カリハバール軍の本拠ランスのあるアーリス州を目の前にして、このエリンパス台地でついに追いつかれた。エリンパス台地は、アーリス州、コリコス州、エルワニュール州の三つの州に跨っている。やや高地のために、運河は水車で水位を調整している。その水車で、巻き上げられた水が、薄い霧となって、周囲を湿らせている。季節は冬。運河の南にそびえるヴェガ山脈から吹き降ろす風で、濡れた衣服が凍りつく。
「だが、さすがと言うべき、かな?」
「はい」
 ギロリと輝く眼が、副官を睨む。今度は副官も背筋を伸ばして答えた。長く戦場にある者同士、一瞬で熱い想いが伝播した。
「よし、ここで迎え撃つ。全軍、迎撃戦用意!」
 鋭い声を発し、愛用の兜の緒を締める。と、全身に稲妻が駆け巡って、心地好い緊張感に昂揚した。
 こうして、両軍はアーリス州とエルワニュール州の境で対峙する事となる。


 鎮守府軍は、運河近くの古い教会を本陣とした。強行軍から素早く軍勢を展開させると、早朝、幹部達を狭い一室に招集する。
「おいおい、こんな所しかないの?」
 木造のドアを閉めると、所々壁の漆喰が剥がれ落ちた。それにマックスが不満を告げる。
「お前の力が、無意味に余っている所為だ」
 すでに室内にいたナルセスが、やや苛々した雰囲気で告げる。それから、淡々と、髪に落ちた白い埃を払い落とした。
「ああそうですか。何でも俺の所為ですか?」
「お前にそんな甲斐性があるのか!」
 辛辣な言葉だが、声に嫌味がない。言った方も言われた方も、苦笑いをした。
「徹夜してきたのに……もういい」
 それでも、不当な扱いに拗ねたらしく、マックスは口を尖らせると、ナルセスの背中を窮屈そうに通って、左手の空いた席に座った。その直後、リューフが無言で扉を開く。その背には、オーギュストも続いている。
「どうだった?」
 ナルセスは椅子の背凭れに反り返ると、オーギュストの顔を覗き込む。
 オーギュストはすぐには答えず、まず扉を閉める。と、ナルセスとマックスの頭の上に、白い粉が降り注いだ。
「何だその白い顔は?」
 振り向いたオーギュストが、ナルセスを見て、眉を顰める。
「……別に……それよりレイス軍はどうだったのだ?」
 もはや顔の粉も落とさない。ただ不機嫌さを声に滲ませている。
「トルゴウド・レイス……なかなかの漢[おとこ]だ」
 答えたのはリューフである。体に似合わない小さな椅子に巧みに座ると、腕を組み、静かに目を閉じている。その隣では、オーギュストが、不快な悲鳴が上がる椅子に、思わず腰を浮かしていた。
 上座には、左からリューフ、オーギュスト、ナルセス、マックスの4人が並んでいる。その前には、ルグランジェなどの古参と、ヴィルヌーヴなどの新参が肩を寄せ合っている。奥には、壁に張り付くように立っている者さえいた。どれも精悍な顔立ちである。
 エルワニュール州都エリプスで、ヴィルヌーヴの第二陣と合流し、ついに総数は2万を越えた。そして、トレノからオーギュストが帰還するのを待って、レイス軍の追撃を開始する。
 アルティガルドから来た参謀顧問ベアトリックスが、目的地までを細かく区切って、緻密な計算の上で騎兵を分散させる。そこから得られる莫大な情報を魔術通信でマックスが集め、その真偽をオーギュストが整理分析した。そして、逸早くレイス軍を発見すると、リューフの指揮の元、先遣隊が通常の2倍以上の速さで駆けた。こうして、カリハバール軍随一と名高いレイスの背後を取る事ができた。
 “強将の下に弱卒なし”と云うが、神算鬼謀のオーギュストに天下無双のリューフ、そして、眼前の個性的で有能な面々は、まさにそれを証明している。誰と戦おうとも負ける筈がない、とナルセスは自負する。だが、そう心が勇むと、不意に『覚悟』という言葉が甦り、意味も分からず戦慄した。
「隙のない布陣だ。下手に攻めると、手痛い反撃を受けるだろう」
 リューフが続けて、簡単に説明を加える。
「そうか……追撃戦で軽く戦力を削げると思っていたのだが……ここで戦力を失いたくないな……」
 ナルセスは髭を伸ばし始めた顎に指を当てて、小さく唸る。
「失えば、ランス攻略戦で出遅れる」
 オーギュストは軽く言うと、テーブルの上にあったポットへ手を伸ばす。そして、自分のカップに注ぐと、次にリューフを見た。リューフは人差指を腕から上げて、それを断る。
 そのやり取りが、ナルセスをさらに苛[いら]つかせる。だが、それを腹の底へ押さえ込んで、決意の表情をした。
「もう少し武勲の上積みが欲しかったが、仕方がない。では、シデ入城を急ごう」
 自然と声が上擦る。守り易い地形、運河などの経済力、シデは狙っていた本拠地である。ついに手が届く所まで来た。頭の中では、すでに新政策案が幾つも芽吹いている。
「……」
 しかし、ナルセスの投げかけた言葉に、オーギュストは暫し沈黙した。カップを唇に当てたままじっと固まり、そして、止まっていた時間が一気に動き出したように、さっと飲み干す。
「ディートリッシュ」
 視線を末席へと向けて、元女性聖騎士の名を呼んだ。
「はい」
「シデへ先行しろ。警備、裁判権を一任する。ティルローズ様下向の準備を整えよ」
「はっ」
 ミレーユ・ディートリッシュは、表情を引き締めると姿勢を正して拝命する。
「カッシーでは損な役回りだったからな」
 オーギュストはナルセスに体を傾けると、小さく囁いた。
「それはいい……だがシデには入らないのか?」
 ナルセスは目を細めて、低い声で訊く。
「レイスがここまで使えると、アーカスの動きが気になる。最悪、シデでは主戦場に遠過ぎる」
「しかし……」
 ナルセスは下がらない。アーカスの介入があるからこそ、空白地となったシデを早く抑えておくべきではないのか、と確信している。
「ここなら、場合よっては、マーキュリー要塞に退く事もできる」
「そうかもしれんが……」
 唸るナルセス。その肩を、オーギュストが叩く。
「安易に背を向けるのは危険だ。まずは守りを固めよう。必ずレイスは動く」
「根拠は?」
「援軍がある、と勝手に思ってくれるさ」
「……」
 微笑んで言うオーギュストに、ナルセスは口をへの字にした。
「援軍ならあるぜ」
 そこにマックスが、ナルセスの前に頭を突っ込むようにして、二人の会話に入ってくる。
「マックス、少し黙れ」
「何か見つけたか?」
 ナルセスは頭ごなしに叱り、オーギュストは期待感のない声で訊く。だが、そんな反応にもめげず、逆に勝ち誇るように、マックスの顔が綻んでいる。
「アルティガルドの特務部隊の信号波を見つけた。2、3個小隊が入り込んでいるようだ、ヴェガ山脈に」
「それを早く言えよ!」
「だって、何か理由もなく、見下している人が居るみたいで……」
 ちらりとナルセスに視線を送る。ナルセスは糞忌々しげに、顰め面をした。
「流石マックス! お前は天才だよ、秀才だよ、奇才だよ」
「それほど、かなぁ~」
 一気に言い切ると、オーギュストは会心の笑顔を作る。そして、二度ほどマックスの頭を撫ぜた。それから、椅子を壁に弾いて、勢いよく立ち上がる。
「待て、軍議は?」
「リューフが知っているよ。行くぞ、マックス」
 オーギュストはそう言い残すと、マックスとともに部屋を出て行く。それを合図に、リューフは立ち上がり、地図を指して、布陣の説明を始めた。
 ナルセスは口の周りの斑な髭を撫でて、口元を隠すと、大きく息を吐き出す。それから冷静に考え直した。『元々ギュスは単独行動向き』であり、『リューフに将として自覚を促がす』と以前話し合った。だが、念願の根拠地を目の前にして、小さな前哨戦に拘る理由が分からない。
 流れを止めて、ナルセスはリューフに声をかける。
「ギュスらしくないと思うのだが、どうだ?」
 リューフはナルセスの方を向くと、静かに答える。
「この戦場には、嫌な気配が漂っている。それが気になるのだろう」
「殺気ぐらいなら、俺も感じている……」
 ナルセスは顎鬚を乱雑に掻き毟った。そこに一つの疑念が湧く。
――ギュスはカリハバール打倒だけを考え、天下を意識していないのでは……


