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第二十三章 暴虎馮河

第23章 暴虎馮河


【神聖紀1224年7月、カッシー】
 カリハバール軍の奇襲を受けて、約一週間の間に、カッシー付近のアルティガルド軍の城は、次々と攻略された。その状況下で、アルティガルド軍クラウス・フォン・アウツシュタイン大尉は、150名の兵士とともにグレヴィ出城で篭城を続ける。
 グレヴィ出城は、低山の山頂に備蓄されている物資を守る為に、その尾根に築かれた「土の城」である。大規模な遠征で、築城に関わる技術者が不足している為、石垣ではなく土塁と空掘で構築されている。
「援軍あるまで、貴重な兵糧を守り抜く!」
 少壮気鋭なアウツシュタイン大尉は、動揺する兵士を激励して、城を守り抜く強い決意を伝える。
 瞬く間に、カリハバールの大軍が出城を包囲する。指揮するのは、皇太子バヤジットであった。
 アウツシュタイン大尉は、どんな時でも、任務に誠実であろうとした。少ない予算と工期の中で、最大限の工夫をこらす。まず、丸馬出しを堀の外側に突き出すように築いて、次に、その背後の曲輪に櫓を配した。こうして、単純だが堅固な構えを作り上げる事が出来た。
 バヤジットは、丸馬出しに対して、三方向から矢を射掛けて牽制すると、盾を持った兵に梯子を掛けて、突入を試みる。
 一方、アウツシュタイン大尉は、丸馬出しの土塁の背後に弓隊を配置して、執拗な射撃を行い、さらに、背後の櫓の上からも長弓で援護させた。そして、時には自ら土塁の上を走って、梯子から侵入しようとする敵兵に、長剣を振るった。
 アウツシュタイン大尉は南陵紫龍流の達人である。
 南陵紫龍流はその剣の素早い返しに特徴がある。その速さは、鋼の剣が竜の首のように曲がって見える程で、技を極めると真空波すらも作り出す。その真空波が、幾度も梯子を切断、空掘の底へと、突撃兵を墜落させた。
 こうして、アウツシュタイン大尉の奮戦もあり、カリハバール軍の総攻撃は三度はね返された。

 攻めあぐねるカリハバール軍は、セリム1世自身が前線へ出て来る。
「こんな小城に何をしている。別働隊で斜面を迂回して、城の側面を攻撃しろ」
「足場が悪い。反撃を受けたら、全滅です」
 父の言葉に、即座にバヤジットは反論した。
「戦場で死を恐れて、勝てるか!」
 セリム1世の罵声が、唾とともに飛ぶ。
「……」
 苦虫を噛み潰した顔をして、バヤジットはそっぽを向いた。
「突撃部隊は、お前が選抜しろ!」
「なっ!」
 愕然とするバヤジットを完全に無視すると、冷然とした声で、セリム1世は「下がれ」と命じた。
「お気にめしませぬか?」
 入れ違いに、レイスが天幕の中に入ってくる。
「……まだまだ甘いようだ」
 セリム1世は、溜め息混じりに答えた。
「まだ、お若い」
「これまで、守役のハッセムに頼り過ぎた所為だろう」
「生殺与奪の権を前にして、全く臆しない君主では、逆に心配でありましょう。これからです」
 レイスの言葉に、セリム1世は椅子に凭れながら、小さく舌打ちをする。
「ハッセムはどうしている?」
「もはや剣は持てますまい……。願わくは、ランスで後方の指揮をしたいとの事」
「そうか……。あの馬鹿息子が不甲斐ないばかりに、臣下に苦労を掛ける……馬鹿者がァ!!」
 セリム1世は、怒気とともに、机を強く叩く。と、筆記道具や書類などが、勢いよく転げ落ちて、レイスは思わず苦笑いする。

