第五章 戦場の幻想
殺伐としたガノムの大地を、薄化粧したように薄く白い雪が積もっている。その上を騎乗して進む。
明け方、広い大地に寒気が張り詰めていた。黒い雲の隙間から、青白い光が階段のように差している。積もった雪は凍り、凍った雪を暁の光が照らして、世界は、穢れた存在を許さぬほど、白く輝いていた。
ギード子爵は、約一万の軍勢を国境へと向かわせ、両軍は、国境をなすサイファ川で、対峙する事となった。
『敵は装備、士気で劣る。我が軍が整然と軍列を前進させれば総崩れになるでしょう』
作戦参謀はそう言っていたが、連日の矢の打ち合いでは、ほぼ互角であり、攻め手にかけていた。
「壮麗ではあるが、……まるで曲芸だな」
疲れからか、思わず茶化してしまった。
「ゴホン」
そういう場合は、副官が、窘めるように咳払いする。
彼は『秋月ゴウ』という。階級は中佐で、ユリウス1世が付けた監視役である。
ワ国人で、厳格な顔つきと僅かな顎鬚をたくわえている。性格は、誠実温厚で部下から人望があり、不屈の忠誠心は、上司からも信頼されていた。
経歴は申し分なく、参謀本部出身にもかかわらず、連隊を指揮した経験もあり、参謀だけでなく司令官としても、優秀な働きを残している。
戦場では堅実な用兵を好んだ。常に敵よりも有利な立場を維持し続ける事に拘った。
「……」
たまらず、首をすくめる。
どうも苦手だ、と思う。ワ国人の年配者には、頭が上がらないらしい。
その時、秋月が叫ぶ。
「敵です!」
我々は、偵察に出ていた。渡河可能な場所を見つけるために、川を上流へ遡っている。
そこへ前方から敵騎兵が現れた。
「伏兵か?」
「敵の目的は威力偵察です」
思わず呟いた疑問に、直ちに秋月が答える。
「潰すぞ!」
騎馬の腹を蹴って、速度を上げる。
敵もすぐに気付いた。騎馬の向きを変えて、対峙しようとする。
両騎兵は、同じように一列になって進む。
すれ違いながら矢を射かけ合うようになる、と思われた。しかし、敵騎兵の先頭が明らかに速度を落とした。騎乗しながら矢を番えることにもたついているようだった。
「ここだ、ついてこい」
勝機だと思った。騎馬を120度ほど急旋回させる。遠心力で吹き飛ばされそうになるのを、必死に踏ん張る。そして、敵騎兵の前を抑えることに成功した。
弓矢は苦手である。ハンター時代に覚えた円月輪を素早く投げる。しかし、秋月以下騎兵は、さすが精鋭である。誰も脱落することなく。見事に矢を放っていく。
敵騎兵前を通り過ぎて、反転する。
見れば、敵は、無数の矢を受けて次々に落馬している。隊列は乱れていた。
再び、騎馬を進める。刀を抜いて、敵の中へ切り込んでいく。
そして、指揮官らしき人物の槍を掻い潜ると、鋭い閃光とともに刀を振り抜く。
「隊長が打たれたぞ!」
敵騎兵は、総崩れとなり、バラバラとなって退却を始める。それを追う。そして、敵が渡った渡河場所を突き止めた。
大きな戦果であろう。敵に損害を与えたし、新たな渡河地点も発見できた。しかし、戦況には影響ない、はずだった。
その場に残り、しばらく渡河地点を調査していると、敵の大軍が押し寄せてきた。
「敵が奪還に来ました」
秋月が報告する。だが、渡河できる浅瀬は狭く、あの大軍が一度に渡れるはずがない。
「本軍へ伝令。総員、迎撃戦用意――」
腹の底が声を絞り出す。まるで自分自身を奮い起こすようだった。
「ここが戦いの正念場だぞ!」
「おお」
さすが精鋭揃いである。返ってきた声はどれも勇ましく、士気は高い。
「敵の騎兵が来ます」
秋月が落ち着いた声で告げる。
「放てェ!!」
川の中を進む敵騎兵に、矢を浴びせる。
そこには、前も後も、そして、左右さえ存在していない。二色の色が、互いに反発しながら、決して溶け合う事無く、混じり合っていく。そんな塊が死臭に澱みながら、蠢いていた。
突然、視界に鮮やかな閃光が煌めいた。
矢だ!