 翌朝、カリハバール軍の天幕の中、色鮮やかな幾何学模様の絨毯の上で、レイスは両軍の配置図を見詰めていた。
「どうも、面白くない……」
 守り重視の陣形を命じた。兵達は夜を徹して作業を行い、柵と堀を巡らす。小さいが良く纏まった陣で、短い時間で守るための手は最大限打った、と自負する。これ以上部隊を動かしては、却って隙になるだろう。
「敵の狙いは、我らの足止めでしょうか?」
 副官が訊ねる。当惑しているのか、無自覚に爪を噛んでいた。当初、敵はすぐに仕掛けてくる、と予想していた。だからこその強行軍であろう。だが、その勢いこそが、付け込む隙となる。
 レイスはじっと考える。副官の言にも一理ある。敵同盟軍に十分な戦力があれば、精鋭レイス軍を釘付けにした功績は大きかろう。しかし、破竹の勢いの鎮守府軍が、その程度の武勲で満足するだろうか。もし、大戦力の支援があるのならば、別働隊でレイス軍を包囲する事を選択するのではないだろうか……
 レイスが思考の迷宮を彷徨っていると、乾いた声がした。
「お困りのようですな」
「そうでもない」
 素っ気無く答えただけで、レイスは振り向きもしない。だが、そんな反応も、黒いローブの魔導師にとっては、予想の範疇なのだろう。全く意に介していない。
「将軍、このような時のための、我等との同盟ではありませんか?」
「そうだったかな?」
 相手する事もウンザリと言うような声を出し、ようやくレイスが振り返る。
 黒いフードに隠れて、魔導師の顔は見えない。だが、その影の中に、鋭い眼光が瞬くのを感じた。殺人を楽しむような狂気の光だ、とレイスは思う。それが毒のように、決して受け入れる事のできない嫌悪となる。
「まぁ、そう言わず。サリスの知恵袋を始末致しましょう。さすれば、敵も浮き足立ち、将軍の待たれる隙もできましょう」
 魔導師は乾いた声で笑う。
「勝手にされよ」
「はい」
「しかし、カリハバール兵ではない。屍は拾わぬ」
「畏まりました」
 魔導師はくくっと不気味に笑って、消えていく。
「薄気味悪い奴ですね」
 気配が消えたのを十分に確認して、副官が呟く。
「陛下も何れ分かってくださる。あのような者と組んでも、利などない事を……」
 レイスは呟きに、苦さが増している。


