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□ 秒速5センチメートルの2次創作 □

俺的時速5キロメートル

俺的時速5キロメートル


「あのすいません……」
 階段の踊り場で、私は制服姿の女性に恐るおそる声をかけた。都会の人に慣れるには、もう少しかかりそうだ。
「はい」
「作詞教室の部屋はどこでしょうか?」
「奥から二番目の部屋です。もう時間ですから、お急ぎ下さい」
「あ、ありがとうございました」
 私はコットンバックを肩に担ぎ直して、一段ずつ階段を上った。
 この日、私は区民会館の2階に初めて上がった。ちょっとした公共施設を使う上級者気分で、やってきたのだが、故郷の公民館とは規模も人の多さもまるで違い少し戸惑っている。
 催し物ポスターがたくさん貼られている廊下を進む。確かに文字は日本語だし、イラストなども見慣れたものなのだが、なぜかどれも異世界の文化のように感じられた。そんな大冒険気分で、ようやく目的の場所に到着した。
 ドアを静かにそっと開けると、もう生徒たちは皆席に着き、初老の講師が、テキストのプリントを配っている最中だった。
 教室の中は、なぜか空気の密度が濃いようで、踏み込むのに、ちょっとした勢いを必要とした。
 生徒たちが一斉にこちらを見た。途端に、全身に緊張がみなぎってくる。肢体の感覚が淡く、ふわふわと宙に浮いているようだったが、指先だけが奇妙に焼けるように痛い。視野がとても狭くなっている気もするし、視点も人の顔を外れて床や壁なの無機質な物ばかり追いかけているようだった。
 私は、一度も転校というものをしたことはないが、たぶんこんな感じなのだろう。
「あのぅ遅れてすいません」
「構いませんよ。さあ、空いている席にお座りください」
「すいません……」
 講師の口調は柔らかい。それに少し緊張を和らげつつ、その彼が指差す方向へまっしぐらに進んだ。窓際の大きな柱の横の席が一つ空いている。
「どうも、よろしくお願いします」
 長テーブルに三つ席があり、隣とその奥の女性に、それぞれ軽く頭を下げてから座る。
「こちらこそよろしく」
 屈託のない笑顔で挨拶を返された。
 二人とも、洗練されていて、とてもきれいな女性だった。
 隣の人は、髪の先は少しカールされて、おしゃれな眼鏡をかけて、物静かな雰囲気をしている。もう一人は、白いワンピースにピンクのカーデガンを羽織った、長髪の女性で、とても清楚に感じられた。
 これが、都会の標準ということなのだろうか?
 何もかも気おくれしてしまう。
「じゃ、始めます。お配りしたテキストを見てください」
 配られたプリントには、有名な歌の歌詞が書いてある。講師は、その意図などを説明し始めた。私は慌てて上着の胸ポケットに手を当てる。いつも仕事の時はそこにペンを刺しているのだが、今は当然私服なのである筈がない。
 筆記道具がない。
 軽いパニックである。
「よかったら、使って下さい」
 隣の眼鏡の女性が、透かさずそっと鉛筆を差し出してくれた。
「あ、ありがとうございます」
 いい人の隣でよかった、と心が和んだ。
 この後、この三人はグループとなって、協力して歌詞の一部を考えることになった。講義が終わるころには、本当に仲が良くなっていた。
 私たちは、場所を近くの喫茶店に移して、さらに親睦を深めることになった。


「夫が仕事で忙しく、一人で部屋にいても暇だし、文学とか好きだからやってみようかなぁと思って」
「仕事だけじゃなく、前向きに世界を広げようと思って」
 二人が教室に通い始めた理由を簡単に言ってから、紅茶を口に含んだ。
「私は……」
 喋り始めると、軽く照れが生じて、少し赤くなった頬を掻いている。
「夫が……」
 向かいに座る清楚な奥様の言葉を真似てみる。言いなれない表現に、さらに恥ずかしさが増す。その反動で、逆に早口に喋り出してしまう。
「頭は理系なんですけど、心が詩人というか、なんかそんな感じなんですよね。桜とか雪とか、きれいな風景を見るのが好きで、ちょっとポエムっぽいことを呟いたりするんですよ。だから、少しでも、私、理解できればいいなぁと思って」
「へーえ」
 二人とも興味を持ったらしく、ソーサにカップを戻して、柔らかな瞳をこちらに向けてくる。
「すてきなご夫婦ね」
「はは」
