【セリア】
※アネモイ堀
セリアを流れる二つの川、紫川と翠川(第55章参照)。これを結ぶ運河を『アネモイ堀』という。このアネモイ堀には、商業の町『エウロス市街地』と『旧市街地』を分ける機能がある。旧市街地側には、堅牢な高石垣と枡形門が築かれている。その高石垣に沿って、一列に、大聖堂や政府機関の施設が並んで、強固な壁を形成している。
ロードレス大使館は、まさにそこにある。
「アルティガルドで?」
アフロディースが、その噂に名高い柳眉を撓らせる。
「保安庁の調査です」
神国保安庁は、ロードレス神国の諜報機関である。非常に効率的な組織で、対アルティガルドに対して、秘密情報収集能力と秘密活動能力において世界最高峰といわれている。その神国保安庁がまとめた報告書を、アフロディースは黙って読む。
「そうか……」
「猊下、これは好機です」
補佐官の言葉に、アフロディースは、視線を上げた。
「何のだ?」
「積年の恨みを晴らすべきです」
「……」
アフロディースは、椅子を回して、長い脚を机の下から出すと、ゆっくりと組む。
「ご決断を」
「慌てるな」
「しかし……」
息巻く補佐官を微笑で抑える。この微笑に接すれば、誰もがこの女(ひと)のために死のうと思う不思議を、不思議に思った者はまだいない。
「この混乱には、人の意思を感じる」
そして、細い顎をベン先で叩きながら、鈴のような声で語る。
「と言いますと?」
別の補佐官が問う。
「あの『海賊の娘』が、最近、戦争を欲していると聞く」
「何ですって!」
補佐官達が顔を見合わせて、互いの驚きを共有する。
「今度のカリハバール戦役では、子飼いの(アーカス)系武将に、十分な恩賞を与えることが出来なかったからなぁ……」
「なるほど」
そして、アフロディースの言葉に、揃って相打ちする。まるで操り人形のようである。
「アーカス人は、義に疎く利に聡い。十分な食い扶持を貰え続ける必要があろう」
アフロディースは言い終わると、感銘を受けて涙ぐむ補佐官達に背を向けて、窓際に立った。
長年、ロードレス神国の復興と発展に、心血を注いできた。それが一応の成果を見せ始めている。そこで中央に視線を戻すと、軍事を司る統帥府をクリスティーが牛耳ろうとしていた。
武官次席アレックス・フェリペ・デ・オルテガ。
軍令部長マルコス・サンス・デ・ザウリ。
騎馬軍団兵総監レオナルド・セシル。
上帝軍筆頭司令官エステバン・イケル・デ・ハポン。
など、要職に派閥のメンバーを就任させていた。
数々の戦場に自ら立ち、オーギュストの覇業に貢献してきた自負から、これ以上クリスティーを横行闊歩させる訳にはいかない。と、アフロディースは思う。
しかし、果たして、それだけであろうか。
知美勇に秀でた彼女にとって、唯一足りない者があるとすれば、それは血統であろう。皇帝や伝統ある王侯の血統は納得せざるを得ないが、成り上がりのアーカス王家を認める気には到底なれない。
「あの女なら、やりかねない……」
小さな声で、苦々しく呟く。
※ボレアス聖域
アーカス教会。
セリアの北、紫川の北岸には、歴代皇帝の霊廟や由来の大聖堂が並ぶ、『ボレアス聖域』と呼ばれる地域がある。ここに、真新しいアーカス教会はあり、アーカス系の人々の心の支えとなっている。
クリスティーは女神像への祈りを終えると、従兄のアレックスと共に庭を歩く。
「アルティガルドで?」
アレックスは、表情を変えずに答えた。然程興味がわく話題ではないらしい。
「情報本部からもれてきた情報よ」
「もう情報本部に手を突っ込んだか。さすがに恐い女だ」
口の端を片方だけ上げて、アレックスは不健康な笑い方をした。それに構わず、クリスティーは喋り続ける。
「情報本部は、重要人物にもマークを付けているらしいわ」
「ほう、さすが刀根留理子だ」
上辺だけの口調で、アレックスは言った。
「情報本部だけで、アルティガルドを屈服させるつもりらしいわ、本気でね」
「出来るものなら、やればいい。俺たちはその方が楽だ」
「カリハバール以外にも、少しは関心を抱いたら?」
業を煮やして、クリスティーはかすかに唇を歪める。そして、半ば冗談のように言った。
足元で、鮮やかな鯉が跳ねる。その音に頬を緩めて、アレックスは膝を折った。
「何もかも、お見通してですか。俺程度の男など、掌の上ということか。くくく」
屈折した苦笑をもらすと、子供のように無邪気に、池の中へパンくずを投げ入れた。
「あなたには、アーカス勢を率いて貰わなくては困る」
クリスティーの顔がさっと冷たくなり、それまであった優雅さが完全に消えた。そこには一人の政治が立っている。
「率いるさ。アーカス兵100万を率いて、カリハバールへ攻め込み、主従尽くを斬り殺してやろうぞ!」
