【8月、アルティガルド王国】
――王都アルテブルグ。
楢の家具が並ぶ書斎は、重厚で落ち着いた雰囲気をしていた。天井までの本棚には、古く貴重な本ばかりがずらりと並んでいる。
自邸の書斎で、ジークフリードはサリスからの親書を受け取っていた。緊張と恐怖で心臓が破裂寸前である。手の震えを必死に抑えながら、表紙をめくる。見慣れた文字が、ふわふわと浮いて見えて、見知らぬ記号のように、なかなか頭に入ってこない。そして、たっぷりと時間をかけて、一文字一文字を舐めるように追い、次第に、ほくそ笑み始めた。
「勝った!」
思わず、声を上げる。
親書には、ウェーデリア公国領のロイド伯領を分割して、その3分の2をアルティガルド王国に譲渡することが記載されていた。
「あははは」
何時までも笑い声が止まらない。
ロイド伯領は、両国の国境付近にある。歴史的に幾度か小競り合いがあったが、歴代領主が懸命に守ってきた。ウェーデリアにとって意味深い土地である。
この地を、外交交渉だけで、一兵も損なうことなく得ることができた。
「サリスの独裁者さえ、俺は手玉に取ったぞ。ふははは」
謂わば、口封じであろう、と推測した。武器流出という失策を衝いた己の手腕に酔いしれている。
カッシーの敗戦以来、初めて領土が増えた。叛乱軍討伐の功績など消し飛んでしまう。自分の権力が揺るぎない事を確信し、さらに、怠りなく二の矢を放つ。
ジークフリードは、気持ちを落ち着け、補佐官を呼ぶ。
「政府の指示なく開戦したのは、軍法違反である。厳しく罰せよ」
ザシャ・トニ・フォン・フォイエルバッハ将軍の処分を決定した。
――モンベルの森。
ロマン・ベルント・フォン・プラッツをリーダーとする叛乱軍は、ソルトハーゲンのグループとは袂を分けて、モンベルの深い森に潜んでいた。
ロマンの元には、多くの市民が集っており、戦うよりも生き抜くことが当分の目的となっていた。
彼らを追撃していたのが、ジークフリードの腹心ルートガー・ナースホルン将軍である。
ロマンは、森の中に複数の、小さな丸太小屋を建てた拠点を設けて、巧みに探索を回避していた。
しかし、食糧と医薬品の不足は、常に深刻で、定期的に森を出て調達しなければならなかった。その際が、最も危険だった。
「フィネ!」
ヴォルフが、工事中の拠点を走り回る。
「どうしたの?」
ヴェロニカが、物資の仕分け作業を中断して、顔を上げた。
「フィネがいないんだ!」
ヴォルフが、血相を変えて叫んだ。
「落ち着きなさい」
取り乱したヴォルフを、ヴェロニカが気遣いつつ叱る。
「……でも」
しかし、ヴォルフは、おろおろと地団駄を踏むばかりで、簡単には落ち着きを取り戻せそうにない。
「彼女は確か衣料品を運ぶ役割だったわね……」
ヴェロニカは、腕を組んで、顎に指を当てて記憶の中を探る。
「探してくる……」
駆け出そうとするヴォルフの腕を、ふいにロマンが掴んだ。
「彼女以外のメンバーは戻っている。軍に発見されていないそうだ。彼女がその気なら戻ってくるだろう」
意味深なことを、声を顰めながら言った。
「そんな!」
ヴォルフは、その腕を力任せに振り払い、一歩二歩とよろけるように後退りする。
「彼女は有名人よ。酷い扱いは受けないわ」
ヴェロニカは、そっとヴォルフの震える肩に手をやり、何とか興奮を鎮めようとする。
「違う! 違う!!」
しかし、ヴォルフは感情の昂ぶりを抑え切れず、烈しく首を横に振り続けた。
「きっと掴まったんだ。俺は彼女を助けに行く!」
言うなり、脱兎の如く振り返り、走り出そうとする。その背中に、必死なロマンの声が飛び掛る。
「止せ。無駄死にするぞ!」
「そうよ。君は貴重な戦力よ。今はここにいる全員のことを考えて」
ロマンとヴェロニカの二人は、諦めず、説得を試みる。
ヴォルフと彼の持つ銃は、この集団の中で最も攻撃力が強い。政府軍にも、『爆音鬼』と恐れられ、今や戦闘を担う武断派の中でエース的な存在である。
「俺はアンタの部下じゃない!」
「ああ、改革の同志だ」
「違う――」
ヴォルフは、ロマンに指を衝き付けて、激しい口調で言い立てる。
「元々俺は改革なんて興味がなかった。俺は彼女の安全のために戦ってきたんだ」
「それでも、お前は立派な改革の戦士だ」
「改革、改革って、こんな原始人みたいな生活が改革かよ。ふざけるな!!」
ついに、日頃の不満までも爆発した。
「もう少しの辛抱よ……」
考えるよりも先に、口が動いてしまった。ヴェロニカは堪らず、苦しそうに眉間を寄せて視線を落としてしまう。全く先の見通しは立っていないのだ。
「俺はもうごっこは飽きた。俺と同意見の奴はいないか?」
ヴォルフは、言い争いを見守っていていた人々へ、ぐるりと視線を回した。すると、俺もだ、俺もだ、武断派の男たちが、次々に声を上げる。
「これが現実だ」
ヴォルフは、鬼のような形相でロマンを睨んだ。その目は、少し前の純朴な青年のモノとは明らかに違っていた。人を殺したことで、すっかり荒んでしまっている。
「……」
ロマンは、何も言わずじっと見返した。彼を変えたのは俺だ、と痛感して、自責の念から、思考が停止してしまった。
「夢みたいなことばかり言ってんじゃねえぞ」
追い討ちをかけるように、ヴォルフは鋭く言い放つ。そして、武断派の男たちとともに、この森の隠し集落を飛び出していった。
「元気を出して、みんなあなたが頼りよ」
俯くロマンの肩に、そっとヴェロニカが手を添えた。
「ああ、分かっている……」
ロマンは視線を合わせることなく、一人作業に戻っていった。
ジークフリードの腹心ルートガー・ナースホルン将軍が、辺境の小さな郡警察署を訪れていた。
「確かなのか?」
「はい、沢で発見されました。近隣の村人の話では、森の入り口の崖から落ちたのだろうと」
「今何処だ」
「医療室で眠っています」
「久々の手柄だ、あははは」
元々ジークフリードの遊び仲間であり、長髪のすっきりとした顔立ちの伊達男である。
彼は、ロマンの追跡を任されていたが、実務に疎く、仕事に熱意もなく、ここまで然して成果を上げていなかった。まさに無能な怠け者である。そこへ一味の一人を捕らえたと報せが入り、急ぎ駆けつけていた。
「美しい……」
ベッドの上で眠っているフィネを見て、ルートガーは、思わず息を呑んだ。
「取り調べますか?」
警察官の声に、ルートガーはムッとした表情した。
「まだ子供じゃないか。とても叛乱軍の一味とは思えん」
「しかし……」
「持ち物は?」
「衣料品です」
部屋の隅に置かれた籠に、下着などが山積みされている。
「じゃ、行商人の娘だろう」
「いえ、しかし……」
警察官は思わぬ成り行きに狼狽する。
「すぐに病院へ移せ。これは命令である」
「はっ」
警察官は、仕方なく敬礼して退室した。
ルートガーは、身を屈めて、フィネの顔を覗き込む。
「これ、フィネ・ソルータじゃない?」
そして、己の幸運に、身震いするほど歓喜した。
「ラッキー、俺の幸運の女神はハンパねぇ」
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