 翌朝、徹夜明けのバヤジットが、赤い目をして、作戦案を持参した。だが、思いもよらず、事態は一変していた。
「和平ですか?」
 思わず声が上擦る。
「ああ、昨夜アルティガルドの使者が来た」
 セリム1世は簡単に答えると、まず座れ、と命じた。
 天幕の中は軍議を開くべく、何列も椅子が並べられていた。その最前列に、レイスと参謀が数人座っている。
「どう言う事?」
 空いた席に座り、隣のレイスへ裏返った声で訊ねる。
「城内の将兵を解放する事と、兵を一旦バビロン(ランス)へ引く事を要求しています。代わりに、バビロンの領有を正式に認め、さらにアーカスの処置について口を挟まない、と言う申し出です」
「馬鹿な。セリアは目前と言うに、今更バビロンやアーカスなどと……」
 即座に、バヤジットは吐き捨てる。
「古来、『約無くして和を請う者は、謀りなり』と申します。我らの油断を誘うものでありましょう」
 レイスの進言に、セリム1世は頷いた。
「そうだな。恐らく時間稼ぎであろう。だが、こちらもバビロンからカッシーまで、伸び切った戦線を再構成する事ができる」
「お受けになるのですか?」
 バヤジットが目を剥く。それを無視して、セリム1世は語り続ける。
「取り敢えず、条件を付け足そう。アーカスだけでなくシデとサイアも要求しろ」
「火種ですね」
 透かさず、レイスが北叟笑{ほくそえ}む。


【セリア】
 7月に入って、ヴィルヘルム1世はようやくセリアに辿り着く。そして、“テルトレ仮王宮”に入った。
 サリス帝国歴代皇帝が生活した、ルミナリエ宮殿は予想以上に傷んでいた。戦火で多数の建物が焼け落ち、無法な略奪もあって、もはや往年の面影は残っていない。そこで、改修に留まらず、新皇帝戴冠式を行う、巨大な広間を持つ本館などを初め、大宮殿新築計画が始まっていた。
 この計画は、アルティガルド風の合理的な配置に、全体を豪壮な装飾で覆うもので、完成すれば、史上最大の規模となる。また、外壁を飾る、ステンドグラスや彫刻の細工の細やかさは、「見た者は思わず、ご苦労様です、と頭を下げる」という冗談が広まったほどである。
 その建設の喧噪からそう遠くない、北のテルトレ森の中に、古い館がある。元々はナバール男爵家の邸宅で、その後は、セリアを支配したグザヴィエ将軍が本拠とした。薄い黄色の、小ぢんまりとし館で、清楚な貴婦人を連想させた。
 ヴィルヘルム1世は、玉座に座るなり、突然{いきなり}、ベレンホルストを怒鳴りつける。
「ベレンホルスト、勝手なマネをするな」
「勝手とは心外です。これは王国を第一に考えた上での策ですぞ」
 ベレンホルストが舌鋒鋭く返す。
 彼は、オトフリート2世、フェルディナント3世、そして、ヴィルヘルム1世と三代に仕えた、老獪な宮廷政治家である。鷲鼻が特徴的な顔立ちで、すでにかなりの高齢であったが、その眼光は些かも衰えていない。
 今大戦では、アルティガルド本国の留守を預かっていたが、ヴィルヘルム1世がカッシーへ出陣した事を聞くと、密かにセリアへ赴く。そして、敗戦の報が届くと直ちに、セリアに駐留する各国軍を動かして、カッシーからの侵攻に備えた。また、その一方で、セリム1世に和平の親書を送っている。
「余は和平など考えていない」
「方便です」
「なっ!?」
 驚き戸惑うヴィルヘルム1世に対して、ベレンホルストは顔色一つ変えない。
「まずはランスから撤退中の将兵の安全を考えるべきです。その上で、このセリアで態勢を整え直します」
「そんな事は分かっている!」
 ヴィルヘルム1世は肘掛を拳で叩く。そして、セリア帝都守備軍を指揮する、ミヒャールゼン・フォン・シラー中将を見た。
「シラー将軍」
「はっ」
 呼ばれて、シラー中将は、踵を揃えて背筋を伸ばした。
「カリハバールの戦線は伸び切っている。将軍に与えた兵をもって、これを叩き潰せ!」
 その時、返答しようとするシラー中将の前に、ベレンホルストは手を伸ばして「必要ない」と制した。
「ご推察通り、敵の戦力は長蛇になっております。しかし、カッシーでの功城戦を見る限り、精鋭は最前線に揃えている様子。迂闊に打って出るのは、またもや敵の術中にはまりましょう――」
 迂闊、という言葉が、ヴィルヘルム1世の心に、棘のように突き刺さる。
「一敗地に塗れた我らにとって、拙速は得策ではございません」
「だからこそ、一つの敗戦は、一つの勝利で補う必要があるのであろう。それでなくては、新皇帝など笑止」
 ヴィルヘルム1世は、自分が感情的になっている、と自覚していた。だが、頭に昇って行く血の流れを、どうしても止める事が出来ない。
「セリムの狙いは、速戦即決にあります。あの脆弱な兵站では、それ以外に勝ち目はありますまい。今こそ我らは守りに徹して、さらに敵の補給線に負担を掛けるべきなのです。そして、機を見てサイア、シデから反撃を行い、伸び切った補給路を切ってしまえば、この大戦は終わります」
 目を細く鋭くして、ヴィルヘルム1世はこれを聞いていた。ベレンホルストに対して含む所もあり、すんなりとは頭に染み込まない。
「宰相は他国の者をこの戦いに組み入れる事に反対ではなかったのか?」
 やや棘のある、言い方である。
「無論です。先ほど申した事は、こちらの注文。到底、セリムは乗って来ますまい。セリアが落ちなければ、矛先を変えましょう」
「なるほど、それでアーカスか?」
「攻めやすい所から攻めるのは兵法の常套。それに、ランスを守るために、背後を固めておきたい筈」
「恐い男だ」
 肘掛を数度指で叩いて、ヴィルヘルム1世は嫌味っぽく言う。
「畏れ入ります」
 不機嫌になった君主を前にしても、ベレンホルストは全く意に介していない。
「だが、シデやサイアは法外だ」
「勿論です。敵も協定通りに、手に入るとは思っていないでしょう。その程度の男なら、セリムも組し易いのですか……」
 鼻から大きな息を落とす。
 その姿を見る、ヴィルヘルム1世の目は濁り、そして、胃の底が熱く煮え滾っている。
「セリムの狙いは、サイア、シデ、アルティガルドの間に蟠[わだかま]りを残す事。何にしても、遠征軍の再編を急がなければなりません。人選リストを用意したしました。ご覧下さい」
「ふん、もう決めているのだろ?」
「……」
 ベレンホルストは言葉で答えず、やや口の端を上げて、子供をあやすように笑ってみせた。
「宰相に任せる」
「畏れ入ります」
 頬杖をついたまま、ヴィルヘルム1世は横を向いた。
――余がもう一段高みに登るには、此奴[こやつ]はやはり最大の壁……