気が付くと同時に、死を覚悟した。避ける暇がない。
その時、左隣に従っていた兵が、何時の間にか、前に立ち塞がり、その矢をその身に受けた。その見知った顔が、苦痛に歪みながら崩れ落ちていく。そして、嘆き悲しむ暇もなく、次の矢を、右隣が同様の行為で防いだ。
「生きよー!!」
その兵の最期の言葉が、理性を奪っていく。
「怯むなー! 押し戻せ!!」
恐怖を振り払うかのように叫ぶ。
まるで、その声に誘われたように、次々と新手が斬り込んで来る。剣の残像が揺らぐ度に、生と死の狭間を揺らぐ。この瞬間死んだのか、次の瞬間生きているのか、もはや自分にも分からない。ただ迫る影に刀を振るい続けていた。
「だぁ、だぁ、だぁ……」
今は何も考える事が出来ない。ただ、子供の頃から欠かさず繰り返してきた、北陵流の基本動作を繰り返していた。かつてエッダの四剣士と称えられた技巧的な剣技は、そこにはない。
誰かが肩を掴んだ。躊躇わず振り向き、切り捨てようとする。
「私です」
親しんだ声と顔で、ようやく我に返り、刀を止めた。
「……秋月、生きていたか!」
「落ち着かれよ」
言われて初めて、異常に呼吸が速い事に気が付いた。
「あなたが強い事は誰もが知っている。これ以上人を殺して何になるのですか。一度退いてください」
周囲を見渡した。おそらく自分が切り倒したのであろう遺体が、無残に転がっている。
「そうだな」
素直に頷く。死という言葉が、現実として、そこに迫っていた。ここを抜け出し、混乱を立て直しましょう、と秋月は言葉を続けていくが、その言葉の意味は、よく分からなかった。
そして、その時が来た。
川沿いに、援軍が到着した。新手は、浅瀬に入って、敵軍を押し返していく。
その少しあと、ギードの本陣から大きな黒煙が上がった。
「これで一息入りますなぁ」
ようやく秋月が笑顔を見せた。
「ああ……」
声に出せたかわからない。どっと疲れが押し寄せてきて、体の感覚が鈍っていく。
サリス本軍は、軍を二つに分け、一つを援軍に、もう一つを敵本陣へ向かわせた。
ギードは偵察部隊の過剰な報告を真に受け、サリス軍の大部隊が浅瀬に殺到していると勘違いした。故に、本陣を空にして、ほぼ全軍を以て迎え撃ってしまった。
まさに自爆と言えよう。
勝敗は決した。しかし、ギードは打ち取れず、南へ敗走した。
戦場は、ウェーデル山脈の麓へ移動していた。
ギード軍の捕虜によって、ギードの敗走先は判明した。このウェーデル山脈の麓の何処かに、ビルンタール王国が、密かに作った村があり、そこからギード子爵は、亡命しようとしていた。
これには、参謀たちも驚きを隠せない。
ビルンタール渓谷とガノム平原の間には、ウェーデル山脈が立ち塞がっている。両国の直接的な交流を、軍令部も情報局も確認していない。
しかし、ウェーデル山脈の地下に張り巡らされた坑道を通って、人を派遣し、物資を本国へ運んでいたらしい。
これは看過できないと上層部の意見は一致して、ギードの追撃、並びに、ビルンタール村の探索が始まった。
雪の中の陣に、いきなり旧友が現れた。
「おーい、シンいるかぁー」
呑気な声を間違える筈がない。木の柵から顔を出すと、シャークが手を振っている。
小さな堀に丸太を渡しただけの橋を渡り、
土塁を切っただけの簡単な門を通って、たくさんの荷物を積んだ荷車が入ってくる。
シャークの上げた手を叩く。
「似合うじゃないか。運送屋は天職だったんじゃないか?」
からかうように言う。
「そうかもしれん。儲かって、儲かって仕方がないのだ」
シャークはゲラゲラと笑った。
「そんなにか?」
「ああ、この戦争が始まって、各地の貴族は城の防備などに、金をかけ始めた。まぁ運び屋なんかよりも武器商人の方が、断然稼いでいるらしいがな」
「……死の商人かぁ」
「ここだけの話、ギード軍にも売っている、という噂だ」
「恐いねェー。けど商人なんて、そんなものだろ」
