第十一章 遠慮近憂
【神聖紀1223年9月中頃、スピノザ城】
時の流から忘れ去られたような場所がある。高い石垣の下、巨木が立ち並び、濃い影と碧い苔に囲まれた静かな空間に、弓の唸る音が響き渡った。
「また、外れた……」
フリオは的を外れた矢を、恨めしそうに眺めている。
「馬なんぞと違って、弓は人が扱う為に作られた品物だ。お前が人なら当たる」
背後で、オーギュストの辛辣な声がする。
フリオはきまり悪げに少し俯く。そこに、「もう一度」とまた恐い声が飛ぶ。それに背中を押されて、フリオは次の矢を番えていく。
「もっと引け」
険しい声に、じりじりと肩に力を込めて、さらに弦を強く引く。
「もっと絞れ。もっとだ」
「はい」
頬に矢を当てて、ぴたりとフリオの動きは止まった。
「当たれ!」
気合の雄叫びと共に、弦が引き千切らんばかりに、矢を放つ。だが、その豪快な仕草とは裏腹に、矢はふわりと弧を描いて、的の寸前で減速して落ちてしまう。
「はぁ……弓が弱過ぎるのかも」
フリオは溜め息を吐いて振り返り、五里霧中といった風の頼りなげな瞳を、オーギュストに向ける。
「弓矢に責任はない」
オーギュストは岩の上に腰を下ろして、矢をバトンのように回しながら、手厳しい声を出す。
「狙う時に静止するな。静止とは安定。安定からは何も生じない。動き出す力は、不安定さが作り出す」
「はぁ、はい……」
フリオは納得できないようで、生返事する。
「お、やっているな。感心感心」
その時、マックスが現れた。
「弓と言うのは、要は力だ。左肩を固定して――痛ッ!」
「うるさい。それより何のようだ」
フリオを指導しようとするマックスに、オーギュストが矢を投げつける。
「ナルセスが来てくれ、と言っているぞ」
マックスは尻を擦りながら、不服そうに口を尖らせて呟く。
「後八本射たら上がれ」
オーギュストはそうフリオに言い残して、マックスとともに、館の方へ歩き出した。
“茜の間”にオーギュストが入ると、緊張で震える視線が集まって来た。室内では、ディアン義勇軍の面々が、蒼褪めた顔を並べている。その中から、ミレーユ・ディートリッシュが神妙な面持ちで近付いて来た。
引き締まった肢体に、小さな顔が乗り、ベリーショートと言うよりもボウズの方に近い髪形が、よく似合っている。
「サイアの……」
臨戦的な表情をオーギュストの耳元へ運び、小さく囁く。
「分かっている」
オーギュストは苦笑いすると、茜の間に附随する小さな会議室のドアを開いた。ここはさらに切迫しているようで、空気は鉛のように重く冷たい。そんなオーラを独りで醸し出しているのがナルセスで、オーギュストはその隣に座った。
「随分、熱心じゃないか?」
ナルセスが耳元で囁く。その声は、張り詰めに張り詰めた神経の中に、焦らされた怒りと安堵感が複雑に混じっていた。
オーギュストは一度ナルセスを横目で見たが、何も答えず、すぐに視線を正面に戻す。そこには簡易的なテーブルを挟んで、男と女がいた。
「そろそろだと思っていましたよ、カフカ殿」
「ディーン殿、ようやく公式の場でお会いする事が出来ましたな」
「これは公式ですか?」
「少なくとも、私はサイアを代表して来ている。貴方もサリスに責任を持って頂けると判断している」
カフカの落ち着いた声は、よく通っていた。
「結構」
オーギュストは顎を引いて、頬の筋肉を僅かに上げた。それから、悠然とカフカから視線を外して、隣の女性を見た。
女性は頭に赤いスカーフを巻いていた。その影の中で、謎めいた瞳がじっとオーギュストを捉えている。
「素晴らしい瞳を持っていらっしゃる。まるで心を読み取られているかのようだ」
「いえ、ご冗談を」
オーギュストの言葉に短く答えて、女性は顔を伏せた。
その頃、ミカエラは食堂で、母ロサと叔父ロベルト・デ・スピノザ男爵の3人でお茶を楽しんでいた。ティーカップを並べ終えて、侍女が奥に下がると、ロサが重い口を開く。
「それで、ルブランは何と?」
「ヴァロン平野進出への後詰と、北岸同盟を渋っているトランダル侯爵に対する出兵の準備、だそうです」
「また金がかかるな……」
男爵が苦々しい息を大きく吐き出す。
「トランダル家はルブランに組しませんか?」
ロサは不安そうに問う。
「トランダル家にも意地がありましょう」
「我がスピノザにもあろう」
男爵は声を荒げて、素早く突っ込む。
「当分は仕方がありません。義理もありますし」
「義理を言い出したら、オルレランも何を言い出すか分からんぞ。それも唯々諾々と呑むのか?」
「当分は仕方ありません」
「またそれか……」
男爵は怒気を紛らわすように横を向く。
「ブーン家からの資金援助の話もあるの……」
「ひも付きですよ」
ミカエラはカップを口へ運ぶ前に、母親に素っ気無く呟く。
「彼らは爵位が欲しいのでしょう」
そして、徐にカップを置くと、軽やかに言い足した。
「冗談ではない!」
男爵が言いかけた時、別の声がした。男爵が声の方を向くと、首にタオルをかけたフリオが立っている。
「我々は勝ったのです。なのに、何故、言いなりになる必要があるのです。言いたい事があれば、剣で語ればいい。我らの強さはすでに天下に轟いている」
「お黙りなさい」
ミカエラは厳しい瞳でフリオを見詰め、凛とした声で言い放つ。その気迫に押されて、フリオは不本意ながら、言葉を失う。