 オーギュストとマックスの二人はマスクをして、地下のワイン倉の中にいた。真っ暗な空間の中、大きなガラス瓶の中で、浅黄色の液体が仄かに光っている。そこに、白い貝殻が浮かんでいる。よく観れば、それは一個の物体ではなく、小さな粒子の集まりである事が分かるだろう。
 通常、魔術通信は、エリース湖に生息する2枚貝のホーキン貝を使う。特殊な液体に浸すと、二つに割った貝同士で、音を伝え合う事ができる。貝は一つ一つ大きさや形状が異なり、理論上、組み合わせを違えると通信はできない。しかし、この特殊な粒子で貝を偽造すると、通信の傍受が可能となる。この粒子は極めて不安定で扱い難く、太陽の光、微妙な熱の変化、空気の僅かな流れなどでも、簡単に消滅してしまう。そのために、作業は、機密性の高い、暗闇の中で行われる。
「なかなか動きないねぇ」
 オーギュストが欠伸しつつ呟く。それを凄い形相でマックスが睨む。
「しっ!」
「はいはい、マスター」
 オーギュストは両手を上げて、降参の意を示す。それに『素人が』とマックスは舌打ちをした。そして、ダイヤルを慎重に回して、擬似貝の湾曲を微妙に変化させていく。
「しかし、よくアルティガルド軍のデーターを入手できたな」
「それは、いろいろありゃ~さ」
 オーギュストは恍けると、ぴらぴらとファイルを捲る。それを不機嫌そうに、『さわんな』とマックスが奪い取る。
「何か不機嫌そうだね」
「さっき、ヴィルヌーヴ男爵の従卒が噂しているのを聞いた……」
「何だろう。でも、盗み聞きはよくないなぁ~」
 オーギュストはまた別のファイルを手に取る。
「『結婚するぐらいなら死にます』とお姫様が言っているそうだ」
「そうなのか? 信じられないなぁ~ぁ」
「俺に恥をかかせたな」
 横目で睨むマックスの目は、梟のように鋭い。
「まぁこんな時代だし、色々あるだろうよ」
 またもや、いい加減に恍けるオーギュストに、マックスはふと不吉な予感を抱く。
「それとも……まさか、お前! 手え出したのか!!」
「言い掛かり、言い掛かりだからねぇ。ハイハイ落ち着こう。兎に角、落ち着こう」
 オーギュストは宥めると、隠れて小さく息を吐く。
「やっぱり、セレーネ半島の貴族は、今時過ぎていかん。やっぱ女は南部だよ」
「南部?」
「保守的で、貞操で、従順だ」
「……」
「エリプスのドヌーヴ子爵が、別荘でのパーティーに招待したいって」
 いやらしい笑みに目を歪めて、オーギュストが囁く。
「……もう貴族はいいや。俺には地元の女が似合っているんだよ」
 マックスは逃げるように巨体を背ける。
「情けない事言うなよ。なぁ想像してみようぜ。象牙のような白い肌。そこに膝枕して、耳掃除してもらう。甘美な時間だ。男の美学だろ?」
 オーギュストは蕩けるように目を閉じて、妖しげに手を捻らせる。
「……ぬぅぅ」
「男なら遠洋漁業だぜ。沿岸でちまちませず、大物を狙おうよ」
「……かなぁああああ」
 マックスの体が、不自然に捩れていく。
「悪いようにはせん。全てこの老人に任せておきなさい」
「……よろしくお願いします」
 根負けして、ついにマックスが頭を下げた。そして、ありもしない長い鬚をなでながら、オーギュストが満足げに頷く。
 と、急に盗聴機から信号音が鳴った。
「……何だ?」
 オーギュストが腰を浮かす。
「救援を求めているようだ」
「場所は分かるか?」
「座標は暗号のようだ」
「記録しろ。暗号コードなら分かっている」


【ヴェガ山中】
「おい、応答しろ」
 魔術通信機に怒鳴る。
「……ダメです。通信が切れました」
 軽装の戦闘服に身を包んだアルティガルド兵が、悲鳴のような声で告げる。
「これで2個小隊が全滅ですか?」
「敵の方から出てくるとは……」
「いいじゃないか。探す手間が省けて」
 ガムを噛みながら、とんがり帽子の女が言った。猫のように勝気な瞳をしている。
「だが、これでは各個撃破されてしまう。一旦下山しましょう」
「伍長、臆したの!」
 再び、挑発的な態度を取る。だが、慣れているのか、周りの男達は皆抵当に無視している。
「アーダム小隊長……どうします?」
 5人の兵が、指揮官の顔を見詰める。
「味方がやられているのだ。救援に向かう」
「しかし……」
「ギーナ伍長。我々の任務は魔導師の殲滅だ。それを忘れるな」
「……はい」
「では、先行しろ。シズカ、お前もいいな」
「ええ」
 シズカと呼ばれた魔術師は、斜に構えたまま、同意を伝える。
「よし、出発!」
 アーダム中尉が命じると、小隊は動き出した。全員が魔法の剣を使いこなす、アルティガルド軍の特務部隊である。魔法剣士五人に魔導師一人で、編制されている。現在、その小隊が五つ、この山系で行動していた。
 アーダム中尉の後に、シズカは進む。アーダムは時折振り返って、気を配っている。
 彼女は雷の魔法を得意とする魔術師である。藍色のとんがり帽子に、魔術師のローブを纏っている。これはアルティガルド魔術師の標準的な格好なのだが、ローブの中は多少違っている。碧色のミニスカートに、棒のように細い太腿の下に黒いブーツを膝下まで履く。顔はまだ幼いが、言動は辛口で、剣豪の男達に混じっても一切臆する様子はない。
 森の中を一時間ほど歩くと、落葉の中に、死体を見つけた。まるでジグソーパズルのように、無残に切り刻まれている。
「酷い……」
「まだ潜んでいるかもしれん。注意を怠るな!」
 厳しく、アーダムが命じる。
 と、それを待っていたかのように、一陣の風が吹いて、枯葉が舞い上がった。
「何て邪気!」
 シズカが顔を庇いながら、叫ぶ。
 枯葉は小さな竜巻となっていたが、それを割いて、黒いローブの魔導師が現れた。
「ねずみどもが、こそこそしよって」
「包囲しろ」
 アーダムは魔法剣を抜く。刃に青い稲妻が走った。
 魔導師はローブを脱ぎ捨てた。紫色の頭巾に、紫色の装束、顔にも紫色の隈取をし、さらに、背中に6本の紫色の鞘を刷く。その異様な装束{いでたち}と、その体から発せられる殺伐とした気迫に、思わず身構えた。
「ワシが斬れるかな」
「……うぬっ!」
 剣を握ったまま動けない。斬りかかれば、確実に死ぬ。剣技の冴えを、その存在感だけで伝えている。これほどまでの殺気を、近付くまで全く気付かなかった。それをアーダムは羞じ、そして、驚嘆した。
「ジム、ま、待てッ!」
 アーダムが思わず叫ぶ。緊張に耐えかねて、若いジムが斬り込む。魔導師はフッと笑うと、その背から六本の風の束が流れた。
 ジムを援護しようと、他の魔法剣士達も踏み込む。しかし、その前に、剣の影が走って、咄嗟に足を引いた。そして、一人残されたジムの体が、切り裂かれる。
「……」
 アーダムの背中に冷たい汗が滲んだ。
「……な、何者だ」
 声を搾り出す。
「かつて、愚民どもはドラッヘルと呼んだ」
 余裕のある声だ。
「ドラッヘル……南陵紫龍流の開祖……」
「ほお、知っておったか」
 悪趣味にも、反応を楽しんでいる。
「何故、とっくに亡くなられた筈では……?」
 アーダムの声が震える。
「ワシの最強を求める精神が、肉体の死を乗り越えたのだ」
「剣聖と称えられた御方が、外道に落ちたか!」
「違う。これこそ真の道よ」
「言うな!」
 アーダムは絶叫すると、目で合図を送る。シズカが詠唱して、“雷のロッド”を振る。
「ブリッツェン・カッツェ(稲妻の猫)」
 雷の塊が飛び、それが毛を逆立てる猫へ変化する。
 稲妻の猫が跳ねて、ドラッヘルを牽制する。そして、顔の前でシャーッと弾けると、無数の雷の柱となって、ドラッヘルの周りに立つ。と、一斉に魔法剣士が柱の影から斬り込む。
 次の瞬間、アーダムは地面に倒れていた。目の前を、赤い血が広がっていく。
「逃げろ、シズカ」
 声を発すると、全身が痛む。頭の先で足音がした。目を動かすと、黒革のブーツが見えた。そして、腕が一本降りてきて、血の中から剣を拾う。その剣を追って、視線を上げると、赤い瞳と出会[でくわ]した。
「此奴[こやつ]らを捨て駒にしたか? 非道よのぉ、赤き瞳よ」
「偶々、間に合わなかっただけだ」
 オーギュストは笑うと、アーダムの剣で素振りする。
「よいよい――」
 ドラッヘルは腹の底から震えるような歓喜の声を上げる。
「今日、ワシは最強となる!」
 紫色の装束から、6本の腕が出現する。それぞれに剣を握って、大きく円を画くように構えた。
「数の差が、勝負を決める訳ではないのだが。外道には理解できぬか?」
「くくくっ、如何とでも言え。これが、生涯をかけた修行の果てに、到達した技よ!」
 ドラッヘルが鋭く踏み込む。そして、左右の剣を横に振りぬく。6本の剣が不規則に走り、風が唸った。
 オーギュストも足幅を広げて、腰を落とすと、剣を左右に切り替えして素早く振る。
 剣の剣が擦れる。高い金属音が鳴り、眩い閃光が生じた。と、ドラッヘルの右腕が一本、刎ね飛んだ。
「まだだ!」
 次に、左手も弾き飛ぶ。
「うぎゃぁあああ!!」
 ドラッヘルがよろめく。六本の腕が全てを切り落とされると、天に向かって咆哮した。
 オーギュストはドラッヘルの顔へ左手を翳すと、振り返り、得意げに眉を上げた。それから反動をつけて、大きく剣を振る。雷の迸りが弧を画くと、ドラッヘルの体を一刀両断した。
「脳まで斬れば、もうコレクションできまい。蝙蝠野郎!」
 オーギュストは両手を広げて、恰も舞台で観客の喝采に応えるように、ぐるりと廻ってみせる。そして、嘲笑するように言い放つ。
「野郎なのか?」
「……知らん……」
 その後、木々の間から兵士が現れた。手にウォーハンマーなどを持ち、ゆったりとした白いローブを腰のベルトで搾っている。その中には鎖帷子を着ているようで、胸元から鉄の光彩が見えていた。一見して、アーダムはロードレス人だと分かった。そして、この地に居るロードレス人といえば、あの美人しか思い浮かばない。地に這いながら、銀色の光を探す。
 銀色の髪は風に靡いていた。思わず息を飲む。
 アフロディースは死体を見下ろすと、周囲に警戒を払っていた。その隣で、オーギュストは破れた革のジャケットを気にしている。
 突然、人影がアーダムの傍らに立つ。
「だ、誰だ……?」
「友軍だ。中尉」
 アーダムが顔を上げると、白いアルティガルド軍の軍服が目に入った。彼女は、長い髪をきつく後ろで縛り、引っ張られた前髪が、厳しい表情となっている。そして、縁のない眼鏡の奥で、鋭くアーダムを見下ろしていた。
「動くな。今手当てをしてやる」
「大尉……申し訳ありません」
「気にするな」
 ベアトリックスは薄く笑いかけた。
 その時、森の外から、鬨[とき]の声がした。
「始まったか……偶然か?」
 森の上を飛び去る鳥の群れを見上げながら、オーギュストが囁く。