「あくまでも噂だがな」
ちょっと不快な表情をしたが、さほど関心はない。
「それよりも、お前誤魔化してないだろうな? 数数えてみようか?」
「し、失礼な。俺をそんな男だと思っていたのか? この商売は信用が命なんだぞ!」
荷車を被うカバーの中を覗き込んで、品物の数を五つまで数えた。
「矢ですか?」
秋月が問う。
「いや、薪だ」
ウェーデル山産の良質な薪を、シャークに買い占めさせていた。
どうもサリス人は極北の冬を甘く見ているように感じた。だから、自分で手配した。
そこへ、伝令が到着した。
「待っていろ」
足早にその場を立ち去る。
「よっ、よかったぁ〜」
後に残ったシャークは、荷車に両手をついて、安堵の溜め息を漏らしている。
また、村が一つ焼かれた。目的は略奪である。戦いに備えての行為だろうが、村人を皆殺しにする手口は許し難い。
とにかく、部下とともに、遺体を埋葬した。そして、近くの丘に建つ修道院へ遺品を供養してもらおうと向かった。
エリース像の前に跪き祈る女性がいた。
「エリース様、私に、この機会をお与え下さり、心から感謝いたします」
「ルーテル様は、本当に強い信仰をお持ちですね」
そこに、司祭が現れた。紺色の法衣を纏った司祭は、よく陽に焼けた肌をしていた。
「わたしなど……」
「戦いの中にあっても、エリース様の慈悲を忘れない。信者として、とても大切な事です」
司祭は微笑むと、水を差し出した。
「この水はエリース湖の水源から譲り受けた物です。差し上げましょう」
「ありがとうございます」
エリース教信者にとって、教会でエリース湖の水を飲む事は、聖なる行いとして、特別な意味があった。それを受取ろうとして、彼女は、思わず手を滑らせてしまう。
「これは粗相をしてしまいました」
「何か心に蟠りがあるのでしょう。ここはエリース様の慈悲の館です。心を素直に開きなさい」
司祭は慈愛に満ちた笑顔を向けて、彼女を立たせると、相談用の小部屋へと歩き出す。
「おや?」
そこで司祭は、入り口に立つ訪問者に気付いた。
「サリス軍」
彼女が睨む。
肩に大尉の階級章がある。
襟足を短めに切り揃えた亜麻色のボブヘアーを、軽く振り払った。明らかになった顔は美しかった。白い陶磁器のような肌と猫のように大きくちょっと吊り上り気味の瞳が、品の良さと勝ち気な性格を伝えているようだった。
「ご両人、ここは女神の家ですぞ」
司祭は、血相を変えて、二人の間に立った。
「分かっています」
そう大人しい声で告げて、事情を説明し遺品を手渡した。その際、彼女は非常に動揺した顔をしていた。それですぐに分かった。彼女が略奪の指揮を執ったのだと。
その夜、修道院から手紙が来た。
果たし合いの申し込みであった。
翌日、廃墟の村の教会に赴く。
彼女は、一人で立っていた。
「よく来た。父レオポルト・フォン・ルーテルの仇を討たせてもらう」
エリース像の前で嘆いていた姿とは、全く違い、鋭い眼光で言い放つ。
「見事な覚悟だ。受けて立つのが、武人の倣い」
「覚悟!」
果たし状に、名をディートリンデ・フォン・ルーテルと書いてあった。
アッザク砦の近くで倒したビルンタールの士官レオポルト・フォン・ルーテルの娘だという。
レオポルトは、南陵紫龍流の達人で、ビルンタール最高の剣士として知られていた。その娘も、その薫陶を受けて、至高の道を志している、と聞いたことがあった。
彼女は、防寒具を脱ぐ。白装束だった。
「一騎打ちを受けて頂き感謝する」
「剣士として、互いに誇りをかけて戦った。父上には残念な結果だったが、それが剣士の宿命だと信じている」
「最期の相手が名だたる貴方であった事を、名誉に思っていることでしょう」
二人はゆっくりと近づく。互いに、剣と刀を抜く。
「しかし、父はまだ南陵紫龍流の全てを、貴方に見せた訳ではない。そして、ルーテル一門の名にかけて、二度の敗北はない」
「元より承知」
カチーン!