「剣を抜く時期は、私が判断します。お前はその時まで、黙ってその剣を鍛えていればいいのです」
その時、ナルセスとオーギュストが食堂に姿を現した。
「皆様お揃いで」
ナルセスは恭しく礼をする。その斜め後ろで、オーギュストもやや浅めに頭を下げた。
「ああ、ディアン殿か。今日は?」
男爵が友好的を通り越して、媚びるような声を発する。
「南エスピノザへの軍事行動について、伯爵並び男爵に進言したく」
「これは、いよいよですかな。では、別室でお聞きしましょう」
明らかな作り笑いで答えると、後始末でもするように、口元を拭った。
「進言も何も、もう決まっているのでしょ?」
ミカエラは言った後、澄ましてお茶を啜る。それに、男爵は慌てて諌めようと、目を剥いて顔を微妙に横に振る。一方の当事者であるナルセスは、何事もなかったように、丁重に無視した。
「では、伯爵もこちらへ」
「はい」
フリオは素直に頷いたが、すぐに姉をちらりと見る。
「姉上も同席を」
そして、フリオはオーギュストを見て言った。その瞳に応じて、ようやくオーギュストが口を開く。
「ルブランから親書が届いたとか?」
「そうです。そのことで相談したかったのです」
急くようにフリオが、一歩踏み出す。
「まずはルブランとの関係を大事に」
それを抑えるように、ナルセスが冷めた声で言う。それに、フリオは意外そうな表情をした。
「ナルセス殿まで! オーギュスト殿!?」
問われて、オーギュストは微笑む。そして、フリオの肩を叩いて、取り合えず椅子に座るように勧めた。
「ま、焦らず」
諭すように言いながら、フリオの両肩を優しく揉む。それから、ミカエラの後ろを通って、男爵の方へ近付いた。その際、ミカエラの後ろ髪をそれとなく撫でる。
「必要とされる事は名誉な事です。それほど、スピノザ家の武勇は天下に轟いている証でもある。何れ誰もが必要とする時が来るでしょう」
「……証…ですか?」
フリオは、大きな瞳を輝かせる。納得はしていないが、オーギュストの含みのある態度に、何か大きな期待感を抱かずにはおられなかった。
「最も激しく動くものが、最初に疲れ果てるものです。自重する時は自重しましょう」
ナルセスがそう告げた時、オーギュストは男爵の傍まで進んでいた。
「男爵には、近々、重大な役割を果たして頂く。くれぐれも心構えの怠りなきよう」
「お、……おお」「これは頼もしい」 オーギュストは男爵に一礼すると、ナルセスに目で「後は任せた」と合図して、さっさと食堂を後にした。
オーギュストはナルセスと別れた後、独り尖塔の最上階に登っていた。
「傷んでいるな」
そこは物見用に誂えられた空間で、半径一メートルほどの屋根裏部屋である。床板はかなり時代を経ている様で、足の裏の重心を少し動かしただけで、ギィギィと煩い音を奏でている。
「雨漏りか?」
オーギュストは一度天井を見上げた。頭上では垂木が円錐形に登っているが、所々から眩い光が舞い込んでいる。
「こいつは新築した方が早いな。まっ、俺に金はないけど」
ぽつりと自嘲気味に感想を述べる。
「ちょっとどう言うつもり?」
そこへ、不機嫌そうなミカエラが登って来た。
「何が?」
「あんな所で合図するなんて……」
不服そうに一睨みして、ミカエラは石壁と屋根の間の隙間から、外を眺める。郊外の農村ではぶどう狩りが、その先の放牧地には牛や羊の群れが、遥か遠くには水車小屋が、例年と変わらぬ姿で、そこにあった。
「ミカの伯爵令嬢姿に見惚れてしまったから」
「ちょっと……昼間から不謹慎よ」
オーギュストは左手でミカエラの腕を掴んで引き寄せ、右手を腰に廻して抱き締める。
「男ってこれだから……」
「女を知っているような言い方じゃないか?」
「そ、そんな事ある訳ないでしょ!」
強く反論した口に、オーギュストの唇が重なる。
「……!!」
ミカエラは咄嗟に身体を硬くするが、舌を差し込まれると、蕩けるように瞳を閉じられていく。
「あぁ……」
唇が離れた時、ミカエラはもう抗わず、甘い吐息をもらして、オーギュストの腕の中に凭れていく。
「そうかな? ミカはいやらしいから、ほら――」
「そっ、そんな……」
オーギュストの左手がスカートの中に入る。そして、遠慮なしに、ショーツの上から秘裂をなぞった。
「ああん、あっ、あん……」
その指の動きに合わせて、ミカエラの腰が淫らにうねる。
「ほら、もうこんなに濡れている。俺が髪をさわった時から、欲情、してたんだろ?」
「そ、そんな事ない……」
ミカエラは潤んだ瞳で恨みっぽく見やる。
「ミカは嘘が下手だな。それじゃ困るのだが」
オーギュストの指が、トロトロと熱く蒸れた膣肉を、激しく攪拌する。その一方で、腰を抱いていた右手を下げて、尻肉を強く鷲掴みする。
「ううっ、あっ、ああん……」
ミカエラは、美しい二重瞼を閉じると、長い睫毛を煽情的に震わせて、甘えるように喘いだ。
その時、オーギュストが低い声で囁く。
「アルティガルドが動くぞ」
「へえ?」
呆けた声で聞き返してしまう。
「アルティガルド王国軍が、ヴァロン平野に向けて集結している」
「そ、それは……」
緊張が一気に張り詰め、ミカエラは言葉に詰る。
「俺とカフカは、南エスピノザの攻略を利用してオルレランを引き摺り込む。お前はルブランをヴァロン平野へ突き出せ。トランダル家はすぐに黙らせろ。出来なければ、他を当たる。やれるか?」