 すぐに否定するべきなのだろうが、思わず目を細めて、男の子のようなショートボブの髪を掻いていた。
「ラブラブなんですね」
「最近知り合われたのですか?」
 二人には、発展途上のカップルに思えたのだろう。
「えっ!? あっ……」
 一瞬胸の急所を刺されたように、どきりとなった。そして、顔を伏せて蚊の鳴くような小さな声でささやく。
「そ~のぉ、私の初恋なんです」
 その瞬間、二人は本当に意外そうな声を発した。正直、いつもの反応だ。
「……珍しいですね」
「でも、すごくすてき……」
 私は顔を伏せたまま続ける。
「みんなから言われます。初恋の神とか鬼とか」
 二人の親友たちに電話で報告した時、まるで狐につままれたような頓狂な声を上げられた。
『寝ぼけているの?』
 などと呆れられたが、真実だと分かると、『初志貫徹かよ』
『神様って本当にいるんだ』
 と妙な感心をされた。そして、子供のようにはしゃいだ声で喜んでくれた。思い出すたびに温かい気持ちになれる。
 また、彼が島に来た時に姉は、
『絶対に帰すな。教員免許を持っているなら学校に押し込めばいいし、なければ、一日中サーフィンでもさせて、あなたが養いなさい』
 と鼻息荒く言った。今回の姉の後押しばかりは、感謝してもしつくせない。
 しかし、結婚式で、
『黒魔術だ』
『呪いだ』
『新郎さん逃げて』
 などとか揶揄されたときに、思わずガッツポーズしたのは、失敗だった。
 さらに、義理の兄が学校でペラペラしゃべるものだから、如何にも純情そうな少女が、「お守りとか譲って下さい」とやってきたのには、困り果ててしまった。
 でも、私も同じようだったかもしれない。学生時代の彼の姿が目に浮かんだ。
 それから、ふと彼が一人メールを打っている姿を思い出した。
 最近、実は誰にも送信していなかったと聞いて、彼の孤独をようやく理解することができた。本当は誰かと感動を共有したかったのだろう。でも、あの島には、そんな繊細な感覚の人間はいなかった……。
 そして、なぜ気づいてあげられなかったのか、嫌っていうほど後悔した。だから、私は今日ここに来た。
「おに?」
「え、私、彼、夫が中二の時に東京から転校してきたときに一目惚れしちゃって……、それ以来ずっと好きだったんだけど、告白できなくて、それでやっと彼が東京の大学に進学して島を離れるときに告白することができたんですけど、あっさりふられちゃって……」
 あの頃のことを思い出すだけで、胸が締め付けられる。
「それで?」
 まだ肝心の部分を説明していないので、私の告白の時間は終わらない。
「あ、10年後ぐらいに、偶然、東京で再開して、それで付き合うようになったとうか、なんというか……」
「10年!」
 二人とも目を丸くしてこちらを凝視している。当然のことだろう。
「ずっと会っていなかったの? 一度も?」
 長髪の女性が、やや身を乗り出して、信じられないという面持ちで聞いてくる。
「ええ、まぁ」
 自分のことながら気恥ずかしい。
「……」
 眼鏡の女性は、口を噤んで、じっとゆれる紅茶の水面を眺めている。誰かを思い出しているのかもしれない。これだけ魅力的な人だから当然かもしれない。
「あるのね、そんなこと……」
「ちょっと驚きました」
 二人は、遠くを見るような目で呟く。
 驚かれることには慣れているけど、彼女たちの反応は少し独特な感じがした。強い切なさが含まれている気がする。
 なぜか、おかしな空気になってきたので、私は話を進めることにした。
「こちらに旅行に来て、そしたら、偶然再会したんです」
 私は二つの嘘を付いた。
 一つは、あれは旅行ではなく、当てもなく彼を探しに上京したというのが真実である。我ながら無茶過ぎると思う。だから、初対面の人たちには、ここを誤魔化すことにしている。
 もう一つは、あれは偶然ではなく奇跡だったということだ。
 私は、大都会東京のあまりの大きさに打ちのめされ、戸惑い、一人公園のベンチで佇んでいた。そして、ここは自分の居場所ではないと気付いて、帰ろうと決めた時に、突然彼が現れた。公園を散歩していたという。
 放心状態で立ち尽くす私に、彼も魂を奪われたような表情で近づいてきた。
『僕を覚えているかい?』
『もちろん』
『どうしてここに?』
『あなたを探しに』
