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第十章 背水之陣

第十章 背水之陣


【神聖紀1223年8月末】
 スピノザ連合軍は、オルレラン公軍ルカ・ベルティーニの指揮の元、ボーエ城への攻撃を繰り返していた。
「隊長、起きていますか?」
「定期攻撃なら、勝手にやれ」
 副官が天幕の中に入ると、ベルティーニは、鏡の前に立ち、顎の髭を剃っていた。
「違いますよ。敵軍のものと思われる狼煙が上がっています」
 副官の言葉を聞いて、ベルティーニは剃刀を置いた。そして、従卒から白いタオルを受け取ると、顔についた泡を拭く。
「ナバール軍の本隊か?」
「分かりません」
 そして、一度唸ると、慌ただしく軍服を着る。この軍服は正規の物ではない。「こんなものが着られるか」と勝手に仕立て直している。ベストを新調して、上着の丈を短く、そして、腰の部分を絞って、すらりとした体型を強調している。
「魔術通信は?」
「妨害には成功しています。通信の形跡はありません」
 ベルティーニは細い口髭を撫でる。と端整な口もとを弛めた。
「よし、偵察の数を増やすぞ」
「はっ」
 副官は敬礼して、先に天幕を出る。
「退屈していたが、面白くなってきた」
 ベルティーニは常に最新流行の服を巧みに着こなす伊達男である。性格は非常に気まぐれで、それに飽きっぽい。今回も、初め熱心に城攻めを指揮していたが、三日で放り出している。用兵でも、粘りに欠けると評されている。
 だが、敵の新たな動きを察して、彼の心も燃え上がっていく。
「さぁ――」
 白い手袋をはめて、一度手を叩くと、勢いよく天幕を出た。
「お客さんだ。引越しの用意を! とっ、薔薇を忘れた……」


 一方、塔の上から、オスカル・ド・ヴィユヌーヴも狼煙を見ていた。
「援軍が来ましたぞ」
「そう結論付けるのはまだ早い。敵の策略の可能性も捨て切れん」
 喜ぶ部下を、ヴィユヌーヴは冷静に諭す。だが、その両眼に赤い色の煙を捉えた時から、すでに彼の全身の血は煮えたぎっていた。
「士官には迂闊な言動を控えさせよ。我らの役目は、本隊の到着までこの城を守り抜く事だ」
「……はい」
 ヴィユヌーヴは、その精悍な顔をゆっくりと回して、その場にいる全員の顔を見渡す。
「ただし、敵の監視を怠るな。本隊の奴等が気侭に暴れるのを、ここでじっと指を咥えて傍観する気など、俺にはないぞ。俺達の手で、今までの分をまとめてお返してやろうぞ」
 そして、毅然とした声を吐き出す。その言葉は、浮ついた部下達の心を落ち着かせて、さらに果敢さを奮い立たせるのに十分な効力があった。
「おお!」
 部下達は力強く頷いた。
「敵に悟られずに、出陣準備を進めろ」


 夜、それは余りにも唐突だった。ベルティーニ隊は、いつも通りに夕食を食べ、いつも通りに夕暮れ時の投石を行い、いつも通りに夜の巡回を行った。
 警戒するヴィユヌーヴの眼にも、何一つ変わった動きは見当たらなかった。今夜は何事もなく終わるのだろう、と城内の空気が落ち着こうとした時、ぴたりとベルティーニ隊の陣地から人の気配が消えた。
「何かが変だ……」
 ヴィユヌーヴが不審そうに呟いた時、松明の群れが城下に殺到して、足元の暗闇を埋め尽くしていく。
 水を打ったように静まり返る城内。
「旗が見えました。ナバール家の旗です」
 その時、物見櫓から叫び声がした。それを聞いて、一斉に歓声が沸き起こる。
――如何したのだ? 何故反撃しない……それとも……
「オスカル様?」
 側近の部下に呼ばれて、ヴィユヌーヴははっとして顔を上げた。
「よくぞ耐えた。反撃の時ぞ!」
 ヴィユヌーヴの勇ましい声が響く。

 ナバール軍が、ボーエ城を囲む陣に踏み込んだ時、陣内に兵は一人も残っていなかった。夜襲を受ける寸前、ベルティーニは包囲を解き、全ての兵、全ての物資を持って、陣を引き払っていたのだ。
 結果として、ナバール軍の突撃は空振りに終わった。そして、武勲を取り逃がした将兵達の欲求不満だけが、悪戯に高まってしまった。
 翌朝、勝利を確信した夜襲をかわされたナバール軍は、息巻いてベルティーニを探し始めた。
「敵は物資を運んでいる。足は決して速くないぞ」
 士官たちは声を荒げて、東に斥候を走らせた。間もなく、街道脇の修道院が堅牢に守られている事が分かった。「今度こそは逃がすな」とナバール軍の将兵は、舌なめずりして駆けた。
 しかし、修道院はもぬけの殻で、またしても攻撃を外されてしまう。そこに、「近くの村を逃げて行くのを見た」と情報が入る。すぐにナバール軍の先鋒が、その追撃を開始した。しかし、この時、指揮官は、頭に血が昇って、最低限の警戒すら怠っていた。村を通り抜けようとした時、建物に隠れていた伏兵から奇襲を受けて、ナバール軍は予想外の被害を被って、一旦兵を退いた。
 この隙に、ベルティーニは馬鹿笑いしながら、悠々と街道を逃げていく。
 だが、スピノザ橋へもう少しと言う所で、ベルティーニの前に、ヴィユヌーヴが立ちはだかる。ヴィユヌーヴは夜襲が始まるとすぐに、ボーエ城を飛び出して、夜を徹して、間道を移動していた。
 逃げ道を遮断されて、立ち往生している間に、ナバール軍がベルティーニに追い付いた。
 ベルティーニは、仕方なくスピノザ橋の南へと転進した。その先の河川敷には、スピノザ連合軍の主力が潜んでいた。
「我々がスピノザ橋を攻撃した時、背後を襲うつもりだったのでしょう」
 ナバール軍の参謀達はそう説明する。
「ネズミがちょろちょろするから、大物が釣れたわ。普通に殺されておれば、良いものを」
「左様ですな」
 ナバール男爵は手を叩いて喜び、それに重臣達も相槌を打つ。
「全軍を進めよ。もはや勝利は我が手中にあり!」