剣と刀の先を微かにぶつけると、二人の気合が衝突する。
ディートリンデの愛剣は、ドラゴンの模様が彫り込まれている。名立たる名剣であろう。その剣を中段に構えた。
対して、いつも通り、顔の横に刀を立てる。
そのままゆっくりと時計回りに回る。
「いざ!」
先に、ディートリンデが間合いを詰めてきた。それに、一歩下がる。
「勝機!」
ディートリンデの鋭い打ち込みが、正確に頭を狙ってくる。
ガチッ!!
それを柄で受け止めた。
これは少年時代の悪い癖だった。自分より大きな相手と戦う事が多かった少年時代、刀を弾かれるのを恐れて、両手で受け止めてしまう癖がついてしまっていた。矯正したはずだったが、ここでそれが出た。
勿論、これでは反撃できない。ディートリンデは勢いに乗って、二撃目、三撃目と次々に打ち込んでくる。
「ちぃっ!」
たまらず舌打ちをした。
「調子に乗るなよ!」
瞳の奥が、熱く燃えるような気がした。
ディートリンデは、身を沈めて腹部を狙ってくる。だが、その前に、強引に一歩踏み出して、体ごとぶつけた。そして、ディートリンデにしがみ付き、左手でその右手を掴んで、剣を振り抜かせない。
「は、離れろ」
「遊びはこれまでだ!」
「ふざけるな」
ディートリンデを押すように、体を離した。その瞬間、両者は一閃、横に振る。だが、それらはただ空を切る。
――戦いの中で、戦いを忘れていた……。次は決める!
迷いを吹っ切り、また刀を顔の横に立てる。
「南陵紫龍流奥義『双竜断顎』」
「北陵冥刀流奥義『一の太刀』」
互いに必殺の技を繰り出す。勝負は一瞬、互いの奥義が交差した。
ディートリンデは、下段に構えて、そこから剣を振り上げる。それに対して、北陵流の一撃を打ち下ろす。剣と刀は火花を散らして、かすり合ってすれ違う。
そして、ディートリンデが下から振り上げた剣は、頭上で僅かに横に流れているが、そこから切り換えして、今度は一転、振り下ろしてくる。
一方、足の幅を広げて、刀を下から振り上げて迎え撃った。
凄まじい火花が散った。
剣と刀が十字に交差している。
しかし、ディートリンデの瞳が揺れている。
「バカな……」
咄嗟に後ろに飛んでいく。その目は、シンの両手を交互に追っている。
「あの瞬間、確かに、刀は二本存在していた」
剣が根元から折れて、剣先がない。
「勝負はついた」
大きく息を吐きながら、言う。そして、足元に転がる剣先を拾った。
「まだだ!」
ディートリンデは短剣を抜いた。そして、身体ごとぶつかってくる。
刀を返して、その手を峰打ちして、回し蹴りをその腹部に放つ。
ディートリンデは身体をくの字に折りながら、その場に崩れ落ちる。
「こ……殺せ」
呪いの言葉を吐きながら、意識を失っていく。
「うう……」
小さく呻くと、彼女が静かに瞼を開く。
「ここは?」
弱い声で問う。
「教会の地下のワイン蔵だ。ここは風が吹き込まないからね」
「……」
突然弾かれたように、彼女は起き上がった。
「勝負は終わった」
「……」
一瞬、燃えるような眼光を見せたが、すぐに消えた。
「そうか……見苦しいところを見せた」
「いや」
桶の中で炭を炊きながら、首を振る。
「奥義では負けていた。まさか一の太刀をかわされるとは……」
沸かしたコーヒーを手渡す。
「しかし、私の目には確かに刀がもう一本見えた……。剣と刀が十字にぶつかった瞬間、横から別の刀が振り抜かれて、剣を追った。あれも北陵流の奥義か?」