 私は泣こうとした。でも、私より先に彼が泣き出した。この展開は予想していなかったので、思考が迷走してしまって、思わず泣きそびれてしまった。と思っていたが、彼に言わせるとしっかり私も泣いていたらしい。記憶がはっきりしないぐらい、この奇跡の発動に、私はすっかり動転していたのだ。
 彼は会って謝罪したかったと言った。私が「何を」と返すと彼は口籠ってしまった。上手く説明できないと囁いた。それでも、何とか私に伝えようと時間をかけて話してくれた。
 想い出の一夜、自分の分身のような人、自分が目指した高み、そして、私への接し方などを全部ではないだろうけど、今も少しずつ話してくれている。
「何か約束があったの?」
しばらくの沈黙のあと、眼鏡の女性が小さな声で聞いてきた。
「何も」
 強く手を振る。
「私、完全にふられましたし、夫も種子島に返ってくる気がなかったですし」
「え!?」
 二人の女性が、一斉に顔を上げた。それから視線が泳ぎだし、口の奥で、私の発した単語を幾つか反芻しているようだった。
「ずっと好きだったの?」
 躊躇しながら、低い声で長髪の女性が聞いてきた。
「永遠に会えないかもしれないのに?」
「ただほかの人とじゃ、ドキドキしなかっただけです」
 耳まで真っ赤になっているのが分かる。恥ずかし過ぎる。これは拷問だ。
「彼……ご主人も、そんなに思われて嬉しかったでしょうね……」
 そう言って長髪の女性は口を噤んでしまい、自分の指を見始めた。何か琴線に触れることがあったのだろう。
「どうなんでしょう」
 改めて客観的に考えると、一歩間違うと危ない奴のような気がする。でも、本当に心がときめかなかった。いいかなぁと思う人とデートを重ねるごとに、冷めていく自分を自覚した。一言ひとことの反応に若干の違和感があり、それが積み重なって、最後には関心さえも薄れていった。
 違和感の正体は、次第に分かってきた。「彼とは違う」「彼ならこう言う」などと知らぬうちに比べていたのだ。そして、徐々に新しい出会いを自分から求めなくなり、自然の流れに任せようと思って、あっという間に10年が過ぎた。
 これは、高校時代の彼も同じようだったと最近聞いた。
『初恋の彼女と気持ちが離れたのは仕方がないことだった。元々転校生という共通点から始まった関係だったから、中学高校と環境が変わって行けば、想いも悩みも変わっていく……。だけど、だからこそ、あの日あの美しい想い出をくれた彼女のためにも、誇れるような男になりたかった……』
 今の彼は、決して見せることのなかった心の奥を開いてくれる。それだけで、涙が出るぐらい嬉しい。
『ただの高校生の僕には何も誇れるものはなかった。その上に、ちゃらちゃらと新しい彼女を作ったりしたら、それは、あの奇跡の一夜への裏切りに他ならない。そんな僕を見たら、きっと彼女は幻滅してしまうだろう。何よりそんな僕を自分自身が許せなかった。だから、別の人を好きになることは負けだと思った』
 これが私を拒んだ理由らしい。一緒に帰宅するのは楽しかったし、犬をかわいがる私をかわいいと、そして、ロケットの貨物車の速度を言った私を、すてきだと思っていたらしい。
 でも、東京の大学に進学したことで、気持ちに変化が訪れた、と彼は言う。
 ほんの一段だが、高く昇れたことで、自分に自信が持てた。それで、すべて自然の成り行きに任せようと決心したらしい。
『もし彼女と再会したなら、あの奇跡の一夜の続きではなく、全く新しい二人として、別の関係を始めよう』
 しかし、大学生時代に、二人は再会することはなかった。
 社会人になると、再び状況は変わる。自分を代わりの利く単なる社会の消耗品、つまり歯車の一つと自覚した時から、誇れるものを見失ってしまった。
 日常の中で、ついつい目で彼女を探してしまう。それは大学時代と違い、高校時代の感情に近かったろう。再開への怯えだ。
『こんな事では……、まだ彼女に会えない。もっと頑張れないと……、でも、どこへ向かって頑張ればいいんだ……』
 その思いによって、彼の心は摩耗していく。
いつしか、何のために努力し続けているのかさえも、すっかり分からなくなってしまっていた。そんな心に、当時付き合っていた彼女の声が突き刺さる。
「きっとうれしかったと思いますよ」
 眼鏡の女性の優しい声で、私は、思考の世界から戻ってこられた。
「でも、ちょっとお二人の感覚とは違うかも。夫は、転校が多かったから、どこか仲間になりきれないという、ずっと孤独を感じていて、それで強さを求めるようになって……何というのか一人でもいいみたいなぁ……」