急に口調を激しくすると、足元の石を拾って、叩きつけるように池に投げ入れた。
「そのためにも、中原を安定させねばならないのでしょ」
「……」
アレックスはイライラと左右に視線を走らせ、きれいに整えられた髪を掻き毟る。
「だったら、刀根の協力してやればよい」
手の甲で口元を隠して、くすくすとクリスティーは笑う。そして、アレックスと同様に膝を折り、逃げ散った鯉を呼び戻そうと餌をまく。
「彼女は、所詮、流れるに乗るだけの女。時代を作る器じゃないわ」
それから、水面に漣一つ立たぬような小さく声で囁く。
「じゃ、この状況を作ったのは誰だ?」
「さあ。でも、あの『がり勉』が関わっている可能性はあるわ……」
強い眼差しを放ちながら、すっと立ち上がり、アレックスに背を向ける。
クリスティーが、この政権に参加した時点で、すでにミカエラは、宰相府を掌握していた。
今でこそ、中堅以下に、ホーランド系の官吏が多くなっているが、それらをまとめるエルザ=マリア・ファン・デルロースは、義甥のデルロース伯爵の戦死により、その求心力にかげりを見せている。やはり、ミカエラの有利は揺るがない。
クリスティーは、念願だった天下の政に関わる地位を手に入れた。政治的問題など、難解であればあるほど心が躍る。もはや望むできものはないように思えたが、唯一心残りがあるとすれば、少女時代に、学問を修めることが出来なかったことだろう。
アーカスと言う辺境に生まれ、王女というしがらみがあった。仕方がない。そう仕方がないのだが、それをクリアーした女がすぐ隣に居ると思うと、腹立ちを戒めることが出来ない。
「あの女ならやりかねない……」
呪いのように、囁く。
※カール大帝通り
グランクロス宮殿とノイエルミナリエ宮殿を結ぶ『カール大帝大通り』には、大貴族の館がその威光を誇るように立ち並んでいる。その中で、一際存在感を示しているのが、『ルブラン公爵邸』である。そして、それに次のが、『スピノザ侯爵邸』である。内部は小さな街に匹敵するほど広く、多くの人々が生活していた。
「フリオは何処?」
玄関前で、馬車を降りたミカエラが、出迎えた親しい侍従に弟の名を告げる。
「姉上、突然どうしたのです?」
豪華な食堂の中、無意味に長いテーブルの端に、フリオは一人で坐っていた。卵の殻をスプーンで巧みに割って食べている。隅では弦楽四重奏団が演奏し、側背に数人のメイドを従えている。そのメイドのスカートを、ショーツが見えるギリギリまで上げさせるのが、フリオの朝食の拘りだった。
「フリオ、入るわよ」
「わっ、待って……早く奥へ行け」
ミカエラの突然の訪問に、フリオは慌てて食事を中断した。そして、扇子を振るような仕草で、メイドを素早く撤退させた。
「呑気に昼食?」
許可を待たずに傍らまで歩み寄り、ミカエラは挨拶もせず、一方的に眉を顰めた。
「朝食です!」
フリオは胸を張り、キッパリと反論する。時計はもうすぐ11時になろうとしていた。
「どっちでもいいわ。それより」
ミカエラは急いでいるようで、フリオの都合に頓着していない。勝手に身を屈めると、真剣な表情で耳打ちする。
「アルティガルドで!」
鼓膜を叩く衝撃的な言葉に、フリオは目を瞠った。すぐに、ミカエラが、大きくテーブルを叩いて「しっ」と叱る。衝撃で、テーブルの上に活けてあった薔薇の花びらが散った。
「確かなのですか?」
フリオは立てて唾を飲み込み、それから抑えた声で問う。
「宰相府が掴んだ情報よ」
言語に、私を疑うのか、という怒りが篭っている。フリオは気まずそうに顔を伏せて、フォークの先で薔薇の花びらを弄った。
「でも――」
ミカエラは急に遠い目をして、すっと屈めていた身体を伸ばす。
「あなたが言うように、急激よね。もしかしたら、影に、あの女が絡んでいるかもしれない……」
「あの女?」
下から覗くように、フリオが問う。
「ロードレスの山猿よ」
名を口にするのも汚らしいように、顔を顰めて言う。
「ええ!?」
途端に、フリオは目を丸くする。
「最近じゃ、雪と氷に閉ざされた山中に飽きて、中原の豊かな土地を欲している様子……人のものを奪おうなんて最低ね!」
嫌悪を窮めた声で、ミカエラはひとり呟く。
「でも、あの美人がそこまできたな……」
そこまで言いかけて、フリオは自ら口を噤んで咳払いした。頭上で凄まじい稲光がしたように感じられた。途轍もない殺気に後頭部を押されて、白いテーブルクロスに顔を埋めていく。
「美人は罪を犯さないの?」
静かな声で質す。
「いいえ、滅相もございません。それで、僕に何をしろと?」
ミカエラは、ぐっとフリオの髪を掴んで、顔を上げさせると、その顔を睨みつけて、激しい口調で言う。
「いつでも出陣できるように、精鋭を集めていなさい。いいわね。これは遊びじゃないのよ」