「斉射三連!!」
 鎮守府軍の第一陣、ロックハート隊にレイス軍が矢を仕掛けてきた。当時、弓兵の技術として、三本の矢を右手の指に挟んで、弓を引いた。故に、一度の攻撃で三連射するのが、一般的であった。三度、柵に矢が突き刺さる音がした後、ロックハートは反撃を命じる。
「応射しろ!」
 激しい矢の応酬が始まった。
 ナルセスはロックハート隊の支援に、ブーン隊とヴィルヌーヴ隊を前進させる。前線の戦力は、鎮守府軍が上回っている。
「敵は逃げるタイミングを計っている。敵が引いた瞬間に、騎兵を突撃させるぞ」
 ナルセスは、リューフとルグランジェに、各隊の間を抜けて攻撃するよう指示した。しかし、リューフが沈黙している。
「……」
「不服か?」
「いや、……敵の攻勢が、やや単調すぎるのが……やや気になる」
 リューフの言葉に、ナルセスは暫し考える。
「何かあるというのか?」
「ギュスが離れた瞬間というのも気になる」
「考え過ぎでは?」
 ルグランジェが言った。
「何があろうと、突き破ればいい」
 そして、意気盛んにナルセスを見る。瞳が先鋒を求めている。
 ナルセスは、リューフの肩を掴んだ。
「レイスを高く評価するのは分かる。だが、時に戦は単純だ。敵の狙いは一度押してから、退く。我らはそれを受け切り、戦力を殺ぎ落とす」
「ああ、そうだな。俺らしく、今は正面の敵を叩く事に専念しよう」
 リューフは納得して頷くと、一歩下がって、凛々しく敬礼した。

 矢の応酬は深刻さを増す。レイス軍も後方にあった部隊を前に出して、間断なく規則的な射撃を繰り返す。この激しい攻勢に、次第に鎮守府軍は、思うようには応射できなくなる。前線は、レイス軍が圧倒し始めた。
「頑張れ、もう少しだ」
 矢は射れば減るし、体力も落ちる。無限に攻撃し続ける事はありえない。ナルセスは敵の後退が近い事を察していた。
 そして、鎮守府軍の陣形の乱れが明らかになった時、レイス軍の組織だった射撃が減る。その瞬間を逃さず、ナルセスは立ち上がると地面を蹴る。
「行け!」
 果敢に騎兵が打って出る。一気に両陣の間を駆けて、柵に迫った。
 と、左側面から鬨[とき]の声がした。ナルセスが見遣ると、冷えた大気に、土煙が舞い上がっていた。すぐに、左翼のブーン隊から、悲鳴のような援護の要請が入る。
「何故だ。何故気付かなかった?」
 参謀を睨む。
「丘です。運河建設で出た廃土を積んだ小さな丘があります。その裏に潜んでいたのでしょう」
 答えたのは、本陣の隅に控えていた若い幕僚のダリ・カスティーヨである。ナルセスがもっとも期待を寄せている若手の一人だ。すらりとした長身で、鼻が非常に高い。日常{いつも}、そこに丸く小さな眼鏡を引っ掛けている。
 カスティーヨは先輩幕僚達を押し退けて、前へ出た。眼鏡のずれを直す顔には、野心が漲っている。
「前線を下げれば、敵は後退します」
 カスティーヨの懸命の進言にも、ナルセスは首を横に振る。
「今命令を撤回しては、前線が混乱する。カザルス、前線を立て直すまで、本陣直属部隊だけで守れ」
 ナルセスは元聖騎士のゴーチエ・ド・カザルスに命じた。
「ギュスをすぐに呼び戻せ!」
 さらに、ナルセスは背後のマックスへ命じる。
 すぐにカザルスは麾下の騎兵とともに打って出た。カザルスは善戦したが、数と気構えにおいて、すでに劣勢だった。彼が挫けかけた心で、背後を見詰めた時、俄かに、敵の攻撃が弛む。