【シデ】
 魔術通信機を前にして、マックスが耳の穴を小指で掻き、それをふーぅと吹く。
「できる筈だと言われても、現実に出来なかったんだから。あれって(精霊探査石SS51改)、やっぱ欠陥品だわ」
『ヴァカモン!! ゲホゲホッ……親の土地建物まで抵当に入れて開発した物だぞ。軽々しい事を言うな!』
「じゃ、カラスだ」
『カ、カ、カラスだとォ! ゲホゲホン……カラスに謝れ、今直ぐ謝れェ!』
「はいはい、体調悪いんだろ? 大声出すなよ」
『うるせぇえ! ゲっホンホンホン……その無駄にデカイ頭をかち割って、中身をカラスと比べて、どっち賢いか調べてやるぞ!』
「どうぞご勝手に」
『言ったな、言ったよな。ああ、やってやる。絶対にやってやるからな……ゲホゴホゴホン……』
 それを最後に、通信が切れる。
 マックスは疲れた息を吐き尽くして、後ろを振り返った。
「これでいいんだな」
「ええ」
 ややくすんだ黄金の前髪を払って、ミカエラが短く頷く。
「ちゃんとフォローしてよ」
「ええ」
 再び頷くと、落ち着き払ったブルーグリーンの瞳で見詰める。それにたじろいだように、舌打ちをして、マックスは隣のナルセスを見た。
「ああ、分かっているよ」
 戯[じゃ]れる感じで、ナルセスはマックスの肩を揉む。
「折角、精霊の波長を反転させて、人工の部分を見つけ出す、高等テクニックを開発したのに……。逆にギュスを怒らせてしまった……。採算は合うのか……」
 愚痴りながら頭を掻き毟る。そんなマックスを他所に、ナルセスとミカエラは真剣な顔で向かい合う。
「これで、ギュスも余計な事を考えないだろう」
「そうね」
 頷き合って、二人は部屋を出て行く。その後ろでは、まだマックスが、見合いの件は大丈夫だろか、と呟いている。
 ミカエラがナルセスに相談したのは、先月末の事である。ミカエラは、「カリハバールがカッシーに出払った瞬間を狙って、ギュスはヴェガ山脈に乗り込むつもりでは?」と危惧した。
 ナルセスもすぐに同意する。「今ギュスが抜けたら、シデの将兵はバラバラになる」とマックスを説得して、ヴェガ山脈で行っている精霊探査作業の遅延を報告させた。初め渋ったマックスだったが、ミカエラとの二人掛りの説得に、わりとあっさり折れてしまう。
「マックス君も役者よね」
「ああ、なんやかや言って、一番本人が楽しんでいた」
「でも、大丈夫かしら?」
「ああ、きっと殺されはしないだろう。ただ生まれた事を後悔するほど痛いだけで済む、と想うよ」
「そうよね。安心したわ」
 無責任に笑い合って、二人は廊下を歩く。