「ええ」
ミカエラはそれだけ喉の奥から搾り出すと、後は黙って、きつく唇を結んだ。もう頭を廻らし始めている。だが、その真面目な顔が、オーギュストを刺激してしまった。
「しかし、その前に存分に楽しもう」
「あっ、……ちょっと」
オーギュストは無防備なミカエラの身体を乱暴に壁へ押し付ける。そして、腰を荒っぽく掴むと、強引に尻を突き出させた。
「だから……ちょっと…あん…待って…」
ミカエラは声を顰めながら、不本意な仕打ちに抗議する。だが、オーギュストの行為は止まらない。強制的に前屈みにされると、自然と両手は壁につき、尻は高々と持ち上がった。あっという間に、なんとも恥ずかしい格好にされてしまう。
「ちょ、んーーッ、んンんッ……もう…どっちがいらやしいのよ……」
「じゃ、止めようか?」
「……バカ」
「じゃ、遠慮なく」
「んッ、んーッ、あーっ!」
オーギュストはペニスを蜜に塗れた花弁に宛がう。と、まるで吸い込まれるように、ペニスは熱い粘膜の中へと埋まっていく。
「随分俺のに慣れたな」
「んッ、ふむぅッ、んん、また、変な言い方して……」
ミカエラはやや首を廻して、抗議の視線を送る。それに微笑んで、オーギュストは一気に深く突き入れた。
「んッ、んんんんんッ、はぁんッ」
ミカエラは一瞬で知的な表情を呆けさせて、白く細い首を仰け反らせる。
「でも、下の口は大歓迎のようだ」
「っんっんっんっんっ…んーッ!」
皮肉っぽく言うと、オーギュストはミカエラの腰をがっちり掴んで、さらに激しく腰を動かす。
それに、もうミカエラは反論できない。そして、切り揃えた美しい髪を振り乱して、すすり泣いた。
「いい……ミカ、とっても気持ちイイのっ」
普段の冷静沈着が嘘のように、ミカエラは舌ったらずの可愛い声で、自分の事を「ミカ」と呼んだ。そして、石壁に爪を立てると、きゅっと膣肉を収縮させて、腰を前後に振りたてる。
「ぁッ、ぁッ、あッ、あッ、ミカ……い、イッちゃ…ぁああッ!!」
まるで身体の底から搾り出すように、切羽詰まった卑猥なよがり声を叫び上げる。
オーギュストはそんなミカエラを見下ろしながら、優しく髪を撫でた。そして、冷たい視線を外へ向けて、遠ざかる馬車を見詰めた。
エスピノザの平原を走る馬車の窓に、遠くなるスピノザ城館が写っている。
「ジャンヌ、あのディーンと言う男だが――」
カフカは、窓の外を見詰めるジャンヌ・フレイアに話し掛ける。
スカーフを取った顔は、大理石の女神像のように整っている。だが、彫刻と違うのは、彼女自身の生き様を示すように無数の小さな傷があり、それが生き生きした表情となっている事だった。
「……お前はどう思う?」
「……」
「ジャンヌ、どうした?」
「え?」
ジャンヌはやや朱に染まった貌を正面に戻す。
「ごめんなさい。聞いてなかったわ」
「ぼんやりするなど、お前らしくもないな?」
言ってから、カフカは煙草を取り出した。振り向いたジャンヌの瞳は、艶やかに潤んで、はっとするほど美しかった。
ジャンヌはエリース湖で評判の傭兵の一人で、その活躍と容貌から、女神フレイアの名で呼ばれている。ジャンヌの母はパルディア王国の貴族令嬢で、人並み外れた美貌を持っていた。幼い頃から綺麗だ美人だと言われて育てられて、勝ち気で気位の高い女性へと成長した。ジャンヌを若くして産んでいるが、その時には相手の男とは別れていたらしい。その後も男の出入りは激しく、ジャンヌは祖父が育てている。娘の失敗に懲りた祖父は、孫を厳しく育てようとしたが、抑え込んだ分、その反動も激しくなった。
ジャンヌは10代半ばで、「母親と暮らす」と祖父の家を出た。しかし、この時年下の男と暮らしていた母親と上手くいかず、2ヶ月でその母親の家も出た。それから、約10年、エリース湖を中心に自由気侭に独りで生きてきた。
「少し緊張したみたい……」
「お前がか? 人並みの事を言う」
「その言い方は心外よ」
カフカが珍しく笑った。それに合わせるように、ジャンヌも微笑だが、それは妖艶としていた。それにドキリとしながら、カフカは顔色を変えず、ただ窓へ煙を吐き出す。
「……」
その横顔を眺めながら、この男とも長い付き合いだ、とジャンヌは不意に思う。
エリース湖はジャンヌにとって楽園だった。取り巻きの男は簡単に手に入った。彼女にとって、男とは道具であり、思うままに利用して使い捨てる駒でしかない。巧みな言葉で男達の独占欲を掻き立てて、競わせ、争わせる事など雑作もない事だった。それは母親譲りの男好きのする容姿がそうさせていると思われているが、真実はそれだけではない。彼女には特別な能力があった。それは処女を失った時に覚醒する。
17の夏、ジャンヌは四人の男達と組んで仕事をした。その仕事の間中、ジャンヌは不思議な違和感に悩まされていた。「何かが変わろうとしている」そういう予感めいたものが働いていた。そして、仕事も終わりが近付いた夜、独り離れて寝ていると、唐突にその異変の正体を理解する。
それは初め木々のざわめきかと思った。しかしすぐに違うと察する。
――自然現象じゃない……
蠢くような、疼くような、熱くむせ返るような感情がジャンヌの中で渦巻いている。
――私の中に他人がいる!