 難しくて、上手く説明できずに、思わず首をひねってしまう。そこに眼鏡の女性が助け舟を出してくれた。
「……大切なことを信じ続ける強さ、とか」
「そうです」
「私の中に、そんなものを感じたみたいなんです」
 彼は泣きながら、何度も何度も、君のようになりたかったと叫んだ。私の中に、長年求めていた答えを見つけたとも言った。私にはよく分からない。彼はいつも私の遥か頭上に存在している。
「そう、よかったね」
 声は私を通り過ぎて、どこか遠くへ向かって発せられたようで、とても意味深だった。女を長くやっていれば、誰でも見えない傷をたくさん作ってしまう。私とてその例外ではないのだから。いつか彼女の話も聞きたいなぁと思う。
「お二人の高校生活ってどうだったの?」
 今度は長髪の女性が、視線を落としたまま、ティーカップを何度も指先で撫でながら問う。「私はサーフィンばかりしたかな」
 彼を毎日のように待ち伏せしていたことは隠しておこう。
「ご主人は?」
「夫はどうだろう。部活とか勉強とか頑張っていたけど、今振り返ると、相当無理していたんだろうなぁと思う」
「……」
「ずっと種子島は自分の居場所じゃないと思っていて、ここにしがらみを残したくなくて、心を閉ざした生活していたって」
「そう……」
 まるで長髪の女性は、自分のことのように悲しい声で呟いた。
「それ分かるかも。私も引っ越しが多かったから、なかなか自分の居場所が見つけられなかった……」
「ええ、夫も同じようなこと言っています」
「そう……同じなの……」
 長髪の女性は、紅茶で口を潤した。そして、静かな口調でゆっくりと続ける。
「私は大学に入って、帰省した時に、ああここが私の故郷なんだって思ったの。風景の一つひとつに忘れられない想い出とか悲しい気持ちとかがあって、それが積み重なって今の私を作っているんだと思えて、私は少しずつ変わって行けたと思うの」
 長髪の女性の言葉を聞きながら、この人は彼と似ていると感じていた。そして、私は彼との記憶へ誘われる。
『待って』
 羽田へ向かうバスに乗ろうとする私の腕を、彼はいきなり掴んだ。コンクリートで囲まれた空間に響く彼の声は、とても冷え切っていた。驚いて振り返る私の瞳に、彼のとても切ない瞳が映る。
『……』
 長い沈黙が続いた。結局彼は何も言わなかった。もし、彼に帰らないでほしいと言われたら、私はどうしただろうか……。ここは私の居場所ではない。それは今日はっきりわかった。
『やっぱり羽田まだ送るよ』
『そう』
 それでも、少しがっかりした。
『今度は僕が種子島へ行く。カブにも会いたいしね』
『ええ、待っているわ。じゃ』
 そう言い残して、彼に手を振り、私は搭乗ゲートをくぐった。清潔で無機質な長い廊下に、私のバックのキャスターの音がこだまする。
 でも、だって、ここは……。
 ああ、あの時の彼もこんな気持ちだったのだ……。
 何となくだが、種子島を離れる時の彼の気持ちが理解できた。その瞬間、私は居ても立っても居られなかった。バックをかなぐり捨てて、彼のもとへ走った。そして、迷わずその胸に飛び込んだ。
 その夜、彼の部屋のベッドの上で、私はとろけた。
『僕は島にいたころ、何度も初恋の女性の夢を見た。彼女は幼く、いつも、寂しいと一人で泣いていた。僕は彼女を島で一番きれいな場所へ連れて行った。でも光が差した顔は、僕自身だった』
 私の胸に顔をうずめて、彼は告白する。膝を抱えて丸くなった姿は、まるで迷子の子供のようであった。
 また新しい彼を発見して、また私はいっそう彼をどうしようもなく好きになる。
『僕は誰も信じてこなかった。クラスメート、部活のメンバー、大学の研究室の仲間、そして、苦楽を共にした同期達にさえ、本音を隠して、理由もなく裏切ってきた。彼らは一度たりとも僕を裏切っていないのに……』
 私の肌に、彼の涙が落ちてくる。そして、彼の嗚咽が私の小さな胸の谷間にこもる。
『あなたの子供の頃の夢って、宇宙飛行士だったでしょ?』
 私の言葉に、彼は涙にぬれた顔を上げた。
『だって、ロケット関係のものを見るあなたの目ちがっていたもの』
『……』
 彼は言葉を飲み込んで、まじまじと私を見つめる。
『おかしいだろ』
『すてきだよ』
『……』
『みんなもそうよ』
 私は彼の頭をそっと抱いた。