「違う。ある人に負かされた技だ。今研究している」
「そうか……。世間は広いなぁ」
彼女は涼しく笑う。
「さて、私をどうする?」
「命を賭け合ったものに恥をかかすつもりはない。一つ、願いを聞いて欲しい。それでお互いチャラにしよう」
「ほお?」
まじまじと彼女は見つめている。
「この場限りの一時的休戦を申し込みたい」
「なっ!?」
「その間に、ガノムに残るビルンタール市民を退避させよ」
「……なぜ、そんなことを」
「俺はセリアに戻れば殺されるだろう」
「……」
彼女は絶句している。
当然であろう。あれほどの崇高な剣戟を打ち鳴らし合った相手が、こうも情けない言葉を吐くとは思いもしないだろう。
「俺はある事変の捨て駒だった。だが、その捨て駒の役割も回ってこず事変は終わった」
言葉にすれば、改めて己の小ささを実感する。
「俺はオーディン像の前で天啓を受け、その権力者に抗うことにした。軍の実力者の娘に近付き、また、あわよくばガノムの反乱勢力を糾合したいと目論んだ」
「……」
彼女はじっと話を聞く。
「だが、俺のために死んでいった者たちを見て、これ以上無駄な抵抗は、彼らの死を冒涜するものだと感じた。最後に、善行を残して、逝きたい」
怒りも悲しみも越え、最後に臨んだことは和平という儚い光であった。その実現に、残り人生のすべてを傾けたくなった。
「……」
彼女の瞳に変化はない。真意を探っているのだろう。
「今の俺にできるのは、この大地の民をこれ以上惨劇に巻き込まないことだ」
「……分かった――」
彼女は頷いた。その顔に険はない。
「もとより、白刃の下で誓いを立てた戦いに偽りはない。負けた者はその意に従おう」
それから、一週間、密かに我々はここで会い、条件を整えていく。難しい課題であったが、どうにか互いに同意できるところまで漕ぎ着けた。
不思議と彼女が裏切り、ここに兵を伏せるとは考えなかった。馬鹿正直になったとも、諦めてしまったとも、少し違う気がした。もはやこの世界を有りの侭受け入れようと心が決めていたのだろう。
そして、最後の日、大雪が降った。
時は夕刻を過ぎ、夜が更けていく。彼女はもう来ないだろう。そう思った。条約は、最後の一行を調整するだけとなっていたが、次の約束のないまま別れれば、それっきりで、この話は流れるだろう。
このまま待とう。
凍死するかもしれない。敵兵に見つかるかもしれない。武人として、正しい選択ではないと思うが、自分を受け入れ、そして、自分も信じると決めたディートリンデ・フォン・ルーテルを信じ抜くことこそ、人としてきっと正しい道であろう。それが出来なかったからこそ、この極寒の世界に一人取り残される結果になったのだろう。
時刻は真夜中になっていた。
と、地上で物音がした。そして、冷たい風が吹き込んできて、階段を雪の塊が下りてくる。
「暇な奴だ」
紫色の唇で彼女は呟いた。
「君もね」
彼女は凍った頬で笑った。生死の境を越えて、身体は衰弱しているようだった。
躊躇わず、抱き締めた。
自分の命で彼女の冷え切った体を温めてやりたかった。例えこの身が燃え尽きようとも構わないと思った。
ワイン蔵は薄暗い。灯りは古い樽の中の炭火と壁の小さなランプだけである。階上の焼けてむき出しなった柱の間を吹き抜ける音が、管楽器のように、降り積もり雪の音がどさりと落ちる音が打楽器のように、軋む梁の音が弦楽器のように鳴り響いている。