それはジャンヌに向かう男達の欲望の迸りであった。向こうでむっつりと眠ったふりをしている男達の感情が、ジャンヌの心の中に入ってきて、滾るような想いを伝えてくる。
ジャンヌには、男達の心が手に取るように分かった。そして、男達の剥き出しの欲情が、自分一人に向いている事に、言い尽くせぬ優越感を得た。
「さぁ、いらっしゃい」
男達の妄想に酔いしれて、ジャンヌは男達を誘った。その意思は、男達に伝達して、野獣の本能を焚き付ける。ジャンヌは理性を失った男達に、瑞々しい若い肉体を与えていく。こうして、ジャンヌは処女を捨て、男と自分の超能力“念視(サイトビジョン)”を知る。
それ以来、ジャンヌにとって甘い果実とは、手を伸ばせば簡単に手に入る物でしかなくなった。彼女の超能力は次第に研きがかかって、現在では思考を読み取るだけでなく、逆に相手の心に都合のいい心象すら植え付ける事ができるようになっていた。
危険な男、忠実な男、深い男、豊かな男、未成熟な男、どれも味わった。まさに、よりどりみどりである。しかし、誰一人愛そうとはしなかった。ただの遊び相手や仕事仲間として、適度な距離を保ち、どんな時も自立した女性として生きてきた。もっとも男の心の底を知れば知るほど、幼稚で頼りなげで、ジャンヌを魅了し支配するような偉大な男は存在しない、と分かったからでもある。
そんな中で、カフカはマシな方だったろう。カフカは常にジャンヌの期待以上の反応を示してくれた。そして、心の中はいつも難解であり、時には心に黒い幕を張って、念視を遮られる事さえあった。ジャンヌはそれを、“暗幕(ブラックアウトカーテン)”と呼んだ。
カフカのように、暗幕を張る者は極稀にいた。皆、それぞれの分野で一流と呼ばれる者達である。おそらく、誰もが無意識にやっている事なのだろう。だが、何れこの超能力が一般的になり、分析、解析された時、暗幕は一流の証となるのだろう、とジャンヌは確信していた。
「あの男(オーギュスト)をどう思う?」
横目で見ながら、カフカは改めて訊ねる。
「そうね。表面は若く青いけど……奥は深くて暗くて……そうまるで古い井戸のようで底が分からない…かな…」
ジャンヌの瞳はぼんやりとして、瞼が半分下がっている。カフカはジャンヌの感想をある程度予測していたのだろう、顔色を変えず、用意していたように、淡々と言葉を吐く。
「何れ敵にもなるだろう。だから、一度会っていた方がいいと思った」
「そうね。でも、敵にはならないわ」
「どうして、そう思う?」
「さあ、どうしてかしら」
「勘か?」
「ふふ」
カフカは、ジャンヌを異常に勘の鋭い女だと思っている。そして、それを女性特有の神秘とは片付けず、ジャンヌの人物批評能力として、高く評価していた。
「お前の勘はよく当たる」
「そうかもね」
ジャンヌは短く答えて、また窓ガラスに写るスピノザ城館を見た。
――ああ、あれは本当に起きた現象なのだろうか……
「あっ! あっ! あんっ! ああんっ! あああっ!」
ジャンヌは喘いでいた。眼下にはオーギュストがいる。ジャンヌはその腹の上に跨って、腰を懸命に振っている。すでに猛烈な快楽に全神経を支配されて、もはや自分の意志では止め様がない。
初めは、毎度{いつも}と同じように、息を潜めてオーギュストの心に忍び込んだ。だが、暗幕に阻まれて覗き見る事ができない。ジャンヌは内心驚いた。カフカとの会話に集中して、ジャンヌに対しては無警戒だろうと思っていたからだ。
だが、ジャンヌも自分の能力に対して、研究と訓練を怠ってはいない。このように防御が堅い場合には、ジャンヌの方からビジョンを与えて、相手の動揺を誘う。
よし、と心で短く呟いて、ジャンヌはオーギュストへイメージを送り込む。煽情的なポーズの自分自身の裸体である。真面目な場所であればあるほど、目の前にいる美しい女性のヌードを想像して、大概の男達はうろたえた。
――意外と大胆なのね……
ジャンヌが送り込んだ映像に刺激されて、オーギュストの心が映像を作り出した。それをジャンヌはそっと覗き見る。
と、裸体のジャンヌはあっさりと押し倒されて、妖しげなローションを全身に塗されている。そして、オーギュストの心は抵抗できぬジャンヌを、あらゆる手を尽くして愛撫していく。
――なかなかやるじゃない……
ジャンヌはそれを受け入れて、様子を見ていた。オーギュストのイメージは驚くほど正確で、ジャンヌの性感や癖を見事に再現させている。
――ちょっとやり過ぎよ……
ジャンヌは乱れていた。狂ったように仰け反り、捻れて、悶え鳴いた。念視を感じるだけで、これほど昂奮したのは、初体験の時以来ではないだろうか。ジャンヌは次第に自分が満ち足りて、感情が蕩けていくのを感じた。
――あれは!
その時、ジャンヌはうっとりと閉じかけていた瞳を、はっとして開いた。
ジャンヌの裸体の肩に、赤い鹿の模様がある。パルディアでは、戦士は肩に聖獣を刻む古い伝統がある。強い生命力を秘めている赤い鹿は、ジャンヌの紋章で、これだけは誰にも見せた事がなかった。それが寸分狂わず、オーギュストの心象に描き出されている。鼓動が激しく跳ね上がった。
――どうして!? ……まさか、心を覗かれた???
ジャンヌの心が動揺する。
――え? ……まさか!?
その時、さっと映像が変わった。ジャンヌが自分だと思っていた裸体が、別人に入れ替わっている。そして、すぐそれが自分の母親だと分かった。母親は若く美しく、その綺麗な肢体を惜しげもなく開いている。
――だ、だめよ!
その脇に、母親の痴態を覗き見する少女もいた。それを見て、ジャンヌは激しく動揺する。まだ幼いジャンヌに間違いない。幼さの残る顔は、赤く火照って、だらしなく弛んだ唇からは淫靡な吐息をもらしている。
――やめてェ!
ジャンヌの心が絶叫した。
その時、男達の笑い声がした。一人自慰に耽るジャンヌを、かつて裏切り捨てた男達の顔が取り囲んでいる。
――わ、私を見下すようなまねは、およしなさい!
狼狽したジャンヌが激しく腕を振った時、それまでのビジョンは消えていた。変わりに、自分が犬のように這っている事に気付く。また、「不様だ」と男達の失笑する声が、ぐるぐると回る。
――お黙りなさ……はぁあん……
ジャンヌの怒気の声が、終わりには情炎の嘆きに変わっていた。気が付いた時には、ジャンヌの全てが、駆け巡る快感に支配されていた。
すでにオーギュストは、ジャンヌの豊かなヒップを抱えて、その弾力を感応するように、ねちっこく撫で回す。
――いやっ!
ジャンヌが鋭くうめいた時、オーギュストの口の端が上がり、ジャンヌの蒸れた粘膜へ杭が打ち込まれる。尻肉を叩く衝撃が、ジャンヌの見事な胸のふくらみをたっぷりと揺らす。
――こ、こんな事が!