「行け、行け、敵陣を突き崩せ!!」
 レイス軍の騎兵指揮官は、部下を叱咤する。と、奇妙な音が頭上でした。そして、持っていた槍に強い衝撃が生じて、思わず落としてしまう。不思議な表情で、地面の槍を見ると、自分の目を疑っていた。槍に一本の矢が突き刺さっている。
「狙撃兵か!?」
 首を竦めると、辺りを見渡す。その時、背後の森の中から放たれた矢が、傍らの旗を射抜く。森を見遣ると、木々の影にうっすらと人影が見えた。
「伏兵か……」
 絶句する。そして、撤退を決意した。

 本陣のナルセスの元へ、マックスが駆け寄る。
「深追いはするな。丘に弓隊が潜んでいる。戦線を縮小して、兵を退け。以上」
 マックスがオーギュストの言葉を伝える。
「あれはギュスが?」
 腕組みをしたまま、顎髭で森を指した。
「らしい。何でも、草を魔術で生やして、人に似せたとか」
「なるほど、便利だな。俺も覚えたいよ」
「何でも、30年便所掃除したら、基本ぐらい習得できるらしい」
「……」
 ナルセスは不審そうに、マックスを見る。マックスは嬉しそうに笑うと、人差指で交互に互いを指す。
「同じ事、考えるものだな」
 ナルセスは、目尻が切れるのでは、と思えるほど、目を剥いた。


 2週間が過ぎた。レイス軍は去ったが、鎮守府軍はまだこの地に残っている。
 夕刻、ナルセスはオーギュストの部屋を訪れた。部屋は南西の角で、小さなバルコニーがある。そこでオーギュストは一日中、ヴェガ山脈を眺めていた。
「……」
 ナルセスが扉を開くと、そこにある筈の、石像のようなオーギュストの姿がない。唖然としていると、偶然リューフが通りかかった。
「ギュスを知らんか?」
「マックスと近くの貴族のパーティーに出席するそうだ」
「ああ、見合いか。今日だったのか……」
 ナルセスは納得すると、顎鬚を撫でる。それから、リューフをバルコニーに誘った。
「ギュスはここで何をしているんだ?」
「感じているのだろう。GODとかいう連中を」
「分かるのか?」
「分かるんだろ?」
 俺に聞くな、と言わんばかりに、リューフが言い返す。それにナルセスは小さな溜め息を吐いた。
「最近のギュスは分からん。もうレイスは居ないのだ。何故ここを引き払わん」
「レイスの奇襲を気にして……」
「それは表向きだ!」
 ナルセスは強く言って、リューフの言葉を切らせた。
「なぁ、俺は思うのだが――」
 それから、沈む夕陽を眺めながら、疲れたように囁く。
「ギュスは天下統一に興味などないのでは?」
「どうして?」
 リューフは本心から意外そうに聞き返した。
「シデを目の前にして足踏みしているし、先の戦でも、GOD討伐を優先させた」
「そうか。元々奴はカリハバールの魔導師を倒す為に、戦っていたんだな。忘れていたよ」
 からからと嫌味のない笑い声を上げた。
「冗談ではない」
「だが、俺達は全員が訳有りだ。それぞれに目的も目標も有ろう。それは咎められんぞ」
「……ならば、リューフは何のために戦う」
「俺は気のいい仲間と事を成せればいい、と思っている。それが天下統一でも、ワイン造りでも、どちらでも構わん」
「……お前も訳分からん」
 だろうな、とリューフはさらに大きな声で笑う。そして、ナルセスの背中を叩いから、歩き出した。
「ギュスは俺達を裏切ったりせんさ」
「……根拠は?」
 ヒリヒリする背中を擦ろうとするが、想うようには手が届かない。もどかしさに顔を歪めると、声まで歪んでしまう。
「最近、表情が豊かになっただろう? 最初は鉄仮面かと想ったけど」
 リューフは手を上げて、去って行った。一人残されたナルセスは、オレンジ色に輝く空を見上げると、大きく胸を上下させて、大量の息を吐き出す。
「……分からん……」