古ぼけて、黒くくすんだレンガが床から立ち上って、天井にアーチを描いている。壁の前には、頑丈な棚が隙間なく並んでいる。
二人は、かつてソムリエが試飲したであろう机の上にいた。
ディーテを強く抱く。氷の塊を抱いたようで、骨までも冷えた。
二人のわなわなと震える瞳は、感動に打ち震える二人の顔を映し出している。
指先が、ディーテの顔に触れる。額の髪を払い、細い眉、瞼、鼻筋、唇となぞっていく。
「綺麗だ、ディーテ」
「……うれしい」
彼女は幼く微笑んだ。それは男すら威嚇する剣の達人の表情とは、かけ離れたもので、そう、女そのものであった。
指先は、やがて首から鎖骨へと移動する。そこから、形のいい乳ぶさの周りをじわじわと回る。
彼女は右腕を頭の上に上げて、じりじりと身体を捩じる。
「……ああ」
彼女の顔が桃色に染まっている。まるで雲の上を歩いているように、ふわふわとした表情だった。二人だけの空間に、彼女の息遣いだけがこだまする。
ふいに乳首を摘んだ。すでに固く勃起している。それをたんねんに転がしていく。
「ああ……ン」
思わず、その手首を掴んできた。
「止めて欲しいのか?」
彼女は、いやいやと駄々をこねるように首を振る。そして、ゆっくりと手を離すと、そのまま自分の腰へと添える。
乳首を口に含んだ。
「ンン……ン」
彼女の身体が悶えて、じわじわと足が開いて、美しい瞳を滲まれながら、淫らに鼻を鳴らした。
彼女の肉体が、火が付たように熱くなっている。
その火照った肌を手が滑り、ゆっくりと下へ伸びていく。
「アアア……うううッ!!」
臍から股間へ指が這う。
柔らかい亜麻色の恥毛の茂みに続いて、ディーテの熟した女の裂け目がある。雪肌の太腿と色の境目はなく、まるで薄い唇のような割れ目にまでその白色は至る。そして、薄い襞の間は桜色に濡れ光っている。
その指の癇癪だけで、彼女は、がっくりと全身から力を失っていく。
二人は貪るように口付けをかわす。それは野獣そのものの欲望に狂った姿だった。
今の二人に前戯は不要だろう。
彼女は、残っていた衣服を脱ぎ捨て、自ら進んで膝の裏を掴んで、脚を高く振り上げてV字型に開く。
それに応じて、上着を剥ぎて、洋袴を脱ぎ捨て、そして、先端を熱く蒸れた膣口へと押し込んでいく。
「ひッ……あぁぁあぁ……」
ディーテはそれだけで、恥も外聞もなく喘ぐ。
その貌は、欠けたパズルのピースを填めたように満足そうで、水漏れの隙間を埋めたように安心そうであった。
まさに仕立てられた剣と鞘のように、ぴったりと合致している。
挿入で秘肉を抉られると、
「あうん!」
くぐもった声で喘ぎ、
急所を引っ掻くように抜くと、
「ひぃああん!」
甲高く喘いだ。
「ああんっ…だ、だめぇ……すごっ……すごい……こ、壊れちゃう……」
神経が灼き爛れたように、身体を痙攣させる。
「もう……もうダメ、もうダメ……よ」
一突き毎にますます瞳は焦点を失い、口はだらしなくパクパクと蠢き、そこから涎すら零す。
「うっ、うっ、あぅわ……」
その雫を舌で掬い上げて、きつく抱き締める。ディーテの燃える裸体が、肌に心地よい温かさを伝えてくる。それは凍て付く心を優しく解かしていくようだった。
「あっ、あっ、あっ……」
繰り返すピストン運動に従って、彼女は糸の切れた人形のように、短い喘ぎを上げ続ける。
「ディーテ……」
「シン……」
感極まった二人は、下半身で繋がりながら、熱く見詰め合う。そして、再び唇とぴったりと重なり、濃厚な口付けを始める。