【ドロス川西岸河川敷】
 昼過ぎ、ナバール軍1万8千と、スピノザ連合軍8千が対峙した。
 ナバール軍は数の優勢を主張して、“車懸かりの陣”を敷いた。これは各部隊を円形に配して、回転しながら、波状攻撃を繰り返す。常に新鮮な戦力をぶつけて、スピノザを疲弊させる戦法である。
 対して、スピノザ連合軍は川を背にして布陣している。
「やる気を感じさせる陣形だな」
「そりゃ、さすがの男爵も、ここまで来て、洒落る勇気はないだろう」
 オーギュストが感心した様子でいると、横でナルセスが呟く。
「おっ、ナルセスも言うようになったな」
「そりゃ、“背水の陣”なんてやらされたら、腹ぐらい括るさ」
 オーギュスト達は堤防の上に置かれた本陣にいた。中央に、総大将であるフリオが、ぎこちなく座っている。暑い最中、着慣れない鎧を着ている所為で、一歩も動いていないにも関わらず、全身汗塗れで、すでに眩暈がするほど疲労していた。
 その彼の前では、軍師役のナルセスとオーギュストが、状況説明をしている。
 眼前に大軍、背中には大河が流れている。何処にも逃げ場所はない。その筈なのに、本陣の中での会話は軽い。いや、フリオにとっては、軽率過ぎるように思えた。
「伯爵はこんなに擦れたら、ダメですよ」
「……はぁ」
 オーギュストの声に、取り敢えず頷く。
「いやいや、英雄豪傑とは、常に悠然と構えているものです」
「……そうですね」
 今度はナルセスに愛想よく笑う。
――きっとこれが普通なんだ……ぼくも早く慣れないと……
 違和感は、フリオを益々居心地悪くしていく。
 その間も、各部隊から次々に報告が入る。二人はそれらを軽く応対{あしら}って、くだらない会話を一向に途切れさせない。
「それにしても、洒落ているな、ベルティーニは」
 ナルセスが言う。
「趣味で戦争している。優秀だが、友達にはしたくないなぁ」
「同感だな」
 げらげらと二人は笑う。
――姉上、ぼく……死ぬかもしれません……
 汗で濡れた顔に、涙が少し混じっていく。

【午後一時】
 矢の応酬を終えると、ナバール軍の第一陣がゆっくりと前進を始めた。
 それを迎え撃ったのが、パーシヴァル・ロックハートだった。
「貴族の私兵の寄せ集めに、帝国正規兵の強さを思い知らせろ」
 ロックハートが叱咤する。と、ロックハート隊が整然と進み始める。ロックハート隊はブリュースト要塞守備隊の精鋭2千で構成されている。この戦場で最も訓練された集団であろう。
 長方形を模[かたど]るロックハート隊に、ナバール軍第一陣が、不揃いに押し寄せる。
 槍と槍がぶつかり合う。
 ロックハート隊は一糸乱れず、統一された動きで槍を突き出す。その攻撃を受けて、一方的に、ナバール兵ばかりが倒れていく。
 ナバール軍第一陣は、ロックハート隊を突破できずに後方へ下がる。だが、間を空けずすぐに第二陣が攻め寄せた。
「怯むな! 攻め続けよ。敵を休ませるな!」
 ナバール軍は緩慢ない攻撃を続ける事で、スピノザ軍の疲労を蓄積させて、最終的に押し潰そうとしていた。故に、多少の犠牲は初めから覚悟の上である。
 第二陣を押し返すと、連戦に喘ぐように、ロックハート隊は隊列を乱す。
 そこに、ナバール軍最強の第三陣が襲い掛かった。
 その時、ロックハート隊は、進撃する第三陣よりも素早く退き下がる。ぽっかりと両軍の間に空間が開き、それを埋めるように、勢いを増して、第三陣が駆ける。

「斉射三連!」
 と、パスカルの腕が振り下ろされて、連弩が一斉に唸りを上げた。
 一瞬空を黒い矢が埋め尽くす。それから、矢が降り注いで、馬を、人を射抜いていく。

「何だあの矢の数は!」
 思わず、ナバール軍の参謀が叫ぶ。
「……」
 そして、ナバール男爵は言葉なく、唖然と立ち上がった。

 第三陣が組織的まとまりを失ったところを、再びロックハートが前進する。そして、綺麗に並んだ槍が、一騎、また一騎と、討ち取っていく。
 瞬く間に第三陣は壊滅して、敗走した。そこに、第四陣が、事前の決まり通りに攻め込んでくる。
 ロックハートは、先程と同じように戦列を下げて、第四陣を連弩の射程距離に誘い込んだ。

 第四陣がパスカルの的になっている間、ナバール軍の本陣では、蒼白になった顔を寄せ合っていた。
「初めから被害は計算の内だった。このまま攻め続けるべきだ」
「左様、敵の矢とて無尽蔵ではあるまい」
「矢が尽きぬとも、矢を装填させる時間を与えず、攻め続ければ良い」
 これに、すぐ反論が入る。
「敵の防衛線を突破するのに、どれだけの兵が死ぬと思う。勝ったとしても甚大な戦力の消耗だぞ」
「だったら、貴公は如何すると言うのだ」
 参謀達の会話は不毛に進み、それ分だけ顔から生気が失われていく。
「うろたえるな!」
 繰り広げられる不建設的な罵り合いに、ナバール男爵は業を煮やして叫ぶ。
「一旦兵を退いて、軍を再編する」
「しかし」
 唇を震える参謀を、ナバールは烈しく見据えて、眼だけで黙らせる。
「お前達は、これまでの射撃を分析して、有効射程距離を計算しろ。もたもたするな!」
 こうして、ナバール軍は攻撃を中断すると、円形の陣形を一度壊して、大きく左右に戦力を展開していく。