 ミカエラは情報局の施設を出た後、港に向かった。シデ港では、フリオを司令官とする第三陣が、出港の準備を進めている。
 すでに第一陣は、甘水峠の陣城を経由して、陸路マーキュリー要塞へ向かっている。第二陣は水路、エルワニュール州の州都エリプスへ移った。
 第一陣はリューフ軍務府総長が率いる主力である。甘水峠で、パーシヴァル・ロックハート奮威将軍とアレックス・フェリペ・デ・オルテガ鎮南将軍が加わっている。
 第二陣は、ティルローズ自らが出陣して、元聖騎士のロベール・デ・ルグランジェ威東将軍、ミレーユ・ディートリッシュ威西将軍、ゴーチエ・ド・カザルス威南将軍の三人が護衛を務めている。
 そして、第三陣は、フリオの従兄でもある、オスカル・ド・ヴィユヌーヴ昭武将軍が補佐している。
 ナルセスは、総帥として全軍を統括するためにシデに残る。その手勢として、フランチェスコ・ブーン揚威将軍もシデ残留組に入った。
 ミカエラは補給などの後方支援の一切を担当して、今後シデとエリプスを何度も往復する事となるだろう。
「スピノザ長官、例のファイルです」
 ミカエラが港湾の軍施設に到着すると、中年の官吏が書類を手渡す。
「ご苦労様」
 素っ気無く受け取ると、ぱらぱらと捲って、さっと目を通す。そして、一礼して席に戻ろうとする官吏を、厳しく呼び止めた。
「数字が足りません。これではすぐ補給が途絶えます。もう一度練り直しなさい」
「お言葉ですが、この数字でも備蓄庫は空になります」
「我が軍の兵に餓えろとでも言うの? それとも、略奪せよと?」
「い、いえ……」
「だったら、もう一度村々を廻って来なさい。あなた自身で、です」
「は、はい……」
 背中を丸める官吏の肩越しに、壁のカレンダーを見る。
「三日後の朝、私の机の上に訂正したファイルを置いておきなさい。出来なければ、降格では済みませんよ」
「あ…は……はい」
「分かったら、早く仕事に戻りなさい」
 きつく口調で言った後、官吏の肩に手を乗せる。
「今は非常時です。頑張りましょう」
 そっと囁いた。
 それから向きを変えて、弟フリオの事を秘書官に訪ねる。