これは現実の行為ではない。ジャンヌは今、念視に犯されているのだ。まさに奇蹟だった。精神と精神との繋がり、心と心の融合、魂と魂の交合である。
ジャンヌの心を甘美な蜜が包み、肉体は毒々しい悦楽に痺れている。ジャンヌは全ての抵抗を放棄して、ただジャンヌの中を遠慮無く掻き回す肉根を、貪るように熱く押し包んで、夢中で溶け合う事だけを想像した。
――ああ、も、もうダメ。狂っちゃう……
ジャンヌは今までの男では決して味わう事のできなかった快感に溺れ、愉悦に微睡{まどろ}んだ。
――面白い女だな。こんな事が出来るとは思っていなかった……
突然、オーギュストの声が頭に響いた。
――あ、あたしも、よ。……ねえ、これがSEXなの?
――ああ、選ばれた者のみ許された快楽だ……
――ああ、あたしは……
ガタン、その時カフカが立ち上がり、椅子の動く音がした。それで、ジャンヌは現実へ引き戻される。ジャンヌは慌てて顔を上げると、オーギュストはカフカと握手を終えて、何事もなかったようにジャンヌにも手を差し出していた。
「またお会いしましょう」
「ええ」
ようやく、それだけ返す事が出来た。
「――ジャンヌ、聞いているのか?」
「ええ、勿論よ……」
カフカはオーギュストについて、さらに意見を求めた。だが、ジャンヌはすぐにぼんやりとして、情報交換は深まらない。次第に馬車の中から会話は消えていく。
――これから私は如何すればいい……もう一度会って確かめなければ……
ジャンヌは上気した重たい瞼を閉じて、心でそう呟く。
【南エスピノザ、サッザ城郊外の修道院】
オルレラン公軍による、本格的なサッザ城への攻めが始まっていた。
サッザ城はナバール男爵家の居城で、南エスピノザ盆地のほぼ中央に位置している。自然の地形を全く利用せず、人工的な直線のみで作られた巨大な平城で、高く積み上げられた石垣は、4キロにも及ぶ。本丸と二の丸を中央に並べて、それを正方形の三の丸で囲む輪郭式の縄張りで、非常に実戦的で、優れた戦略性を有している。
最前線である三の丸と奥に位置する本丸と二の丸の城壁が、上下の段差を効果的に利用して、重層的に射撃を行っている。殺到するオルレラン公軍に、上から横から矢の集中攻撃を繰り返し、オルレラン公軍の攻めを尽く撃退していた。
堅城に拠って粘り強い抵抗を見せるナバール軍に、包囲するオルレラン公軍は次第に攻め手を失っていく。
その頃、ディアン義勇軍は、サッザ城郊外の小高い丘の上にあるエリース教の修道院を攻め落としていた。
「守りを固めろ。四散した守備兵が戻ってくるかもしれんぞ!」
「はっ」
ナルセスは部下に指示を与えながら、駆け足で礼拝堂へ入っていく。ドアを開けると、室内は暗く、左右の壁に飾られたステンドグラスが浮き上がっていた。また、視点を下げれば、古くて重厚な長椅子が二列に並んで、中央に濃紺の絨毯の通路を作っている。そこを抜けた先には、3世紀ほど前の高名な画家が描いた女神エリースの壁画があった。
その壁画の前では、司教を中心に聖職者達が、抗議の意思を込めて、全員で祈りを捧げている。
と、司祭がナルセスの姿を見て、時折祈りの言葉を交えながら、早口で捲くし立ててくる。
「ここは女神エリースの聖なる館ですぞ――……――これが英雄のなされる事ですか!」
ナルセスが如何にか聞き取れたのはこれだけである。ナルセスは背後の部下達に顎で指示を与えた後、胸の前にある司教のぷっくりと膨れた顔を見下ろした。
「司教、今からこの壁を壊します。下がってください」
司教の目が、ナルセスの指とその指し示す壁画を何度も往復する。
「なんと!」
そして、ナルセスの言葉の意味を正確に理解すると、司教はこの世の終わりとばかりに絶叫した。
「さてと」
マックスは掛け声と共に、鶴嘴を肩に担いで壁画の方へ歩き出した。
「本当にいいの? これ高いんだろ?」
マックスが鶴嘴を振り上げた所で、後ろを振り返る。
「高いのは顔料だ。デッサンは俺の方が上手い」
オーギュストは腕組みをして、軽く首を縦振りしながら答える。
「顔料とかデッサンとか、そんな問題じゃなく、美術史は人類の宝だろ?」
その横で、リューフが呟く。
「こんなものが宝なものか。……はここにある――」
オーギュストは一瞬間を置いて、それから頭を人差指で叩いた。
――エリース……なんて……美しい……
「俺が完璧な女神を画き直してやるよ」
オーギュストは一瞬頭を埋め尽くす画像と音声に、強烈な頭痛を感じる。それを振り払うかのように強く言い放つと、勢いよく踏み切って、豪快な蹴りを壁画の中心へ叩き込んだ。
「ひぃーっ……」
司教は卒倒した。壁画の中央には大きな穴が空く。
「マックス、後は綺麗に取り除いてくれ」
「はいはい。お父ちゃんのためなら……」
マックスは顔の前の埃を払いながら、返事をする。そして、鶴嘴をもう一度振り上げた。
「おい」
オーギュストが無口になって壁画に背を向けると、ナルセスが忍び寄って小声で呼びかけた。
「本当に大丈夫だろうな?」
「何が?」
オーギュストは憮然と答える。
「ここまでしてなかった、じゃ済まないぞ」
「その時は一緒に謝るさ」
オーギュストはちらりと倒れている司教を見て、そして、笑った。
「あった!」
その時、マックスの声がする。
ナルセスが、飛ぶように壁画の跡地へ向かう。マックスが顔を真白にして得意げに、壁に隠されていた小さな通路を指差す。
「情報通りだな」
その真っ暗な通路をナルセスが覗き込む。そして、遅れて、オーギュストとリューフも穴を覗き込む。と、乾いた風が吹いてきた。
3人の男は、素早く視線を交わすと、ニヤリと笑った。
【地下道】