「はい」
フリオは、震える顔を上下に動かして、素直に頷く。
「はぁ……ヴィユヌーヴが生きていれば……」
食堂を出て、廊下の角を曲がる時に、ふいに従兄の名を思い出した。
今、元老院は、幾多の叛乱の結果、セレーネ半島系の貴族が減り、サリス・サイア系で大勢を占めるようになった。しかし、ティルローズとカレンでは、これらをまとめ切れていない。
特にカレンは、兄アベールの失脚、係累であるオルレラン公国の滅亡、そして、名参謀カフカ・ガノブレードの死などによって、頼るべき者を尽く失ってしまっている。これは政治的致命傷と呼べるだろう。
この状況下で、中原以外の議席増加をアフロディースが画策しているのが気になっている。
自他共に認める才色兼備のミカエラにとって、唯一の目障りと言えば、美の頂点を極めるアフロディースであろう。さらに、自分にはない武勇もある。気にするなと言う方が無理であろう。
「あの女ならやるわ」
まるで呪文のように告げて、ミカエラは馬車に乗り込んだ。
嵐のようなミカエラの訪問がようやく終わる。
「大変なことになったぞ。でも、どうすれば……」
フリオは腕組みをして、首を捻る。
「まずは徴兵、いや兵糧集めか。待てよ。人材登用が最初かぁ……?」
うろうろと熊のように部屋の中を歩き回る。
「そうだ。こんな時のために、あの男(ひと)を保護していたのだ」
フリオは、今後の対策に迷う。そして、離れを貸している友人に相談しようと動き始めた。
「大変なことになりましたよ」
ドアを開けて、開口一番そう告げたが、返事がない。大家の権利として遠慮なく奥に進むと、暗い部屋の中から、青白い光がもれている。覗くと、大男が一人で、水晶の画面に向かって坐る。
「何をやっているのですか?」
「ああ……フリオ殿か」
その男は、フリオの声に、弾かれたように顔を向けた。その顔が涙でぐちゃぐちゃなので、フリオは思わず一歩足を引いてしまった。
「どうしたんです?」
「おい」
「はい」
低い声で呼ばれ、フリオは固唾を呑んだ。
「このままじゃ、召喚士が死ぬんだぞ!」
自分で言って、さらに感情が昂ぶったらしく、男は、わっと声を上げて泣き始めた。
「今より輝こうとする美少女の光を奪い去ることは、俺が許さん!」
「……」
しばらく静かに、そして、冷めた目で見守っていたが、正確に状況を把握して、フリオは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。続編でもっと可愛くなりますから」
「本当か? って言うか、続編があるのか?」
「はい」
「ネタバレすんなよ」
コントローラーを足元へ投げつける。
「すいません。マックスさん」
「そうか。まあいい。よし、じゃあ早く終わらせて、続編に挑戦するか」
男は、水晶を真直ぐに見詰めて、コントローラーをしっかりと握り直した。
フリオは無言で退室する。そして、ドアを閉めながら、「地獄に落ちろ」とほくそ笑む。
※グランクロス宮殿
未明。
暗い部屋の中で、Tシャツにホットパンツ姿で、メルローズはソファーの上で膝を抱いていた。目の前には、クリスタルの巨大な画面があり、その青白い光が、メルローズの顔を単調に照らしている。
画面では、男の女が濃厚に睦み合っていた。
男とは先夜契りを結んだ。女とはお昼に仲良くお茶を飲んだ。数少ない同等の親友であろう。
その二人が、ほぼ等身大の画面の中で絡み合っている。
オーギュストがハレムの女性と同衾する場合、別の女性たちが寝ずの番で、映像を監視するようになっている。寝物語で女性が無闇にねだるのを防止するため、と言われている。受け容れ難いが、ハレムの役目と言われれば、同意せざるを得ない。生まれた時から、義務を果たす人生観を徹底的に教え込まれている。
映っていても見なければよい、と音声を切って、映像だけを流すようにしていた。
「ああ、もう嫌!」
しかし、気になって眠れず、枕を投げつける。その際、ついにそのシーンが目に入ってしまった。一度視界に捕らえてしまうと、もう目が離せない。
「ああ、あんなことを……」
次第に、オーギュストの手に合わせて、自分の手を動かし始める。そして、気が付く。こうして、自分で自分の身体を愛撫すれば、一人の夜も、オーギュストと疑似セックスを楽しむ事ができるのだ。
「ああ……またあんなに激しく……ずるいわ」
ピチャピチャと子猫がミルクを飲むような音が微かにする。
メルローズは、Tシャツの上から乳ぶさをもみ、ホットパンツの裾から指を入れて、直接秘部を撫でる。
「うふん、ふんぅ、ふんぅ……」
リズミカルに、甘く鼻を鳴らす。
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