「本気で勝つつもりらしい」
 オーギュストがまた感服した声を出す。
「……」
 しかし、ナルセスは部下への指示に忙しく、オーギュストの相手をしている暇がない。さらに、マックスも魔術通信傍受に集中して、ここ数日ろくに睡眠も取れていない。
「マックスのくせに……」
 つまらなさそうにオーギュストは、四方を見渡して、手の開いている者を探す。そして、飾り物のように鎮座するフリオを見つけた。
「伯爵、ナバール男爵はなかなかの将ですよ」
「……へえ?」
 急に声をかけられて、フリオが顔を上げる。
「戦術的不利を察して、即座に方針転換した。“車懸かりの陣”から、“鶴翼の陣”へ。非凡な才がなければ出来ない」
「このくらい…はぁはぁ…大した事ではない」
 フリオの答えを聞いて、オーギュストは満足げに頷く。
「それでこそ若き覇者。ミカエラ殿も喜ばれよう」
 姉のミカエラを引き合いに出されて、不服そうにフリオはオーギュストを見上げる。
「少し黙っていて貰いたい……」
 しかし、その感情を差し引いても、この段階に至って尚も緊張感の欠片もないオーギュストに、フリオは不快感を顕にする。
 フリオから見て、今スピノザ連合軍は、紛れもなく窮地だった。連弩による攻撃は成功したが、致命傷を与える前に、敵は作戦を変更してきた。それも、連弩の死角となる側面へと兵を移動させて、左右から挟撃する形で、起死回生の反撃を行おうとしている。
「総大将がそんな顔をしてはいけませんな」
「……」
 フリオははっと眼を見開く。
「覚えておかれよ。勝つためには、最短の勝ち筋を見つけなければならない。だが、常に選ぶのは一つだけ。一戦で二勝も三勝も出来ないのだから」
「何を言って……?」
 眼が怪訝な影に曇る。
「ナバール男爵は欲張った。中央を厚く保ったまま、左右のどちらか一方から掬えば、まだ勝敗は分からなかっただろう」
「しかし……」
 オーギュストの語る戦術論に、フリオは納得できない。
――両翼は機能している。挟み撃ちを防ぎ切れるか如何かさえ危うい……
「戦いとは相対的なものであり、そして、総ゆる事にタイミングがある。要は手の内を明かすのが早過ぎたのだ」
 オーギュストは低い声で言い放つ。
「講義はそのくらいしろ」
 と、ナルセスがゆっくりと近付いてくる。その背後には、リューフ、ベルティーニ、ロックハートなど主立った幹部がいる。
「準備は?」
「整った」
「よし。これからが本番だ。攻め切れれば勝ち。攻めが途切れれば全滅。生死を分ける決戦だ」
 オーギュストは幹部達一人一人と視線を交わす。
「だが、敵はこちらの切札を確認せずに駒を動かした。ナバールの落ち度を咎めれば、自ずと勝利は掴める」
 視線がリューフに集まる。
「リューフを先頭に突撃する。第二陣は伯爵が自ら指揮する。第三陣にはロックハート。ベルティーニはパスカルを助けて、左右の敵の動きを牽制しろ。以上だ」
 オーギュストは簡潔に命じると、フリオの背中を叩いた。
「姉上に、手柄を持ち帰りましょう」
「……っお」
 フリオは口がカラカラに渇き、唾一つ出てこない。
「伯爵の馬を!」

「よし、始めるぞ!」
 リューフが青竜偃月刀を振り上げる。自然と鼓動が高まり、目が剥き出しになる。従う聖騎士達も槍を掲げた。
「突撃!!」
 振り下ろすと同時に、馬の腹に蹴りを入れて駆け出す。それに遅れてルグランジェも愛用のグレードソードを抜いて駆け出す。
 両軍は真正面から激突した。
 リューフは先頭の騎兵をすれ違い様に叩き斬る。そして、頭上で青竜偃月刀を旋回させると、雄叫びを上げた。
「おお!! ナバールの兵どもよ聞け!」
 リューフはまるで何もない野を駆けるように突き進む。
「我が名はリューフ! 命の惜しくない者は、我が前に立てえェ!!」
 吼えるリューフに、ざざっ、と道が開く。
「ナバールは俺がもらったァ!!」
 突然、リューフの横をルグランジェがすり抜けていく。

 スピノザ連合軍は、左右に広がって手薄になったナバール軍の中央を突く。リューフを先端とした突撃部隊の攻撃力は凄まじく、いとも簡単にナバール軍の防衛線を斬り裂き、その割れ目に、第二陣、第三陣が流れ込んでいった。

 フリオは戦場のただなかにいた。人や馬の蠢きが、地響きとなって、体の芯をジリジリと突き上げる。怒号と悲鳴が四方八方を取り巻き、聴覚を狂わす。感じられるのは、自分の吐き出す生温かい息だけである。
 狭い視界の中で、白刃が光を放つ。霞んだ瞳が3騎を捉えた。敵である。それが右なのか左なのか、近いのか遠いのか、方向感覚が麻痺して判断できない。「今何をすべきか」、と考えようとしても、ただ空転するばかりである。
 突然、後頭部が押さえ込まれた。視覚は動きついて来られず、流れる映像は時間を剥ぎ取られたように飛び、気が付いた時には、目の前に馬の鬣があった。
 頭上で、ドンドンと物がぶつかる鈍い音がして、それから、ボウガンを放つ音がした。
「頭を下げろ。的になるぞ」
 聞き覚えのある声がする。だが咄嗟に顔を想い浮かべる事ができない。
「ナルセスの傍にいろと言っただろ」
「しかし、敵が…馬が…走って……ハァハァ」
 不甲斐なくも、縋るような声になってしまう。
「泣くな、ここは戦場だぞ」
 今度は首根っこを掴み上げられる。ようやく声の主の顔を見た。
「ディーン殿……ハァハァ……」
 フリオは震える声を絞り出す。体は冷水を浴びせられたように竦[すく]んでいる。
 その時、新たな敵騎が迫って来た。
「来る!」
 まだ距離があると言うのに、フリオは首にでも刃を当てられているかのように戦慄して怯える。そして、わなわなと震える手で、弓矢を構えようとするが、左手首に感覚はなく、弓を絞る事ができない。
「来たァ!!」
 眼前に迫る敵騎に、血の凍るような恐怖を顔から溢れさせる。と、矢が馬の足元へと落ちる。
「ちぃ」
 一度舌を鳴らすと、矢の突き刺さった盾のある左手を振る。と、盾の後ろから、刃が円盤状になっている“円月輪”が飛び出す。
 円月輪は敵騎の顔を目掛けて舞う。敵騎は変則的な武器に驚くと、体を起こし、槍を上げて防御しようとする。その時、オーギュストは素早く右手でボウガンを撃つ。短い矢は寸分狂わず敵騎の鐙を射抜いて、バランスを崩した騎士は後方へと落馬した。その後、オーギュストはボウガンと盾を投げ捨てると、すかさず剣を鞘から抜く。
「……すごい……」
 間近でオーギュストの神業を見て、フリオは言葉を失う。
「死にたくなければ、俺から離れるな!」
 オーギュストは強めに言って、フリオの手綱を引っ張る。
「ほら、行くぞ」
「は、はい」
 オーギュストに導かれて、ほんの僅か進むと、ナルセス達が小さな円陣を組んでいた。
「伯爵ご無事で何より」
 フリオが円陣の中央に入ると、ナルセスが笑いかける。
「……心配かけた……」
 言ってから、フリオは項垂れる。疲労感がどっと心身を襲って、思考は停止して、もはや手足の感覚もない。歪む視界に、馬の上に乗っている事さえできず、力尽きたように落馬した。
「どうだ?」
 オーギュストはそれを冷淡に一瞥して、ナルセスに話し掛ける。
「男爵は敗走し始めた。ルグランジェが肉迫しているが……」
 ナルセスの切羽詰まったような言葉に、オーギュストは無感情に頷く。
「追撃するには戦力が分散し過ぎている」
「ああ、分かっている。しかし、千載一遇の好機だった……」
「まだ、戦いは終わっていない。敵の両翼が残っている。指揮系統が混乱した中、襲ってくるとは考え難いが、用心した方がいいだろう。先頭はリューフに、後方はロックハートにまとめさせろ」
「残念だが……後はカフカに任せよう。もっと兵があればなぁ……」
 ナルセスが無念そうに唸る。
「現状では勝ち過ぎるのも良くない。すぐに、万を揃えるようになる。焦るな」
「ああ、分かっている」
 オーギュストはナルセスの肩を叩く。