深い縦穴に、すぅーと、一つの矢が落ちていく。漆黒の闇に消えた直後、カーンと乾いた音がして、淡く小さな光が点灯した。その光点に向かって、するりとロープが垂れて、続いて人影が滑り降って行く。
オーギュストは、発光している矢の側に着地する。この矢には、光の精霊“ウィル・オー・ウィスプ”が封じられていて、衝撃に反応して術が発動する。その弱い光を頼りに、背中から“バルキリーの弓”を取り出して、方位磁石を頼りに闇の中へ矢を射た。
「情報通りに地下道がある。……やるね、カフカ」
オーギュストは、ふっと笑った。それから、弓の握にある円盤を覗き込む。そこには矢から送られてきた情報が表示される。その流れる数字をじっと監察していると、背後にリューフとマックスが続けて降りて来た。
「どうだ?」
リューフが問う。
「この先200メートル進んで、階段。この階にはトラップが三つ」
用件だけを淡白に告げると、オーギュストは弓を下ろす。そして、3番目に降りてきた人物へ視線を送った。
「と、言う事で出番ですよ。団長殿」
「……私がやるのか?」
「当然です。ぐずぐずしていると、逃げられますよ」
「間違いなく、居るのだろうな?」
「ええ、だから俺達がここに居る。でしょ?」
オーギュストの声は、やけに丁寧で少し幼い声色である。
「……」
アフロディースは忌々しそうに口を噤んだ。そして、「どけ」と、上のナルセスと通信しているマックスを壁へと押し除けて歩き出した。
「見た、見た、見た!」
マックスが目を剥いて、オーギュストとリューフの顔に交互に迫り、右手を何度も縦に振って、アフロディースの背中を指差す。
「あれでも女か!?」
それに、オーギュストは一笑した。その横でリューフが呟く。
「さすがロードレス神国が誇る月影神官戦士兵団の団長だ。プライドもずば抜けて高い」
オーギュストはリューフの肩を手の甲で叩いて、それから数度指先を振った。
「甘いな。あれは早く戦いたくて、うずうずしているだけさ。新しい魔術を試したいのだろ」
「新しいねぇ」
「そう新しい」
その時、前方で閃光が走る。アフロディースが魔法トラップを解除したのだろう。オーギュストはそれまでの軽い口調を改めた。
「リューフはここで部隊をまとめろ。向こうに着いたら連絡する。マックス、行くぞ」
「おれがか?」
「誰が通信すんだよ!」
オーギュストは声にどすを利かす。
「……はい」
「行くぞ! ……全く一々言わすなよ」
ぼそぼそと呟きながら、オーギュストは地下道を歩き出した。
「なぁ」
背後をびくびく歩くマックスが話し掛ける。
「何?」
「これって、本当に城まで続いているのかなぁ?」
「ここまではカフカの言う通りだし、まぁ信じていいんじゃない?」
「うーむ、そうじゃなくてさ……」
「何?」
「これって、伝説の隠し地下通路、所謂、城の抜け道だろ?」
「ああ、よく本に載っているな」
「なんか今、俺の周りで凄い事が起きてんだなぁ……と思って」
「凄いって、とっくにお前も当事者の一人だろうが」
「いや、だから、お前のような奴がまだ他に居るというのが不思議なんだよ、俺の周りに」
マックスの言葉に、オーギュストは振り返った。
「分かってないねェ、根本的に。俺はこの世のルールに精通しているお利口さん。カフカはこの世界の抜け道を熟知するゲームの達人」
「ち、違うのか?」
マックスは首を傾げて聞き返す。
「大違いだろ。俺の心は少年のままにピュア。今もこんな事している自分に、チクチク心が痛んでいる。でも、奴は良くも悪くもゲームに毒され過ぎている」
「要するに、二人とも悪党だという事だ」
アフロディースがオーギュストとマックスの会話に割って入る。気が付けば、もう階段の所まで歩いていた。
「俺と対等に戦えるようになれば、分かるさ」
階段を降り始めたアフロディースの足が、オーギュストの言葉で思わず止まりかける。しかし、微かに口元に笑みを匂わせる。
「……それは楽しみだな」
こんな事を十数回繰り返して、ようやく地下道の端に至った。そこは、小さな石が円筒形に組まれた縦穴の中腹で、曲面の壁から杭が出て螺旋階段となっている。
「井戸のようだな」
マックスが上と下を見て言う。
「マックス、リューフに連絡して、合流しろ。俺達は下に降りる」
「おい、一人にするのかよ……」
「一緒に来るか?」
オーギュストがさり気無く聞くと、マックスはしばらく考えて丁重に断った。そして、「だろ?」と言い残りして、オーギュストは下へと降り始める。それをマックスは手を振って「頑張れよ」と汗を拭き拭き見送った。
【サッザ城地下墓地】
随分階段を降りた。上を見上げても、もうマックスを確認できない。
「かえるの歌が聞こえてくるよ――」
その間、アフロディースにとって不愉快な時間が続いていた。オーギュストは、緊張感のない子供っぽい替え歌を、幼稚に歌っている。さらに、時折歌詞にアフロディースをからかうようなものを織り交ぜたりもした。
無視していたアフロディースも、ついに業を煮やして怒鳴った。
「いいか。手を出すなよ。アキレウスは私が倒す。そして、次は貴様だ」
「随分強気だな?」
急に声のトーンが変わる。歌とは違って、低い声である。
「いつまでも、自分だけが超高度魔術を扱えると思うなよ」
「と言う事は、あの魔道書を読んだのか?」
「なっ!」
アフロディースは絶句して振り向く。そして、顔を蒼褪めさせて、「まさか、まさか」と心をざわめかせた。だが、そう気付いてしまえば、全ての辻褄があった。いや、今まで何故そこに思い至らなかったのか、その方が不思議でさえある。
「……あれは…お前のか?」
恐る恐る訊ねる。
「ああ――」
オーギュストは平然と答えた。