 その頃、正装したオーギュストは馬車の中に居た。横では、マックスが緊張した面持ちで座っている。
「そう硬くなるな」
「だってよ~」
「いいか。常にさり気無くしていればいいんだよ。絶対に、大きな声を出したり、取り乱したりするなよ。それだけ気を付けていれば良い」
 言い聞かせるオーギュストを、マックスは横目で睨んだ。
「お前は貴族だからいいよ。俺なんて、“なんちゃってフォン”だから……」
「騎士じゃ、ここでは貴族の内にも入らないよ」
「じゃ、どうすんだ?」
「道化をね、演じるだけさ。まぁ、お前は人生そのものが道化だけどね」
「……つッ」
 マックスは沈黙して、急に痛み出した腹を抑える。
「ああ、そうだ。出された物は残さず食えよ。偏食は貴族の間じゃタブーだ。それから――」
「そんな一気言われても……覚えきれないよ」
 馬車は大きな館に着く。見渡す限りの広大な敷地の中では、豪華な城館も小さく見える。庭には山も川もあり、狩場まであった。サリス南部の名門、ドヌーヴ子爵邸である。この翌日に狩りが企画されていて、多くの来賓で賑わっている。
 オーギュストとマックスは、玄関ホールで執事の迎えを受ける。もう夕食は終わっているらしく、二人は階上の遊戯室へと案内された。
 遊戯室には、ビリヤード台、カードゲーム用のテーブル、それにピアノなどが備えてある。その中で、貴族達はそれぞれ思い思いにくつろいでいた。
 二人はドヌーヴ子爵夫婦に挨拶する。その後、オーギュストはマックスと離れて、一人階下へと向かった。残されたマックスは、借りて来た猫のように、居心地悪いソファーに小さく座る。その彼を貴婦人達がひそひそと皮肉った。
『付き人すら、連れていないようです』
『卑しい、成り上がり者ですわ』
『見て、常識もない』
 そこへ、オーギュストが戻ってくる。
「何処へ行っていた!?」
 悲鳴に似た声を張り上げそうになって、どうにか喉元で絞った。
「夜食をね、頼んできた」
 オーギュストはマックスの肩を優しく叩く。
「……みんなばらばらで、俺ここで何すればいいんだよ」
「何でも、好きな事すれば良い。みんな勝手にくつろいでいるだろ。それがここのルールだ」
 そう言うと、涙目のマックスを残して、オーギュストは貴婦人達の輪へと向かった。輪の中心には、老婦人がいた。アルバラーデ伯爵夫人である。サリス南部社交界の格とも言える人物で、社交界の約半数が彼女の血縁者だといわれている。
 オーギュストは畏まって、伯爵夫人の手に口付けをする。伯爵夫人は気が乗らない様子だったが、それでも作法は守った。
「大叔母様、お会い出来て光栄です」
「将軍に、そう呼ばれる覚えはないけれど?」
 丁寧だが、強烈な拒絶の意がある。
「私は、リュパン男爵の姪ジュレーの息子です」
「まぁ」
 伯爵夫人の顔が急に明るくなった。
「あの子が小さい時に、膝の上に抱いた事があったわ」
「はい、母から何度も聞かされました。名誉な事だと」
 オーギュストは恭しく礼をする。
 その後、ピアノの演奏など、多彩な趣味を披露して、大いに場を盛り上げた。

 深夜になって、オーギュストとマックスは、宛がわれた客室に入る。
「どうして、ああも変わるかねぇ?」
 マックスはミニバーから酒のボトルを取り出して、そのまま口に運ぶ。そして、本当に美味そうに、『あ~ぁ』と唸った。
「田舎というものは、排他的なものだ。だからこそコネが大切」
 さすがに疲れているようで、オーギュストはベッドに大の字になって倒れ込む。
「なるほどねぇ~。それで俺も、そのコネにするわけか?」
 マックスは空のボトルを放り投げると、また別のボトルの蓋を空けた。
「子爵にとってね。あのばあさんも、先は長くない。その代わりを子爵は狙っているのさ。もうすぐそこまで時代の終焉が迫っているのに、気付いていないのか、目を覆っているだけなのか。何[いず]れにしても、滑稽だよ」
 嘲笑気味に言うと、オーギュストは足を交互に上げて、寝たまま靴を脱ぎ捨てる。
「よく調べたものだ」
「さっき、階下でメイド達を盗み聞きした」
「素晴らしい、ご趣味で」
「あんまり飲むなよ。酒臭いと、子爵家令嬢に嫌われるぞ」
 一人飲み続けるマックスを軽く窘める。だが、マックスにそれを受ける気はない。
「居間に居なかったけど、どんな人なんだろうね?」
「気にするな。南部貴族に恋愛結婚はない。頭の中は、格式と金だけ。嫌いものは、変化と貧乏。その辺を上手く話せば、自分から股を開くさ」
「股って……お下品な」
 ほろ酔い気分で、マックスは笑う。

 翌朝、二人は食堂へと向かった。オーギュストはパンとココアを取ると、テーブルにつく。そこへ、伝令が駆け込んできた。
「レイスか?」
 マックスは、オーギュストと全く同じメニューを片手に持って、顔をオーギュストへ寄せた。
「いや」
 オーギュストは手紙を握り潰すと、暖炉に投げ込む。
「俺はこれから出掛ける。お前は狩りでもして、先に帰ってくれ」
「な、何ですと!?」
 おどおどするマックスを残して、手早くオーギュストは子爵邸を後にした。