 スピノザ連合軍の中央突破によって、ナバール軍の本陣は崩壊した。ナバール男爵は側近に守られて敗走する。一方で、左右に展開した戦力も、戦意を喪失して後退する。彼らの目指す所は、ボーエ城である。そこまで戻れば、直ちに再起できる。戦いは緒戦が終わったばかり。無秩序に戦うより、その方が建設的である。そう誰もが思っていた。
 だが、ナバール男爵がボーエ城に近付いた時、城にはサイア王国の旗が靡いていた。
 主力同士が戦っている最中、カフカはサイア兵500を率いて、ボーエ城を奇襲する。そして瞬く間に占拠していた。
 ナバール軍は恐慌状態となって、武器も兵糧も投げ捨てて、蜘蛛の子を散らすように四散していく。
 ナバール男爵自身も、兵を捨てて、僅かな側近とともに野に潜伏した。


【9月初旬、スピノザ城館】
 スピノザ城館での祝宴は盛況だった。戦勝と伯爵継承の祝いのために、音信不通になっていた親類縁者などが多数集まっている。さらに、余興の一つに、赤絵の大壷の御披露目もあって、ルブランからバルタザール・ド・ルブラン公爵の従兄弟スフォルツ子爵が来訪している。
 そして、これら出席者の中に、トランダル侯爵夫人パオラがいた。
 「ごきげんよう、ミカエラさん」と侯爵夫人が貴族独特のアクセントで声をかけると、ミカエラが楚々と振り返った。ウェストをシャープに、スカートは緩やかに広がるように仕立てた、シンプルだが凛とした美しさのある黒いフォーマルスーツを着ている。華やかな場でありながら、黒を選んだのは、この戦いで死んでいった者達への追悼の意味があったのだろう。
「ミカエラさん、さすがねぇ。ディアン義勇軍を引き抜くなんて、一体どうやったのかしら?」
 貴族らしい優雅な笑みをたたえて、トランダル侯爵夫人は言う。
「何も。女神エリースの教えを守って、正義を実行しただけですわ。侯爵夫人」
「そうですか。それはエリース様もお喜びでしょう」
 ミカエラが澄まして返すと、侯爵夫人は満足そうに頷く。侯爵夫人は、貴族の女性としての生き方や慣例などに、特にうるさい事で知られていた。
「そう言えば、フリオ様、いえ、スピノザ伯はお見かけしませんが?」
「ルブラン公からの御使者と会っています。後ほど、こちらにも顔を見せるでしょう」
「そうですか……」
 ルブランの名に、侯爵夫人の眉が僅かに動く。それに気付かぬ振りをして、ミカエラは視線を外した。
 その視線の先に、オーギュストがいた。サリス帝国軍の式典用の白い軍服姿で、ロックハートから譲り受けたものである。少し大き目のようで、少しぶかぶかしている。
 オーギュストは途中でグラスをボーイから受取、ミカエラの傍に寄る。
「こちらは……」
 やや詰って、ミカエラがオーギュストを紹介しようとする。
「こちらはローズマリー様の代理人として、ディアン義勇軍に参加されておられます、オーギュスト・オズ・ディーン殿です」
「お若いのに、ご立派ですね」
「金で買いましたから」
 侯爵夫人が褒めると、オーギュストは何気ない口調で言う。
「……えー、っと」
 侯爵夫人は困ってミカエラを見た。
「父が裕福なんです」
 それから、オーギュストは馴れ馴れしくミカエラの腰に手を回した。それに侯爵夫人は顔を顰める。
「では、これで。またねミカエラさん」
 侯爵夫人は礼をすると、顔見知りの貴婦人の元へ走り、ひそひそと話し始めた。
「随分な登場ね」
 冷めた音色で言うと、するりとオーギュストの腕から逃れる。
「あれ、トランダル侯爵夫人だろ。歳の割に艶があるね」
 と勝手に批評しながら、テーブルの上の果物を摘む。
「婦人会の会長よ」
「なるほど、君と同じで理屈っぽそうだ」
 同じにするな、と鋭利な視線が伝えてくる。
「古風なだけよ。それで、私に何の用?」
 訊いて、ミカエラはオーギュストに背を向ける。
「もうすぐ壷をエントラスホールへ運ぶそうだ」
「そう」
「どんな評価を得たか、君は興味ないの?」
「……そう」
「興味ないようだから、これで」
 オーギュストの声が途切れる。少し戸惑って、ミカエラは口を開いた。
「……戦場では弟が――」
 振り返った時には、もうオーギュストの姿はなかった。
「……」
「ミカ」
 呆然と立ち尽くしていると、背後で名を呼ばれた。振り向くと、ベアトリックスが手を上げて立っている。艶やかな光沢を放つ黒のベルベットのジャケットとタイトスカートで、それに白いブラウスにはカメオ風のブローチで、エレガントな装いを出している。
「もてもてね」
「勝利は最高のアクセサリーなのよ」
 普段着の笑顔を向ける。
「折角、アルティガルドへの亡命の手続きも進めていたのに、本当に悪運の強い女ね」
 ベアトリックスがウィンクをする。
「これもエリース様のお導きよ」
 ミカエラが真摯な瞳で言うと、二人はくすくすと笑い出す。すぐに周囲の視線を気にして、テラスへと出た。
「あなたがそんなに信心深いなんて知らなかったわ。それとも、ここじゃ猫を被っていた訳」
「あら、この辺でも、私が教会に行ってないのは有名よ」
「へーえ、恐い女」
「ふふ。私が法典の本を片手に熱弁を振るっても、この辺じゃ誰も『ご立派』とは言わないの。弟の評判は金じゃ買えないしね」
 ミカエラは舌を出した。
「弟君想いね。でも、その弟君は、狙われているわよ」
 ベアトリックスは振り返って、窓越しに会場を見る。
「妹や娘を売り込むつもりの輩でいっぱい」
 そして、そっと耳打ちをする。
「そうね。何処も大変よね」
 ミカエラはフッと息を吐いた。

 それからしばらくして、エントランスホールに赤絵の大壷が運ばれてきた。
 威厳ある髭をたくわえたスフォルツァ子爵と伯爵になったフリオが、壷を挟んで誇らしげに立っている。さらに、その後ろには製作者であるマックスの泣き出しそうな顔があった。
「御覧頂きたい、この美しき壷を――」
 スフォルツァ子爵の声に、人々は感嘆の吐息を洩らした。
「これこそ我らが文化の結晶です。これを産み出した伯爵の見識と努力に感服いたしました。ここにいる全員で、この文化を守り伝えねばならないと痛感いたしております。さぁ皆さん、伯爵と手を取り合って戦って行きましょう」
 万雷の拍手がエントランスホールを包む。
 この光景は、スピノザ伯爵家の健在をアピールするものであり、スピノザ伯爵家とルブラン公爵家との友好関係を強調するものであった。