二人は舌先を出し合って、淫らに絡み合わせる。唾液と唾液が混じりあい、唇の端から零れ落ちていく。
じゅるる、ずるる……。
それを彼女は、甘く喉を鳴らしながら啜り上げる。
彼女を膝の上に乗せて向かい合いながら、下からしゃくり上げる。
「これ……これがいいのぉ!!」
甘美な悦びに、顔を蕩けさせている。
それに彼女は、鍛えぬかれた大胸筋に乗った綺麗なお椀型の乳ぶさを、突き上げに合わせて揺らす。
「ああ……ヘン…変になっちゃう……」
彼女の頭を両手で挟み込みながら、歯と歯がぶつかるほど強く唇を押し付ける。そして、白い陶磁器に艶やかに朱の差した頬を舐め尽していく。
彼女は逆上せたように、そのまま後ろに倒れていく。それを支えながらゆっくりと机の上に寝かせて、細い滑らかな首に舌を這わせていく。
「うああん……うん……」
その間も、下半身では粘膜を固い熱棒で、情熱的に抉られ続けている。彼女は卑猥にその長い脚を、腰に巻きつける。
「あっ、ああっ、シン……あたし……あたし……」
次第に、二人は極限まで昂っていく。
「このまま中に……ちょ、頂戴……」
潤んだ美しい瞳で、ディーテが媚びる。
「ああ!」
「アアア……うううッ!!」
そして、爪先を突っ張らせ、背中をそり、呑み込んだ男根を締め付け、美しい肢体を痙攣させながら絶叫した。
「あなたが言っているのは、立派な娘は姉のことね」
胸の上に顔を乗せて、彼女がやや苦笑して言う。
「そうなのか?」
「ええ、姉は何でもできる。体格もよくてすぐに門下の男どもより強くなった。顔も華やかでいつも人に慕われていた。父の期待にもこたえていた。姉に比べて、私は何をやっても地味。何とか頑張りたくてここに来たのに、迷うばかり……」
心を晒すディーテを愛おしく抱いた。
「俺と君は似ている」
「あなたと私は、似ているわ」
彼女も、この戦場で大きな心の傷を背負い、己の小ささに打ちひしがれたのだろう。二つの未熟な魂が、今一つになっていく。
「俺はサリスを捨てる」
「私もビルンタールを捨てるわ」
「出来上がった和平調印書をそれぞれの陣においてくるんだ。あとは信頼できる者に任せればいい」
「うん、分かった」
「そのまま二人で逃げよう」
「うん、一緒に行くわ」
「誰も知らない世界へ行って、二人だけで生きていこう」
「うん、素敵ね」
二人は延々と体位を変えながら、交わり続けた。そして、いつの間にか朝を迎えていた。
ディーテは組み伏せられて、顔中を汗で濡らしながら、喜悦にむせている。
ぼんやりと天井を眺めていると、溶けた雪が清らな滴なっていた。そこに朝陽が差し込んで、言葉では言い尽くせないほど美しく輝いていた。
「きれいだ……」
思ったままに、そう呟く。
翌日、ビルンタール軍は一方的に、停戦を宣言した。
「和平が成立した、とルーテルと言う女が言い回っているぞ」
報告を聞いて、サリス軍上層部は、皆、憮然としている。
「兵の士気を下げさせ、追撃の手を緩ませる策ではいだろうか?」
参謀長が言う。
「……」
彼らに背を向け、黙って、ビルンタールのある空を眺めた。
――これが君の答えか……。
彼女は、結局ビルンタールの騎士として人生を選んだ。責められるものではない。責任ある大人として当然の決断であろう。
斥候の報告では、彼女が先頭になって市民をウェーデリア山脈へと導いているらしい。
――ならば、俺も責任を果たそう!