【2月中旬、エリプス】
 オーギュストは何度も馬を乗り継いで、夜、州都エリプスに到着する。街の門で馬を降りると、見知った執事が待っていた。彼に案内されて、街中央のホテル・ブルボンへ入った。
「おい、ミカ。何処だ?」
 部屋に入るなり、オーギュストは不機嫌に言った。と、シャワー室から、ガウン姿のミカエラが出てくる。
「あら、早いわね」
 さわやかに微笑んで、頭に巻いたタオルをほどく。
「何事だ。サッザ城の守りはどうした?」
「さぁ――」
 ソファーに腰を下ろすと、ミカエラは執事に、紅茶を、と目配らせする。
「どうせ、シデで旗揚げ後、サッザ城はオルレランに献上するのでしょ? 守っていても仕方がないわ」
「ティル……ティルローズ様と何かあったのか?」
「別に」
 ミカエラは澄まして答える。
 オーギュストは馴れ馴れしくミカエラの隣に座ると、肩に手を回した。
「汗臭い。シャワーでも浴びれば」
 ミカエラはその手を跳ね除ける。だが、オーギュストは離れず、上体を倒して、ミカエラの膝の上に頭を落とした。
「ちょっとした意見の相違はあったけど、それだけじゃないわ」
 音も無く、もぉーと口を尖らせたが、ミカエラは優しくオーギュストの髪を撫でた。
「じゃ何?」
 オーギュストは子供っぽく訊く。
「ナルセスが心配していたわ。シデ行きになかなか同意しないって。何か他に思惑があるのか、と」
 ナルセスめ、とオーギュストは舌打ちする。
「どうなの?」
「俺はミカのために、この地を切り取ったのだぜ。その努力は評価して欲しいね」
 手を上げて、ミカエラの頬に添える。
「プレゼントは嬉しいわ。でも、他にも同じ事言っているのでしょ?」
「……」
 目だけ無表情の笑顔で見下ろされて、オーギュストは逃げるように横を向いた。
「気になることがあるの?」
「……ヴェガ山中に、あの黒髪黒服の女はいる。それは間違いないんだ」
「足踏みするなんて、あなたらしくもないわ」
「だが、アルティガルドの精鋭部隊の惨劇を見るとねぇ。どうも決断できない。もう少し情報が欲しい所だ……」
「でも、時代は動いているわ」
 オーギュストは顔を戻した。
「オルレラン公は孫のイッポリートをセリアに入れて、軍の再建に取り掛かっている。それに、ルブランがアーカスのアレックスを呼び寄せたそうよ。オルレランの敗戦で、経験豊かな指揮官の必要性に気付いたのでしょう」
「そうか……」
 オーギュストはぼんやりと呟く。アーカスでは、カルロス3世の姉クリスティー・マルシア・デ・オルテガと、従兄のアレックス・フェリペ・デ・オルテガが、不仲だと言われていた。それが決定的に決裂したのだろう。
「これでアーカスが手薄になるなぁ」
 南への備えは不要だな、と頭で地図を画く。しかし、アレックスを追い出すとは、クリスという王女の手腕も侮れない。そして、もしアレックスが南下すれば、衝突する事もあるかもしれない、とやや不安が頭を擡[もた]げた。
 その時、執事が紅茶を持って来た。
 オーギュストは起き上がると、考えに耽りながら、それを受け取る。
「シデに行くか……」
 そして、小さく呟いた。
 その背に、今度はミカエラが優しく手を添えた。
「宿敵を前に、口惜しくて?」
「いや、俺も所詮全能ならざる人なのだと、少し安心した」
 頭をミカエラに傾げる。ミカエラはその首に口付けをして、次に耳を噛んだ。と、急にオーギュストが立ち上がる。ミカエラは驚いた表情をした。
「少し、俗っぽくなった。体を洗ってくる」
 オーギュストが数歩足を動かすと、そこへ、先程の執事がまた入って来た。そして、軍からです、と手紙をテーブルに置く。
「何、このセンスのない、ピンクやら花柄やらの便箋……」
 ミカエラは美しい眉を神経質に顰める。
「ああ、ナーディアだろ。フリオの居場所は秘密になっているから、俺の所に手紙を寄越して来る」
 オーギュストはまたソファーに戻ると、一枚手に取った。それを斜めに読んで、可愛いじゃないか、とほのぼのと笑った。だが、ミカエラの眉間の曇りは晴れていない。
「フリオとナーディア、いいカップルじゃないか?」
「身分が違うわ」
「……」
 冷淡に言い放つミカエラに、オーギュストは言葉を失う。
「平民出の娘が、どんなに粋がっても、素姓は隠せないわ」
 さらに、ミカエラは鋭い言葉を付け足す。
「そんなものか……」
 オーギュストは頭をかいて、マックスの顔を思い出していた。
「あの子は、伯爵家を背負って立つ男。新しき時代に合った女性を、私が、選ぶわ」
「そんな事言っても、今フリオはトレノにいる。今頃、変な女に引っ掛かっているかもしれんぞ?」
 はっ、と眉と口が開いて、動揺している心を表すように、僅かに震える。
「初めての女がろくでもないと、一生の傷になるからなぁ」
 オーギュストはミカエラをからかう。他の事ならすぐに見抜くだろうが、こと弟の事になると、ミカエラの判断力は鈍るらしい。
「……如何したら?」
「ミカの友人に頼んでみたら?」
 悪戯心に火がついた。
「ベアトリックスに?」
「ああ、男爵家出身だし、才色兼備だ。申し分ないだろう」
 ふふ、ミカエラは笑った。
「それはたぶん無理ね」
「何か理由を知っているようだな?」
「いいえ、私は何も」
「白状させてやるよ」
 否定するミカエラに、オーギュストが強引に覆い被さる。
「如何したの? 俗っぽいのじゃなくて?」
「いや、今のミカは姉の顔だ。ぞくぞくする。フリオから奪い取ってやる」
「また、そんな不良みたいな言い方して」
 二人は濃厚な口付けをかわす。

「んん…んっ…ちゅ…ちゅ……んんっ」
 ミカエラはオーギュストの膝の上に跨るようにして、濃厚なディープキスを続ける。二人の唇からは、ふしだらに交じり合った唾液が、ソファーへと落ちていく。そんな乱れも気にせず、二人は燃え上がり、さらに強く唇を押し付けあった。
「長かったな」
 オーギュストはキスの事を言った。唇が離れると、すぅーと糸を引いている。
「……長かったわ。随分ほったらかしにしてくれたわね」
 ミカエラはオーギュストの顔を両手で覆い、その造型を再確認するかのように、爪の先にまで神経を研ぎ澄まして、動かしていく。
「許さない」
 そして、強く爪を立てる。爪先に感情が迸った。ミカエラは再びキスをする。今度は自らの舌を、オーギュストの口の中に挿し込み、歯の裏側や歯茎を舌先で刺激する。オーギュストはその舌をしゃぶるように吸った。
「うれしい……」
「何が?」
「すぐに駆け付けてくれて」
「ミカに会えるんだ。地の果てからでも来るさ」
「また、そうやって、馬鹿みたい」
 ミカエラは、はにかむように笑った。
「ふふふ」
 だが、次の瞬間には、先程と違う、淫靡な微笑みに変わっていた。そして、オーギュストのシャツのボタンを一つ一つ外し、現れた胸に舌を這わせた。
「ねえ」
 ミカエラは甘くねだる。そして、ソファーから降りると、センターテーブルに手を付き、魅惑的な尻をオーギュストに向けた。
「ギュスを思って、もうこんなになっているの」
 そして、両手で尻肉を鷲掴みすると、左右に広げる。潤んだサーモンピンクの秘唇がわなわなと震えていた。
「さぁ、自由にしていいのよ」
 オーギュストは誘われるままに、そこにペニスを宛がい、一気に貫いた。
「あっ、いいっ…」
 ミカエラの指がテーブルを掻き、大きく上体を仰け反らせる。そして、半開きの口から歓喜の声を上げた。
 オーギュストは激しく腰を打ち付けていく。
「はぁん、んっ、んぁっ、はぁん……」
 ミカエラはたまらず喘ぐ。そして、右腕を背後に回して、オーギュストに髪を撫でた。
「いいの、凄くいいの……」
 眉間に深い縦皺を一本刻み、額を汗で濡らしながら、小鼻を膨らませる。発情した牝となって、更なる快楽を求めて、腰を振り乱す。
「はぁん、ンンんっ、んぁっ、んんっ…」
 ミカエラはオーギュストの頭を抱える。それから、徐に首を回して、愛しい男の唇を求めた。
「犬のような姿で感じるなんて、ミカは本当にいやらしいな」
「い、言わないで」
 羞恥で、ミカエラは耳まで真っ赤になる。
「誇り高い伯爵令嬢のふりをして、実は後ろから入れられて喘ぐ、最低の淫乱だな」
「言っちゃ、いやぁーー!!」
 その瞬間、膣穴がきつく締まった。その締まりを堪能するように、再びペニスが動き出す。それで完全に箍が外れた。
「オマンコがとろけちゃう・イイッ!!」
 ミカエラは更なる高みに昇り詰めていく。
「あーっ、イクッ…」
 支えていた腕が力なく崩れ、机の上に伏せた。
「はぁ、はぁ…」
 ミカエラの身体の奥が、かっと熱くなり、満たされた幸福感に包まれて放心した。そして、暫く余韻に慕っていたミカエラは、色情に惚けた瞳を向けると、愛らしく媚びた。
「入れて……もっとぉ」
「後ろから?」
「ええ」
 オーギュストはミカエラの両腕を掴むと、再び攻め始める。より強く、より深く抉られて、ミカエラはさらに激しく喘ぎ声を張り上げた。
「あっ、ひぃーーッ!」
 朝はまだまだ遠いようだった。