 白ワインが全員に配られて、乾杯が行われた。その後は、人々の輪は崩れて、壷の近くに寄る者、会話をする者で、エントランスホールは賑わっている。
「弟君、なかなかいいんじゃない?」
「そう? 内心ビクビクしているわよ」
 ベアトリックスが囁くと、ミカエラは苦笑した。
 そのフリオに、まだ幼さの残る少女が話し掛ける。
「フリオ、おめでとう」
「ナーディア、よく来たね」
 二人は無邪気に微笑みあう。
「誰あれ?」
 ワイングラスを片手に、ベアトリックスが訊ねる。その視線の先には、やけにフリルが目に付く、ピンク色のドレスを着た少女がある。
「ああ、ブーン家の娘よ。フリオとは幼馴染なの」
 ブーン家はセレーネ半島でも名の通った財閥である。元々はウェーデリアで生糸の生産をしていたが、後にセレーネ半島に拠点を移して、服飾全般のブランドを立ち上げた。それから不動産や建設土木と事業を拡大させている。ナーディアの父親コルネーリオで三代目になり、財の後は名誉と、社交界との繋がりを積極的に行っていた。その一環としてだろうか、家の格を上げようと、長男ガブリエーレを判事、次男フランチェスコを軍人、三男バジーリオを医者、四男ロレンツォを聖職者と各分野へ進出させている。因みに、ナーディアは末っ子で唯一の娘である。
「今はセリアの名門音楽学校へ進学していた筈よ。確か声楽科だったかしら」
「声楽ねぇ~。あんなフリフリじゃ、猫の鳴き声程度しか出ないでしょうに」
「それは失礼よ!」
「……」
「あたし猫好きなの」
「ふふ、それは悪かったわね」
 二人は顔を近付けあって、笑い合う。
「所詮、成金のお遊びよ」
「だから、あっさりオルレランに引っ込めたのよ」
 乱世となってからは、ブーン家はオルレランを中心に活動していた。再三ミカエラが支援要請をしても、全くの無反応で、どちらかと言うとナバールよりですらあった。
 その時、ミカエラの瞳の端で、長男ガブリエーレがスフォルツァ子爵に挨拶をしている。
「今頃出て来て……守銭奴が……」
 横のベアトリックスにも聞こえないほど小さな声で、ミカエラは呟く。

 ナーディアはフリオの戦場での武勇伝を仕切りに聞きたがって、じゃれるように腕を掴む。一方のフリオは心ここに在らずという感じで、何処かぼんやりとしていた。
「フリオにも出来るんだったら、やっぱ軍人になればよかったかなぁ」
「そうだね……」
「音楽学校って、結構肩凝るんだよね。寮の管理人は変だし」
「そうだね……」
「ねえ、ちゃんと聞いてるぅ?」
「聞いてるよ……」
 と、目の端に、オーギュストを捉えた。オーギュストは人垣の裏を通って、食料庫へと入って行くところだった。
「あの人嫌い」
「え?」
「何かさぁ、隅っこの方にいるのに、周囲を圧倒するような強い存在感があるわ」
 ナーディアは怯えるように眉を寄せて、嫌そうにオーギュストを眺めている。その顔を一度見て、フリオは何か思い詰めたように強く唇を噛む。
「ちょっ、……どこ行くの?」
「ナーディアはお菓子でも食べてろよ」
 そう言い残すと、フリオは走ってオーギュストを追った。
「もおう、子供扱いしないでよ……」
 言いつつ、ケーキを口いっぱい頬張った。

「そうか……ナバールは死んだか」
 暗い部屋の中、積み上げられた布袋の影で、ナルセスとオーギュストは向かい合って話をしている。
「農家の台所で、水を飲んでいる所を、後ろからズブッと――」
「刺された訳か?」
「そうだ。問題はそいつがカフカに――」
「唆されていた訳か?」
「ああ、首はボーエ城に運ばれて――」
「金に変えられた訳か?」
「そうらしい」
 ナルセスは溜め息混じりに頷く。
「カフカの裏工作にはお手上げだな。奴は、このままエスピノザ地方からヴァロン平野を支配するつもりかもしれん」
「それはカフカ本人に聞くしかない。だが、もっと奥が深い男だと思うがな」
「では、奴はこの乱世に何を望んでいる?」
 正体の見えない不安に、ナルセスが苦虫を噛みつぶしたような顔をする。と、オーギュストが人差指を立てる。
「誰だ?」
 オーギュストはナルセスの口を閉じさせると、視線をドアへと向けた。
「あ……ぼくです」
 おどおどした態度で、フリオが入って来る。
「なんだ。フリ……スピノザ伯爵でしたか。何かありました?」
 ナルセスが取り繕うような声を出す。
「あのー、お話中申し訳ないが、ディーン殿に……」
「結構ですよ。もう終わりましたから」
 ナルセスは、目で「後で」と会話して、その場を立ち去る。
「何でしょうか?」
 棚にあるチーズを摘み食いしながら、オーギュストが訊ねる。
「今度、弓を教えて欲しいのですが……」
 と、フリオはもじもじと話す。
「何?」
「ぼくは、いえ、私はあなたのように強くなりたいのです。地位に相応しい、家長としての実力を身に付けたいのです」
「はぁ……あ」
 オーギュストは大きく息を吐いて、フリオに背を向ける。そして、厚いカーテンを少し捲って、窓ガラス越しに庭を見た。
「伯爵には、伯爵の仕事がおありでしょ?」
 疎ましい気持ちを抑えて諭すように言うと、子犬のような純情な涙目が、窓ガラスに写って見える。
「このまま、できの悪い弟で終わりたくないのです。姉上に認められたいのです。了承するまで、傍を離れませんよ」
「あ、そうですか……」
 オーギュストは興味の欠片ない声で答えると、背中で扉が静かに閉まる音を聞いた。