 その頃、フリオは出陣を控えて、三番埠頭倉庫裏の小さな教会に居た。教会内部は、強い陽射しを防ぐ為に、ヨロイ戸が閉められて、真っ暗である。
 フリオは女神像の前に跪いて、一途に祈りを捧げている。その隣に、ナーディアが跪いた。
「あたしにも祈らせて」
 驚いて顔を上げたフリオに、ナーディアは微笑む。
「……ナ、ナ、ナ、ナ、ナ、ナ、ナーディ、ア、ア、ア、ア、ア」
「どうしたの?」
 フリオは涙ぐんでしまう。
「がんばれ」
 ナーディアが囁くと、そっと肩に手を添えた。
――ふるえて……いるの?
「……」
 そのまま、優しく顔を抱いて、顎を頭の上に乗せる。
「大丈夫。絶対フリオは死なないから。隕石が落ちてこようが、竜に噛み付かれようが、絶対死なないよ。あたしが保証してあげる」
「そ、そうかなぁ……」
「ええ、当たり前でしょ」
 英雄志向の強いフリオは、日頃強気な発言が多い。しかし、大戦を前にして、本音を垣間見せるフリオに、ナーディアの心がざわめいた。
「なっ、何を?」
「しっ」
 不意に、ナーディアがキスをした。ナーディアの柔らかい唇が触れると、フリオの鼓動が激しくなる。ヨロイ戸の隙間の向こう側は、強い陽射しで、幻想的に白い。その中から、働く男達の喧騒が聞こえて来る。
「これくらいしか出来ないから」
 ナーディアの頬に熱い滴が、一筋流れた。
 突然、フリオはナーディアの背中に腕を差し込み、ぐっと抱き寄せる。ナーディアの鼓動が、その控え目な胸の膨らみが、そして、甘い少女の香りが、はっきりと伝わって来る。
――血が熱い!
 体中が火照って、頭がぼーぅと逆上{のぼ}せたようになる。そして、思わず、強く唇を押し当てた。
「う゛う……痛いッ!」
 ナーディアはフリオの胸を強く押して、身体を離す。
「もう……へたくそ」
「ご、ごめん……」
「ほら、もう一度ちゃんと跪きなさい。そして、きちんと懺悔するのよ」
「は、はい」
 二人は、余りの恥ずかしさに耳まで真赤にして、無言で取り敢えず顔を下げ続けた。
 この光景を、背後の扉の影から、ミカエラが見ていた。