『みんなも分かっているわ。あなたは、責任感が強いのに繊細で、万能そうに見えて実は不器用だったりするのを――』
 優しく髪を撫でる。
『みんな知っていて、あなたに近付きたいの。あなたの友達になりたいのよ』
『……う、うん』
『あなたは、今のあなたのままでいいの』
 彼は号泣しながら、私を強く抱き締めて、耳元でありがとうと囁いた。私はその瞬間、自分のすべてを彼に捧げようと誓った。
 カーテンの隙間から差し込む月の光が、私たちを優しく包み込むようだった。
 でも、
 今朝彼は、私にこう言った。
『奇跡って、吊り橋みたいなものだよね』
『何、それ?』
『困難で危機的状況を乗り越えた後ほど、感情は燃え上がるってことさ』
『ふぅーん』
『俺たちも変わるのかな?』
 彼は、私の作った朝食のご飯粒を口元につけて言っている。
 しかし、私には、何の効果もない。なぜなら、私は高校生時代、この人と会うために、吊り橋どころかタイトロープの上を毎日歩いたのだ。それでも、昨日より今日、今日より明日と、毎日好きな気持ちが更新されていく。
『私たちは――』
 私は彼の口元のご飯粒を取り、それを口に運んでから言った。
『大丈夫よ、私たちは』
 私たちはたくさんの傷を負ってきたのだから……。
『そうかな?』
『そうよ』
 彼は屈託なく私に微笑む。そしてまた私は彼の虜になる。


「ずっとこちらなの?」
 私たちは喫茶店を出た。
「え、東京で暮らす経験も面白いかなぁと思って、こちらに来たけど、彼は、子供は種子島で育てたいと言っているんです――」
 自然と手を腹部に添えている。
「故郷を作ってあげたいって」
「そう、いいと思うわ」
 長髪の女性が、髪をかき上げながら、とてもきれいに笑った。
「じゃ、私はここで」
「え、それじゃ、また来週」
 眼鏡の女性が、別れの挨拶をすると商店街を逆方向へ歩き出した。紺色のジャケットの背中を見送っていると、彼女は自分の頭を軽く小突いた。微かに「もっと女子力磨かなくちゃ」という声が聞こえたような気がした。都会の働く女性は複雑である。この詳細もそのうち聞くこともあるだろう。
 残った二人は歩いて桜の木の下まで来た。
「この桜、咲くときれいだそうですよ」
「ご主人が?」
「ええ」
「そう」
 その時、私の携帯が鳴った。彼からである。
私は彼女から少し離れて電話に出た。内容はお腹がすいたから早く帰ってこいというものだった。分かったと答える私に、「今日は何」と質す彼。私はトマトのパスタだと教えてやった。またトマトと子供みたいにすねる彼。もっとしっかりしてもらわなければ困る。
「トマトは頭の回転にいいのよ」
 しっかり稼ぎなさい。そんな気持ちを込めて、きっぱり言う。
『そうかなぁ?』
 一瞬、電話の声と隣の彼女の声がシンクロして聞こえたような気がした。私は驚いて彼女を見ると、彼女は穏やかな表情で桜の木を見上げている。
「そうよ!」
 私は彼に告げてから、電話を切った。
「私もここで失礼します。また来週よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
 私たちは頭を下げ合った。いい友達ができて、本当にいい日だと思った。いつか彼や彼女たちとこの桜を見られたらいいなぁと思った。
 そして、私は踵を返し、愛する彼のもとへ走り出……、走り出しそうになって、慌てて足を止め、今度はゆっくりと歩いて坂を下りていく。
 その私の脇を赤いランドセルを背負った少女が駆け抜けていく。私が横を向くと、その少女の後ろを「危ないよ」と言って、黒いランドセルを揺らして少年が走っていった。
 長髪の女性が桜の木の下から、
「がんばれ、小さなナイトさん」
 と声をかけている。
 私は微笑み、彼女にもう一度頭を下げた。
「お幸せに」
 彼女はそう言って別方向へ歩き出した。
 すぐ近くで、踏切の警報音がなっている。それは彼が甘え強請る時の声に、なんだかよく似ているような気がした。
「はいはい、ちょっと待っていてね」
 駄目だと分かっていても、自然と私の足は、早くなる。

終わり
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Date:2013/01/08
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