【同日、夜】
 喧噪が城だけでなく、街全体を包み込む夜だった。勝利はどんな美酒よりも人々を酔わすもので、上も下も男も女もなく、狂想的な宴が、街角、路地裏、川辺、船着場など至る所で繰り広げられている。人々はただただ酒を飲み、冗談を言い合い、死の緊張感からの開放を喜び合った。
 そんな中、城内では論功行賞が行われていた。何人かの市民兵が、騎士の叙任を受けている。その式典の席を、ミカエラは周囲の目を気にしながら、そっと脱け出して、自室へと急いだ。
 灯りも人の気配ない部屋に入ると、城外で打ち上げられた花火の光が差し込み、ミカエラの影を床にくっきりと描き出す。
 ミカエラはカーテンを閉めようとする。と、いきなり背後から肩を抱かれた。
「気安く声をかけないで、一度関係したからと言って、私を自分のものにしたと想わないで頂戴……」
 ミカエラは冷たく言って、その腕を振り解く。それに、オーギュストは苦笑いをした。
「あの本は如何した?」
「2冊の魔道書の事? あれなら、あなたの望み通りに渡したわ」
「素直に受け取ったか?」
「受け取らせたのよ」
 「私を誰だと思っているの?」と続けるミカエラに、くすりと笑いかけて、オーギュストは机の方へ歩き、読みかけの本を手に取った。
「『君主論』か。勉強熱心だね」
「勝手に見ないで!」
「君の弟は、『獅子の勇猛さと狐の狡猾』を兼ね備えられるかな?」
 冷やかすように言う。
「返して……」
 ミカエラはオーギュストから本を取り上げて、きつく睨んだ。
「フリオの為に読んでいる訳じゃない。あんたを理解する為よ」
「まぁ、下僕なんかになる気はないがね……だが、信義は常に重んじているつもりだ」
 オーギュストは机に凭れると、腕を組み、真面目な顔でミカエラを見据える。
「どうだか。目的のためには手段を選ばない、そんな冷徹な男に見えるけど」
「権謀術数を否定はしないが、俺達を裏切ろうとした君はどうなる?」
「……」
 言葉に詰ったミカエラの手を、オーギュストは急に掴んで、ぐいと引き寄せた。
「やめて……あれっきりの筈よ」
 強引に抱き締められて、ミカエラは必死に逃げようともがく。
「ナバールが死んだ」
 オーギュストが耳元で囁く。その声に、ミカエラは金縛りにあったように、動けなくなる。
「……誰に?」
「カフカ・ガノブレードだ。この功績でナバールの全てを乗っ取るつもりかも――」
「そんな訳はないわ……」
「ほぉ?」
 ミカエラの呟きに、オーギュストの眉が上がる。
「なぜなら、彼の狙いは、エスピノザやヴァロアでの独立にはないのだから……」
 オーギュストの腕の中だと言う事も忘れて、ミカエラは夢中で思考を巡らす。
――逆算するのよ。彼はサイア王国の復活を目論んでいる筈……ならば!
「きっと彼はこの連合軍を崩さずに、そのままカリハバール戦へ繋げるつもり……」
「ほっ、ほぉう」
「けど、その前に、アルティガルドが動く可能性もある……」
 茶化すようなオーギュストの声も耳に入らず、ミカエラは親指を噛んで、さらに深く思考する。
「そうだね」
「だったら、オルレランとルブランをさらに引き込んで……。いいえもっと全半島をまとめ上げて、アルティガルド王国の侵略を口実に、もっと大きな連合軍が誕生すれば……」
 唐突にオーギュストはミカエラの唇を奪う。
「な、なに……?」
「君の知略は尊敬に値する。だが、それ故に一般人から愛される事はない、ただ恐れられる存在となるだろう」
「……私はあなたとは違うわ」
「考えてごらん。この世が馬鹿ばかりだったら、君の才能は時代に埋もれていく。君には俺が必要なんだ」
「そんな事はない……私はあなたの卑劣を許せない」
「アフロディースに本を渡した時点で、お前も同罪なのだよ」
「……何を?」
 ミカエラは城館の警護のために訪れたアフロディースに、「オーギュストに、信頼できないから担保をよこせと言ったら、これを持って来た」と2冊の魔道書(アプティバ、ディスクパワー)を見せる。そして、「魔道書の管理とか難しそうなので、しばらく預かって欲しい」と手渡した。アフロディースは魔道書を見て、しばし呼吸を忘れたかのように立ち尽くしていた。
「何れ分かる」
 オーギュストは含みのある言い方をして、戸惑うミカエラをベッドへ押し倒した。
「きゃああ」
 仰向けになったミカエラの左肩の上に体を被せ、ミカエラの左腕の抑え込む。そして、首の下から手を通して、ミカエラの右手を握った。
「な、何するの……触らないでよ……」
「今までの中で一番陳腐だな」
「……」
 オーギュストの嘲笑に、ミカエラは悔しそうに顔を背ける。
「……してほしい……」
「へえ?」
「約束して欲しいの。弟の望み通り、弓の達人にすると……」
 無念さを噛み締めた横顔を眺めつつ、オーギュストはミカエラの決して誇りを捨てたがらない声を聞く。
「達人とは言っていないが、まぁいいだろう」
「……好きにすればいいわ」
 ミカエラは口惜しそうに呟く。
「君は大変だな。男に抱かれるのにも理由が要る」
「なっ!」
 ミカエラは顔を正面に戻して、射るように睨み付ける。その瞳にオーギュストは顔が迫っていく。
「本気{むき}になった顔もかわいいよ」
「ふざけ……ムムぅ」
 揶揄{からか}いに、苛立ち、声を上げようとした時、その唇をオーギュストが口付けで塞ぐ。
「んんっ……んっ……」
 ミカエラは何度肌を重ねても恥じらいを失わなかった。唇を重ねる度に身体を硬くする。
――な、何? キスしているだけなのに……
 喉の奥を鳴らす度に、小刻みに顔を揺らす。だが、オーギュストの舌が纏わり付いて、決して逃さない。
――熱いっ、とっても熱いわっ……
 ピチャ、チュパ、と舌と舌が絡み合って、唾液と唾液が混ぜ合っていく。
「んふぅ……んっ…ちゅっ……」
 オーギュストは深々と舌を差し込んで口唇を味わいながら、左手でブラウスの胸元を開く。
――どうしたって言うの、身体が動かない……何かが……燃えて……
 ミカエラは動揺していた。淫らな愛撫を受けると、今までにない感情がふつふつと湧き上がってくる。
「うんっ……ああんっ」
 意思とは関係なく、先日目覚めさせられたばかりの性感が疼いて、腰が自然に悶える。
――なんだか自分の身体じゃないみたい。燃えているの……どんどん激しく燃えていくの……もう何も分からない……
 チカチカとした妖しげな原色の波が、ミカエラを飲み込んで、理性も羞じらいも押し流していく。
――見られている……
 ブラも外されて、胸の膨らみが露になり、そこにオーギュストの視線が突き刺さる。曝け出される肌を、ミカエラは必死に腕を折りたたんで、乳ぶさを如何にか隠そうとする。
「恥ずかしい……」
 見られる快楽に身を震わせながら、潤んだ瞳で訴える。開発されていく身体と心のアンバランスが、複雑な美を醸し出していた。
「ああ……」
 オーギュストは左腕からブラウスとブラを抜くと、ミカエラを腕の中で反転させた。そして、うつ伏せになったミカエラから、残ったブラウスの右側を、素早く奪い取っていく。
「きれいだ」
「……いや…んううっ」
 オーギュストは感嘆の声をもらすと、ミカエラはシーツに顔を埋めて、恥じらいの吐息をもらす。
「あっ……あんっ………はぁっ……」
 オーギュストは、ミカエラの背筋に舌腹を押し付けて、雪白の肌の上をねっとりと舐め降りていく。
――溶けちゃう……溶けてなくなってしまっちゃう!
 そして、ショーツの上から、気持ちよく持ち上がった臀部を丸く撫でる。
「ダメ……」
 咄嗟に拒絶の言葉が口から飛び出る。だが一方で、自分から腰を浮かしショーツを抜き取り易くしている。
 ミカエラの身体が、オーギュストによって再び反転させられて仰向けになった。知性に溢れた美貌は、甘美な熱に魘されて、妖艶に蕩けている。
「いくよ」
 オーギュストの言葉に、期待にほころんでいた顔を、急に引き締める。
「……身体は穢[けが]されても心ま……」
「安っぽい台詞も、無駄な抵抗も、そこまで」
 オーギュストは北叟笑{ほくそえ}むと、乳ぶさに被さっていた腕を掴んで、ミカエラの頭の上に重ねて押さえ込む。その時、無意識の内に、ミカエラは脚を広げていた。
――来たッ!
 何時の間にか乳首がピーンと勃起している。それをオーギュストが吸った。
「くっ、あっ、うあっ、はぁっ!」
 挿入の瞬間、ミカエラが奥歯を噛み締めて、瞳を強く閉じる。
「くうっ、うっ……くっ……」
 オーギュストが腰を動かすと、ミカエラは徐々に唇を震わせた。そして、少しずつ知的な美貌を泣き顔へと変えていく。
「うっ……うううううっ」
 我慢しても我慢しても、淫情は続々と身体をせり上がってくる。思わず、オーギュストの腰に、脚が巻きついていた。
「んっ、んぁっ!」
 オーギュストはミカエラの手を離して、肩を掴み直す。そして、さらに追い討ちをかけるように、激しく攻め立てていく。
「うあがぁ!」
 それに耐え切れずに、その容姿からは想像できない野獣のような呻き声を発した。
 抑え込んでいたメスの性が、堰を切ったように溢れ出して、鼓動は最高潮まで高まっていく。
「あっ、あっ、あっ、イイッ、あっ、あん、あん、あっ……もっと、もっと……」
 オーギュストは、自分の身体に馴染んでいくミカエラを見下ろしながら、ゆっくりと口の端を上げる。
「奥を、奥をーぉ! もっと突いて!!」
 自分で口にした大胆な言葉を、もうミカエラは理解する事ができない。渦巻く炎のような快感に、身も心も焦がしながら、ただただ悶え鳴く。
 ミカエラの絶頂が近いことを感じると、オーギュストはミカエラの両足を肩に担いで、両腕を強く引き寄せると、ラストスパートをかける。
「す、すっごい、い。イクっ、イクっ、イッちゃうーーーーっ!!」
 そして、ミカエラの達する顔を堪能してから、最後の一突きを最も奥に打ちこみ、灼熱の膣内に白濁した液を吐き出す。
 行為が終わり、オーギュストが抜くとそこから大量の液体が零れ落ちた。そして、満足げな顔をミカエラの顔の横に沈める。絶頂の余韻にしたるミカエラの頬をぺろりと舐めた。
 ミカエラは、一度は恥ずかしそうに顔を背けたが、すぐに向き直して、唇を重ねた。二人が唇を話すと透明の糸が線を描く。
「もう一回?」
「ダメよ……」
 言葉と裏腹に、その顔は承諾を告げている。
 ゆっくり火照った美貌を、下半身の方へ移動させて、一度髪をかき上げると、先程まで自分を貫いていたペニスを躊躇うことなく口に含んだ。