「契約したのは私だ」
オーディン旗の下に立って、意を決して叫ぶ。
「何を?」
「なぜ?」
上層部の面々が、気色ばんでいる。
「ガノムの内乱を速やかに終わらすためだ」
誰も納得しない。しかし、予定のうちである。
「これはディーンの決定である」
伝家の宝刀を偽物が抜いた。オーディン旗を右手で持ち上げる。肌を切るような冷たい風に大きく翻った。
「ディーンが下した約束を反故にしろ、と言う者がいるなら、前へ出ろ。ディーンの名において、成敗する」
左手で鯉口を切る。
「……」
誰も反論する者はいない。出来るはずがない。もちろん、初めから分かっている。
「ディーンを代表して、厳命する――」
一同を見渡して、激しい口調で言った。
「市民に手を出すな。全員無事逃がせ」
「御意」
秋月が、すぐに跪いて同意の声を上げる。
それを見て、ぼちぼちと不揃いに将軍たちは頭を下げていく。
数時間後、ビルンタール市民の姿は山麓に消えた。
「将軍」
上座に坐して、ずっと沈黙を守ってきたが、斥候の報告を受けて、屈強な武将を一人呼んだ。彼は不服そうな顔を向けてくる。
「あの丘の上に兵を伏せろ」
「え? 逃がすのでは?」
「必ず、敵は奇襲してくる。この旗を目掛けて」
それが彼女から学んだ、ビルンタール騎士の精神である。
「敵の半ばを通した後、その腹を襲って、後続を絶て」
「はい」
「他の武将も、所定で伏兵せよ。だが、決して、その進撃を阻むな。敵の最も鋭敏な剣先は、この俺が受け止める!」
「御意」
軍議を終えて、諸将が出撃する。
「すまんな、秋月」
傍らで、秋月が無表情に立っている。
「まあ、仕方ありません。貴方はディーンなのですから。しかし、ユリウス殿下の若いころに比べれば、まだまだかわいいものでしょう」
思わず振り返って、その顔を見上げる。だが、その顔からは、冗談なのか本気なのか、全く読めなかった。
そして、夕暮れの中、サリス軍の諸部隊が本陣を離れて行くのを見届けたように、森の中から、ビルンタール軍騎兵が突進してきた。
予定通りに、その中腹に、最初の伏兵が、突き刺さる。さらに、左右から伏兵が幾度も襲いかかる。
だが、その勢いは止まらない。まさに一本の矢となって、オーディン旗へ向かって突き進む。
ついに一騎が、木の柵を飛び越えて、本陣の中に飛び込んできた。着地で馬は倒れ、騎士も転がったが、槍を離さない。すぐに立ち上がり、まっすぐ走ってくる。
「カスパー・アウツシュタイン、見参」
「……」
椅子に背筋を伸ばして座り、刀を杖代わりにして、じっと彼の雄姿を見詰める。
「その首、貰い受ける!」
この世で最も鋭い槍の衝きだった。
それを鞘に収まったままで、受け止める。
「無念ッ!」
直ちに、そのビルンタール騎士の体に、無数の槍が突き刺さった。
「カスパー・アウツシュタインよ。その雄姿を称えよう。そして、その名をこの胸に刻もう。」
死にゆく男を見据えて、徐に立ち上がる。
「貴公は俺より、勇猛さで優り、決断で優り、武芸で優った。だが、この旗に負けたのだ」
頭上のオーディン旗を指差す。
「闘神オーディンの偉大なる精神、常勝不敗のディーンの伝統、そして、この旗の下に集った猛者の忠誠心に敵わなかったのだ!」
全戦場に聞こえわたるように喚いた。
――ユリウス殿下、これが私の恩返しです。精一杯ディーンを称えましょう!
「……」
ビルンタールの騎士は、何か言いたそうな顔をしたまま、息絶えている。
「丁重に葬れ」
そう言い残して、天幕の外へ出た。
眼前には、雄大なるウェーデル山脈が横たわっている。
何たる巨大さだろうか、天も地も隔てている。人が越えられる筈もない。人の身の何と小さいことであろう。人の心の儚さを想い、熱い涙を流す。
もし叶うならば、この肉体の灰をあの一部に捧げたい、と痛切に思った。
こうして、ガノムの内乱は終わる。
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