【メルキュール州マーキュリー要塞】
 オーギュストは感情に流されて、魔術通信機に椅子をぶつけていた。そして、破片が散らばる暗室の中を憮然と歩きだすと、突然目眩に襲われて、その場に蹲[うずくま]ってしまう。
「どいつもこいつも……」
 こめかみを押さえて、懸命に平静を呼び戻そうとする。
「ミカエラあたりの入知恵か……」
 しばらくすると、目眩が治まり、ゆっくりと慎重に立ち上がる。
「俺の心を読み切ったつもりか、生意気な……」
 そして、ぶつぶつ呟きながら、隣の自室へと移った。
「お帰りなさいませ……」
 薄手の夜着を羽織った、美しい女性がベッドの横に楚々と佇んでいる。オーギュストが不機嫌そうに顔を歪ませていると、やや緊張したように挨拶をした。
「くそっ。ベアトリックス、水」
 舌打ちして、ベッドに腰を下ろす。そして、サイドテーブル上の錠剤に手を伸ばした。
「はい」
 透かさず、ベアトリックスは水差しからグラスに水を注いで手渡す。それを、無言で受け取って、錠剤を胃に流し込む。それから、ベアトリックスは心得たように跪いて、硬い軍靴を脱がすると、手早く片付ける。
「来い」
 オーギュストはベッドに仰向けになると、ベアトリックスを手招きした。
「はい」
 ベアトリックスは自分でも驚くほど従順に、返事している。超エリートである自分が、男の帰りをじっと待ち、その言われるままに、甲斐甲斐しく世話をする日が来るとは、想ってもいなかった。
「失礼致します……」
 薄手の夜着を脱いで全裸になると、ベッドの上に上がる。そして、手馴れた手付きで、腰のベルトを弛めて、スラックスとパンツをさらりと脱がす。そして、現れたペニスを何の躊躇もなく口に含んだ。
「んっ……」
 先端をペロペロと舐めてから、丁寧に溝をなぞり、それから、深く加えて唇で優しく挟む。
「んんっ……」
 口の中で、強度を増すペニスを舌で感じる。それは紛れもない男の満足感の証であろう。そう想うと、人知れず愉悦を覚える。もっともっと快楽を与えたいと、真剣に口唇奉仕にのめり込んでいく。
「んっん……」
 激しく顔を前後に振り、根元から先端までをしごく。その間にも、舌を這わせて、覚えた急所を的確に刺激していく。口内一杯のペニスがぴくぴくと蠢くと、顔全体に恍惚とした法悦の輝きを浮かべた。
「いやらしい顔だな。え? 男爵家令嬢様」
 オーギュストが言った。
 上から見下ろすと、揺れるクリーム色の前髪から覗ける、白い額、その下の綺麗に整えられた細い線の眉、そして、ツンと通った高い鼻が、余りにも絶景で、男の嗜虐心を擽[くすぐ]らせる。
「目を開けろ」
 咥えたまま、ベアトリックスは瞳を見上げる。目尻の上がったきつめの目は、すっかり蕩けて、虚ろに揺らいでいる。
「フリッシュ男爵家ベアトリックスお嬢様は、つつしみというものがないのですか?」
 オーギュストがぐいと髪を掴む。
「も、申し訳ございません……御主人様のオチンチンがあまりに美味しかったもので……」
 真赤に上気したい美貌を上げて、ベアトリックスは、被虐の感情が滲んだ声をもらす。
「正真正銘の淫売ですねぇ、ベアトリックス様は?」
「はい、私(わたくし)は変態、ド淫乱の雌奴隷です……。どうぞ、お情けを下さい……」
 悦楽に震える声で言ってしまう。
――ああ……ぞくぞくする……
 と、今までに経験した事のない、深い官能のうねりが押し寄せて、理性も矜持も、何もかも呑み込んでしまう。
「ああ、私(わたくし)のオマンコを慰めてください。もう我慢できません……」
「よし、跨れ」
「はい」
 褒められた犬のように嬉々として、ベアトリックスはオーギュストの腰の上に腰を降ろしていく。
「ああっ、ああ~~~~~~」
 串刺しにされる感覚に身悶え、狂おしい甘美感に酔いしれて、ベアトリックスは喘ぎまくった。


【7月初旬、マーキュリー要塞】
 ティルローズの第二陣が、リューフの第一陣よりも早く要塞に到着した。彼女の意気込みが良く分かる行軍速度であるが、甘水峠からの街道が、アルティガルドの敗走兵で溢れていたのも、大きな理由の一つであろう。
 この時のオーギュストは徹底していた。
 まず、ティルローズの使者が、先行して到着すると、オーギュストは御殿玄関まで出迎えた。そして、ティルローズ本人が到着した際には、大手門まで出て、姿が見えないうちから平伏して待った。
「おい、あのディーン将軍が頭を下げてるぞ?」
「誰が来るんだ?」
「サリスの王女様だ」
「へぇー」
 そんなオーギュストの態度に、マーキュリー要塞中の全将兵が驚愕した。そして、ティルローズ大公妃の権威を、再確認する。

 ぞくぞくと集結する軍勢に、マーキュリー要塞は活気付いていた。その中で、出陣の準備が着実に進められていく。
「部隊の編成はどうした?」
「そんな事より、噂を聞きました。どう言う事ですか?」
 御殿の渡り廊下を歩くオーギュストを、ロベール・デ・ルグランジェ威東将軍が、詰問口調で追い掛ける。
「何が?」
 先を急ぐオーギュストは、止まりも振り返りもせず言う。
「和平協定ですよ。このまま終わりなん……」
「ない」
 きっぱり、オーギュストは断言した。しかし、ルグランジェの顔は些かも晴れない。
「しかし、協定が結ばれた、と聞いたが……」
「協定破りの悪名を恐れるぐらい、可愛げがあるのなら、誰も苦労しやしない」
「あ、なるほど」
「分かったら、さっさと出陣の準備をしろ。奴等の自爆を逆手に取るぞ」
 オーギュストは手を払って、追い返そうとする。
 だが、ルグランジェはまだ引き下がらない。一度咳払いして、それから、表情を好戦的に輝かせた。
「ならば、是非俺を先鋒に!」
「ああ、分かっている」
 もう一度、オーギュストは追っ払うように答えた。今度は、ルグランジェも満足したらしく、「きっとですよ」と満願の笑顔で言って、ようやく足を止めた。