【スピノザ神殿】
 その頃、アフロディースは自室で、凍り付いたように魔道書を見詰めていた。開いてはいけない、と想えば想うほど、気になって気になって仕方がない。
「中には何が書かれてあるのか……」
 この2冊の魔道書は、ミカエラから預かったものである。オーギュストを信用できないミカエラが、担保として、受け取った物だと説明された。「これを使えば俺を殺す事もできるだろう。だから、決して開くな」と言われて、恐ろしくなったのだろう、しばらく保管して欲しいと依頼された。
「良き判断だと思います。この世に魔道書と呼ばれる物は、幾つもありますが、どれ一つも、疎かに扱っていい物はありませんから」
 知識人らしい賢明な判断だと想い、快く了承した。
「ありがとうございます。何しろ魔術については全くの素人ですし、“アプティバ”と“ディスクパワー”なんて、聞いたこともありませんから」
「アプティバとディスクパワー!?」
 アフロディースは名を聞いて、覚えず慄然とした。
 アプティバとディスクパワーは、正確には神霊魔術書と呼ばれている。「この世の始まりから終わりまでのすべての魔術が書かれている」と、伝わる伝説の本である。かつて、一人の魔導師が火炙りに処せられ、彼の遺品は全て焼き捨てられた。彼が禁断の儀式を行ったからだ。だが、その具体的な事を記す記録はない。何かを召喚して、これを書かせたらしい。後に、その何かが神だと噂されるようになった。「神によって書かれた、神々の知識、これが真相だ」と、実しやかに囁かれるようになる。だが、それを確認した者は、未だ誰もいない。
 星の数ほどの偽物は出回っている。アフロディースもそれを幾つか目にしたことがあったが、どれも幼稚な物ばかりだった。噂では、ロードレス神国の総大主教以外立ち入りが禁止されている秘宝館に、複写版があるらしいが、それも定かではない。
「あのディーンが持っていたのなら、もしや……」
 アフロディースは固唾を飲む。
「いや、ありえない……そんな事はあってはならない。だが……」
 一度生まれた懸念をどうしても振り払う事ができない。
 神殿に戻って、一度金庫に仕舞う。と、目の前から消えた事で、さらに中身が、真相が気になって、疼くような飢餓感が脳裏を埋め尽くしていく。そして、衝動的に取り出してしまった。
「私を信用して預けられたのに、勝手に本を開く事はできない……」
 何度もその邪な行為を戒めた。そして、魔道書を、捨てるように机の上に放り投げる。だが、気が付けば、また指先が魔道書に触れている。
「この中に、あの強さの秘密があるのかもしれない……」
 甘い誘惑の声が、聞こえて来る。それを振り払うように、アフロディースは壁にかかる神の絵を見た。
「絶対神ジ・オよ。私に力をお与え下さい……」
「これは正義なのだ!」
 絵の中で、神の口が動く。
「はい……」
 震える指先を唇に当てて、潤んだ瞳で、その声を聞く。
「これがお前の手に届いたのも、我が導きぞ」
「はい……」
「お前は勝たねばならない! あやつの秘密を暴露{あば}け!」
「はい……」
「アフロディースよ、悪を断て、我が敵を退けよ」
「はい……絶対神ジ・オよ」
 アフロディースはふらふらとした手付きで、魔道書を開く。
「す、すごい……」
 思わず、その内容に魅入ってしまう。それは、神々の文字で書かれていた。アフロディースの知識では、その全てを即座に解読する事はできないが、知っている単語を拾い上げただけで、それが如何に高度なものであるのかが分かった。
「これは……!?」
 そして、目次らしきところで、オーギュストが使った魔術を見つける事ができた。
「勝てる!」
 唾が飛ぶほどの勢いで叫んでいた。
「ついに、あいつの秘密を手に入れたぞ! ふはははっ!」
 ミカエラを裏切った後ろめたさも忘れて、アフロディースは本の解読に熱中していく。