「そりゃ、そうだろう。あのクラスの伝説の魔道書が、そう都合よく現れる訳がない。だろ?」
「……どう言うつもりだ?」
「何が?」
恍けて聞き返す。
「どうして私に渡した?」
鋭く問う。
「勘違いしてもらっては困る。あれはミカエラに盟約の誓いとして渡した物だ。その後の事は、俺は知らんが、勝手に見て良いとは言ってない筈だ」
「……しかし……」
言葉が詰る。もう何も出てこない。代わりに、オーギュストは喋り続ける。
「あれは契約の証だった。だが、俺にとっても大変重要な品物だし、そうそう自由に開かれても困る。だから、呪をかけた。それはミカエラも承知していた事だ。聞いていただろう?」
「……いや……」
不覚にも、ミカエラとのやり取りを正確に思い出す事が出来ない。あの時は、魔道書にとらわれて、平常心を失っていた。だが、そんな言い訳を、何より自分自身で認める事ができず、アフロディースはただ黙り込んだ。
口篭るアフロディースに、オーギュストは畳み掛ける。
「簡単に開かないように、封印があった。もし、その封印を破った場合、制裁が……」
「なんだ!」
飛び付くように、叫ぶ。
「それは自分で確認すればいいだろ。この後も生き残っていれば、だが……」
「貴様!!」
今度はオーギュストが、アフロディースを無視する。そして、失笑を隠しながら、さっさと降りていく。この頃になると、杭は石畳のスロープに変わっていた。さらに、スロープの両端には円柱が立ち並び、頭上にはアーチが連なる正統な神殿様式になっていた。
「さて、地下墓地の筈だが……」
オーギュストはゆっくりと視線を廻した。スロープを降り切った所は、ぼんやりと霞んでいる。カフカの情報では、ここは古代の集団墓地で、壁をくり貫いた穴にはミイラが眠っている筈だった。だが、それらしき壁は見当たらず、代わりに、霞みの中に、白い円柱が丸く配置され、それらがレリーフのある梁で繋がっている。また、足元は石畳が円状に組まれていた。
オーギュストは弓の弦を指で弾いて、高い音を鳴らす。
「反響がない。地下とは思えないほど広い訳だな」
次元が違う……ようだった。
「袋の鼠らしい……」
アフロディースが呟く。
――情けない……しかし、今はアキレウスだ。……魔道書は…後で解決するしかない……
自分の不甲斐なさが歯痒く、オーギュストへの嫌悪感は最高潮に達し、ミカエラの事も心配だったが、それらよりも今はアキレウス打倒の任務に集中しようと気持ちを切り替えた。
「ああ、あんたを口説いている暇はないらしい」
オーギュストはちらりと背後を見た。先程通ったばかりのスロープが跡形もなく消えている。
「お前はどうしてそんな言い方しか出来ない!」
思わず、アフロディースは怒鳴る。
「若い……からかな」
「都合が良い時だけ、子供ぶるのは止めろ。虫唾が走る!」
吐き捨てるように言うと、数歩前へ出た。そして、剣を抜く。
「出て来い。アキレウス!!」
その時、列柱の中心で、激しく邪念が渦巻く。
「ようこそ、お越し頂いた」
そして、金の仮面で目元を被ったアキレウスが浮かび上がる。
「取り込み中なんだけど」
「もう仲間割れですかな。赤き瞳の戦士よ」
歓待する気持ちを表現して、両手を大きく広げて、口も両端を極端に吊り上げている。
「わざわざの出迎えご苦労。お返しに、苦しまずに逝かせてやろう」
アフロディースはアキレウスを睨みながら、ゆっくりと間合いを詰める。
「美しきアフロディースよ。貴方の小鳥のような囀りを鑑賞するのも悪くないが、この場は控えてもらいたい。貴方と戯れるには、後ろの御仁は大物過ぎたようだ」
アキレウスはオーギュストを見据える。
「赤き瞳と知っていれば、油断などしなかったものを」
忌々しげに、歯を擦り鳴らす。
「油断? そうは見えなかったが。どちらにしても、お前はこのお嬢さんに勝てない」
「私を愚弄しているのですか!」
アキレウスの声が歪む。
「愚弄するな!!」
そして、いきなりアフロディースが斬り込む。
「無駄だ」
それをアキレウスは左手の篭手で、簡単に受け止めた。それで、アフロディースの剣は、脆くも折れてしまう。
「だから忠告したでしょ……うむ?」
アキレウスが嘲笑した時、アフロディースが不敵な笑みを作る。それに怪訝そうな眼をした時、どっと体を青白い炎を包む。
アフロディースの持つ炎の魔剣“レヴァンティン”から吹き出した火炎である。
「ちぃッ」
アキレウスは舌打ちすると、後方へ飛び下がる。そして、纏わりつく炎を篭手で切り裂いた。
「逃がさん」
それをアフロディースが追おうとする。だが、周囲の列柱の影から、数え切れないほどの、牙のある黒蜥蜴が飛び掛かってきた。
アフロディースは精神を集中させて呪文を唱える。と、足元に閃光が走り、次第に魔法陣を描き出していく。
「絶対魔術“重力呪縛(グラビトン・フォース)”」
魔法陣から放たれた淡い光が、上空を舞う黒蜥蜴を捉える。黒蜥蜴は一斉に動きを緩めて、黒い羽のように宙に浮き漂う。
「よし! 南陵氷狼流“円踏剣舞”」
アフロディースは円を描くようにステップしながら、高速で小さく回転をする。それは以前よりも鋭く、より柔軟で、そして、より正確になっていて、次々に黒蜥蜴切断していく。
アキレウスの眼光が、憎しみと屈辱に光る。そして、右手の篭手を下から突き上げるように振り出した。
「そこまでだ!」
篭手は衝撃波となって、地を這い駆けて、アフロディースへ伝播していく。
アフロディースはその衝撃波を軽々と避けたが、魔法陣は地面ごと抉られて、崩壊していく。
再び、アキレウスは口の端を吊り上げて笑う。そして、再度、黒蜥蜴の群れを召喚しようとした時、その爬虫類のような眼を剥いた。