【エリース湖】
 翌朝、エリプスの港を一隻の船が出た。帆はまだ冷たい風を一杯に蓄えて、船を前へ前へと押し進める。青い湖面は切り裂かれて、白い波となって流れ、そして、淡い波紋となって消えていった。
 オーギュストはカルボナーラ号にいた。頬を凍った風が叩き、切られるような痛みが心地好い。黒髪は吹き上げられるままに靡かせる。操舵輪を握る手に自然と力が入り、肌が粟立った。
 一つの波を蹴って、船が舞った。船底が湖面を強く叩く。思わず、操舵輪から片手を外した。風を突いて、天に届けとばかりにと伸ばしてみる。
 エリース湖は、何時如何なるときも、清浄なる青さに満たされている。太古より、どれほどの船乗りが、この感触の虜になっただろうか。そして今、自分の本分が船乗りである事を自覚する。その喜びに心が踊った。
 その時、足元の魔術通信機が鳴った。無粋な音である。オーギュストは蹴って、作動させた。
「今何処いるんだ?」
 ナルセスの声が飛び出てくる。
「湖上だ。気持ちいいぞ」
「何やっているんだ。マックスを放り出して、胃に穴が空いたらしいぞ」
 オーギュストは快活に笑った。
「大丈夫、あいつには予備が付いているから」
「下らない事を!」
「怒るな。ティルローズ様を迎えに行く。オルレランにも寄って、シデ大公国を承認させてくる。シデで会おう」
「おーーーーっ!」
 ナルセスが絶叫している。
「ああ、それから、エリプスはミカエラに任せるから、そのつもりで」
「ほォ、そうやって分けるのか。最初から企んでいたのなら、悪よのぉ~」
 ナルセスも気分が向上しているようで、日頃に無く毒気づく。
「……そう言えば、ガンペッタの15歳の愛妾が行方不明だが、本格的に探索しようかな」
「……」
 白々いい言葉に、ナルセスは長い沈黙で答えた。
「奥さんも子供も連れて来るから、きれいに館を掃除しておけよ。な、お互い、助け合おうぜ」
 ケラケラと、肺の中の空気を全て吐き出して、笑い上げる。そして、その反動で今度は、体中に新鮮な空気が流れ込む。細胞の一つ一つが、生き返るような気分がした。
「なぁ? どうしてややこしい娘にするんだ?」
「奪う喜びかなぁ。子供には分からんよ」
「そうですか」
 思わず、昨夜の台詞『フリオから奪う』が思い出されたが、すぐに消えた。
「リューフに宜しく」
「ああ……」
 鳥の群れが頭上を飛ぶ。湖面に濃く淡く影を落としている。
「走れェーーー!!」
 オーギュストは心の赴くままに絶叫した。


【2月下旬、シデ】
 数日後、ナルセスはシデに入城した。
 青い湖、黄金の砂浜、白く高い岬、そして、オレンジ色の屋根が重なり連なる、シデは風光明媚な港街である。沖100メートルほどに小島があり、常に波穏やかで、貿易港として栄えてきた。小島には白亜の城壁をした要塞があり、その優美な姿から、“乙女の城”と呼ばれている。背後の“白銀山”には、エリース大聖堂がそびえる。そこから稜線沿いに城壁が下る。まさに金城湯池である。
 楽隊を先頭に、大理石の街道を行進する。街道には住民達が押し寄せて、大歓声で迎えている。
 ナルセスの目に、自然と涙が溢れ出してくる。だが、感動ばかりしている訳ではなかった。入城後、直ちに、評定所、行政府、大法府を立ち上げて、政権造りを始めた。

 シデのエリース大聖殿を、リューフが訪れる。ここの司祭ファイナ・デ・ローザスは、オルレランの聖パトロ大聖堂キュリアクス・ド・ローザス司教の姪である。リューフもキュリアクスの指導を受けたことがあり、二人は兄妹のように親しかった。
「リューフ様、お久しぶりです」
 ファイナは額の汗を拭いて、安らぎに満ちた笑顔で礼をする。飾りっ気のない黒縁のメガネは、労働のきつさを伝えるように曇っている。
「お活躍、ご苦労様です」
「いや、俺は何も……」
 リューフはファイナの白い手が、赤く荒れている事に気付くと、思わず言葉に詰った。
「大変のようだな」
「はい、病人は後を断ちませんが、有効な薬もなくて……」
「そうか……だが無理をしてはいかんぞ」
「はい」
 儚く微笑む。
「もう少し手伝いを増やしてはどうだ。俺から街の者へ……」
「いや、ここのものだけで結構です」
「気持ちは分かるが、もう限界だろう。外部者からだと、よく分かる」
「そうですが……私どもは街の者に嫌われています。カリハバールに協力的だったと……」
「そうか……」
 ファイナの声は弱々しく、リューフも沈痛な想いになった。
「俺が何とかする」
 そう言う事しか、今のリューフにはできなかった。
 すぐに街に戻る。そして、新しい館で少女と過ごしているナルセスの元を襲った。乱暴にドアを蹴破り、ナルセスを叩き起こす。
「待て、話せば分かる」
 少女が泣きながら、裸で逃げていく。ナルセスは必死にリューフを宥めるが、余りにも唐突な事で、声が震えていた。
 リューフは鬼の形相で、ナルセスの両肩を掴むと、激しく揺さ振る。
「ギュスは今何処だ!」
 そして、声の限りに絶叫した。

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Date:2011/08/28
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