【スピノザ港】
 やや古く質素な部屋で、シャワーの水音が響いている。部屋の大半を占めるベッドの上には、ベルベットのジャケットとスカートが置かれている。
 ベアトリックスが、白いガウンをまとって、シャワールームから出てきた。そして、窓辺の椅子に腰を下ろすと足を組み、頭に巻いたタオルを解いて、風に洗い立ての髪を靡かせた。
 窓の下では、酔った男達がベアトリックスに口笛を吹いている。
 それを意識しながら、ゆっくりと足を組み直して、頬杖を付く。ここは、スピノザ港に面した小さなホテルの3階で、夜のエリース湖がよく見渡せた。
「さて」
 ベアトリックスは遠く湖の果てへ想い馳せる。そして、先程届いた暗号文を思い出していた。
 暗号文は、ベアトリックスが所属するエリート参謀集団“白い巨人(ヴァイスリーゼ)”の上官であるシュナイダーが送ったものだった。「野戦の詳細を報告するように」とあった。
「ほんと、忙しい人ね」
 ベアトリックスは傾げた首で、くすりと笑った。
 シュナイダーは、オーギュストの生い立ちを探る為に、自分自身でウェーデリアに乗り込んだ。そこから帰国して間もない筈なのに、もう戦術の研究を始めようとしている。きっと自分の報告を聞けば、眉間に険しい縦皺を刻むだろう、と想像して、笑いが零れてしまう。
「彼にディーン攻略が想い浮かぶかしら?」
 艶美に口の両端を上げて、微笑む。


【アルテブルグ】
 機能的な部屋の中で、シュナイダーは独り机に向かっていた。机の上には未整理のメモが山のように重なっている。
「母親はサリス系で、オーギュストにも4分の1サリス人の血が流れている」
 一枚のメモを、右の山から左のファイルへ移す。そして、またメモを取り出す。
 それは、カーターという男のコメントである。アルバトロス号でオーギュストと同期で、首席だったと言う。今は地元の自警団で副団長をしている。
「ギュスはアルバトロス号の生徒としては普通だった。だけど、あの訓練のおかげで、最近では身体能力が高いと評価されるようになっていた。全てはアルバトロス号で鍛えたからだ」
 カーターと一緒にいたルーシー・カオル・ナイトという女性の話も載っている。
「でも、義眼になってからは雰囲気が変わったわ。どう言ったらいいのか……そう際限がないのよ。走っても跳んでも、必ず前よりも記録を伸ばしていた。もう無理と言ってから、どんどん記録が伸びて……『お前には限界がない!』と煽ったり、『手を抜いていただろう』と揶揄{からか}ったりしたものよ。それに、記憶力が良くて、一度読んだ本は全て暗唱していたわ。ちょっと恐いぐらい……」
 また、別のメモを取る。それはオーギュストが少年期に学んでいた南陵流の一派『和鷲流』の師範の言葉がある。
「中の上というところで、免許皆伝には程遠い状況だった。しかし、湖で事故に遭ってからは、少し違った。いや、強いという訳ではない。なのに、勝つ。あれを語るのは難しい。強烈な個性や体臭がないのだ。当たり前に動き、初歩的に剣を振る。そして、ただ勝つ……」
 シュナイダーは剣術史の本を開いて、和鷲流のページを読む。
「和鷲流は、ワ国剣術を取り入れた流儀で、居合が奥義。……だが、所詮田舎剣術。あの強さの理由にはならない……か」
 自問するように呟く。
「フェニックスヒルでは、二剣を操ったと聞く……」
 そして、重い手で、極聖流のページを開いた。

 セレーネ帝国黎明期に二人の天才剣士が活躍する。それぞれセリア南北の丘陵に道場を開いたことから、北陵流と南陵流と呼ばれるようになる。
 南陵流は人間の防衛本能に技術を組み込んだ無意識の攻防を特徴とし、相手の出方に対して非常に柔軟な戦術を取る。基本は滑らかな足捌きによる後の先の動きとされている。また、道徳の理念が強く、単なる殺人剣に留まらず、倫理、哲学などの思想面の育成にも力を入れて、政治と深く結びついていく。
 北陵流は顔の横で剣を立てて構え、そこからの斬撃という一つの技を究極まで極めて、一撃必殺を奥義としている。卓越した集中力と圧倒する殺気を剣に宿す事を特徴とし、南陵流とは逆に政治とは一線を画して、自己の鍛練を強調した流派である。
 南陵流はその特徴から、多くの門人が幾多の分派を構えて、隆盛を極めていく。しかし、南流派宗家は、政治と結びついた反動として、政争に巻き込まれて没落していく。結果として、セレーネ帝国末期には南陵を冠する流儀が濫立する事となる。
 そして、セレーネ帝国を滅ぼしたカール大帝は南陵流の天才剣士でもあり、濫立した南陵流各派を統一して南陵極聖流を創設する。特徴は左右に剣を持ち、別の生き物ように自由自在に操るところにある。しかし、それ故に、奥義の難解となり、その複雑さから習得する事は極めて困難となった。このために、再び分派が進む事となる。
 現在ではサリスの白鳳剣、サイアの秦鷹剣、アルティガルドの紫龍剣、アーカスの緋燕剣、などが有名である。
 これらカール大帝以後の成立した派を極聖派とし、カリハバールにて独自に発達した派を覇聖(覇西)派とする。

「二剣は極聖流……カール大帝を騙るつもりか。否!」
 シュナイダーは強い口調で、思い付いた考えを否定する。
「そのつもりなら、他に演出方法はあった筈だ。確か魔術について……」
 そして、ベアトリックスから届いたばかりの暗号文を見た。
「ディーンが使用した魔方陣は七芒星。360度は7では割り切れない。よって正確に描くことは不可能と言われて来た……面白い!!」
 シュナイダーの怒鳴るように叫んだ。
「ディーンは自分の強さを神格化するつもりだ。神になろうとする者か……」
 シュナイダーはいつの間にか笑い出していた。
「面白じゃないか。神か、天才か。勝つのはどちらか。これは面白い」
 シュナイダーは立ち上がると、窓を開いた。そこに雷鳴が一閃する。
「俺の器を計るのに、不足はない」
 不敵な顔が、闇夜の中鮮やかに照らし出された。
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Date:2011/01/16
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