「はっ!」
アフロディースは飛び上がると、綺麗に前転する。そして、崩れた魔法陣の光の線が、また新たな形を形成していく。今度の魔法陣は、前回よりも遥かに広く、アキレウスの足元まで拡がっていた。
「神武魔装“アクアウェーブ”
アフロディースはもう一本の魔剣“アクアブレイド”を抜き、地面に着地すると同時に魔法陣の中に突き立てた。
と、凄まじい勢いで、魔剣から魔法陣へと水の精霊が流れ出して、魔法陣はあっという間に泥濘[ぬかるみ]となった。
「こ、これは? なっ……!」
アキレウスは濁流に足を取られて、身動きできない。さらに、その眼前では、アフロディースが、身体を捻りながら回転して、剣撃の体勢に入っている。
「はっ!」
アフロディースは勝利を確信して、アキレウスの頭上に剣を振り下ろす。しかし、捉えたと思えた瞬間、横から魔剣に小さな波動がぶつかり、剣の軌道を僅かに逸らした。
それでも、アキレウスの肩に魔剣が喰い込み、青い炎で焼いていく。
「な、何も見えない……」
アフロディースは着地すると、アキレウスに止めを刺そうとする。だが、それよりも早く地面を埋めた水が水蒸気となって、この世界をさらに真白に包み込んいく。そして、アキレウスや円柱など全てが白く厚い霧の中に隠れて見えなくなった。
「いよいよか」
オーギュストは円柱の上にいたが、高々と舞い上がって、バルキリーの弓を、体の周りで旋回させる。
「聖なる戦乙女の輪舞曲(バルキリーサークル)」
バルキリーの弓に黄金のルーン文字が輝く。それは円盤状に拡がり、空間を震撼させる衝撃となって拡大していく。そして、円柱や石畳を、瞬く間に砕き、白い霧も消し飛ばしていく。
「そこか!!」
宙で、オーギュストは弓を引き分ける。
「クラスターショット!」
白亜に輝く矢を射ると、矢は複写されて数を増す。
白い霧が晴れると、そこは今までとは全く違い、こぢんまりとした部屋だった。湿って苔生した床が、穴が蜂の巣のように空いた壁が、そこにはあった。
パチパチ、と拍手の音がした。
黒いドレスの黒髪の美女が部屋の端に立っている。彼女の前では、バルキリーの矢を受けて、萎れ枯れた魔獣人の姿があった。
「お久しぶりね」
黒髪の美女が微笑む。
「何時ぞやは、随分お世話になりました。正式に返礼がしたいので、もう少しデートに付き合って頂きたいのだが」
あくまでも紳士的な口調で話し掛ける。
「それは残念ね。用事も済んだので、もう行かなくちゃいけないの。また今度じゃダメかしら?」
目を凝らすと、黒髪の美女は左手にアキレウスの頭を持っている。
「淑女に対して失礼だと思いますが、私も忙しく、日を改めずにお願いしたいのだが」
「ごめんなさい。殿方の申し出を断るのは、本来不本意なのだけど、先約がありますので、もう行きますわ」
黒髪の美女の背後には、淡いグリーンの光を発するルーン文字がびっしりと刻まれた石門があり、その中は、色々な絵の具を捻れ混ぜたように、光が幻想的な色彩で澱んでいた。
「中座は無礼でしょ」
オーギュストは素早く弓を構えるが、もう一体の魔獣人が、盾となって立ち塞がる。
「ごめんなさい。また何れ必ず会いましょう。その時はじっくりとお話したいわ」
「せめてお名前を」
「パールと呼んで下さいな」
そう優雅に答えて、黒髪の美女は門の中へ消えていく。
「ご機嫌麗しく」
オーギュストは矢を放つ。その矢は魔獣人の眉間を打ち抜いた。そして、魔獣人は体勢を崩しながら、倒れ込むように門の中へと消えていく。
そして、少し遅れて、門自身も消滅して、完全に禍々しい気配は消えた。
オーギュストは大きく息を吐きながら、ぐるりと周囲を見渡す。と、右後方で気を失ったアフロディースを見つける。
「振動波に巻き込まれたか……ああ、綺麗な顔で眠っちゃって。さすがに寝てちゃ、悪態はつけないわな」
苦笑すると、アフロディースを抱かかえて、スロープを登り始めた。
【サッザ城】
突然、ドーンという大きな音がしたかと思うと、二の丸の櫓や石垣が崩れた。そして、「何事か?」と驚き慌てるナバール兵を余所に、古井戸からはディアン義勇兵が溢れ出し、どうする事も出来ぬまま、本丸へと攻め込まれてしまう。
三の丸を守る守備兵も、突然の二の丸の崩壊に唖然としていると、オルレラン公軍の猛攻が始まる。それまで鉄壁を誇ってきた城壁も、動揺したままでは力を出し切れず、ついに決壊してしまった。
こうして、ナバール男爵家の威光サッザ城は陥落した。
「恐ろしいと思うか?」
「いいえ」
燃え上がる城を、遠い峠からカフカとジャンヌが眺めていた。
「あの男は灯り」
「うむ?」
独り言のように呟くジャンヌに、カフカは顔を向けた。
「歴史という暗闇の中で、光を持って歩く人。その光に照らされれば、無意味な存在の中にも美は見出されていく」
「あの男と戦うか、組するかで、歴史に名が残る、と言う訳か?」
「さぁ、私はただ彼がそういう存在であるのならば、そこに限界があるのではないかと」
「限界?」
「彼は悠久の中で、変わり行く一瞬の美を感じて生きている。でも、それは手に取れてこそ。目の前になければ、また退屈な空白に帰ってしまう……」
「抽象的だな」
「そう抽象的なの」
カフカは左の眉を上げた。
「そう、それこそが彼の本質。彼は継続される歴史の中で、一見無意味と思える連続の繰り返し耐えられない……それこそが彼の限界」
「つまり、現実に生きていないと?」
「確かめてみる価値はあるわ」
ジャンヌは立ち昇る黒煙を見詰めながら、興味に満ちた瞳を輝かせる。
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