 オーギュストは昭君館の玄関をくぐる。ヴィルヘルム1世が明け渡した昭君館は、今度はティルローズの物となっていた。
 館中央の大階段を上って行くと、ティルローズに同行して来た侍女たちが、荷物を運び入れたり、また、ヴィルヘルム1世の忘れ物を運び出したりと、慌ただしく動き回っている。
 その侍女達をすり抜けて、殺風景な謁見室に入る。
「閣下」
 呼ばれて振り返ると、刀根留理子がいた。
「愚弟の件、心より感謝致します――」
 正式な所作で平伏する。その斜め後ろには、弟の小次郎も真似をしている。
「これよりは、及ばずながら姉弟ともども、忠誠を誓い申し上げます」
 言葉は丁寧だが、声の中に不信感が滲んでいるようだった。
「ああ、期待している――」
 オーギュストは腰を屈めると、留理子の耳元で囁く。
「シデに館も与えた。これからはシデの人間として、根を降ろせ」
「はっ」
「姉は中尉、弟は伍長とする。何れは、お前達に情報部を任せよう」
 徐に立ち上がると、小次郎を見た。
「まずは、カッシー付近に布陣する、オルレラン公国軍のルカ・ベルティーニ将軍に伝言を頼む」
「畏まりました」
「餌兵をば食うこと勿れ」
「はぁ?」
「言えば分かる」
「はい」
 訝しがる小次郎を、留理子が諌め、すぐに返事し直した。
 オーギュストは薄く笑って、それから「人払いだ」と、ティルローズの部屋へと歩き出した。

 ティルローズは寝室に附随するウォーキングクロゼットに、白亜の鎧、赤い鞘のレイピア、赤い羽根付き帽、赤いマントなどを収めていた。
「軽率だな。君が出てくる必要はなかった」
 クロゼットの入口に立って、オーギュストが言う。
「これは、私達家族の問題よ。セリムは必ず私が討つ」
 凛とした、硬い決意に漲った声である。
「よく、ナルセスが認めたものだ」
「さあ、貴方が逃げ出さないように、人身御供じゃないの?」
「なんや、それ」
 ふっ、とオーギュストは失笑する。
「さあ、貴方のお気に入りの彼女が、そんな事言ってただけよ」
 ティルローズが首を傾けて、意味深に言う。それに、オーギュストは瞳を左右に忙しく動かして、「あ、綺麗な装飾だな」と棚の武具を興味ありげに触り出す。
「どうなの?」
 ティルローズはそんなオーギュストをじっと見詰めて、今度は本気で訊いた。
 オーギュストは手を上げて「降参」と告げる。
「まぁ正直、考えなかった訳じゃない。魅力的な作戦ではある訳だし、でも、それほど深く試行した訳じゃない」
「本当に?」
「ああ、俺は黒髪黒服の魔女を追っているが、それだけじゃない」
「じゃ何?」
 オーギュストは顔をティルローズに近付ける。もうティルローズの瞳は、次の言葉を期待して待っている。
「君のため。約束だろ?」
「そうだったかしら?」
「不履行は許さない」
 唇と唇がぴったりと重なり、オーギュストが荒々しく舌先を押し込んでいく。
 ティルローズも口を開いて、積極的に舌を絡めていく。
 濃厚なディープキスに、二人は、精神的な繋がりを深くするような気がしていた。それは、まるで歌のメロディーと歌詞のように結び付き、関連し合い、互いの存在価値を高めていくようだった。
「う……あぁ……」
 ティルローズは瞼を閉じて、鼻から甘い吐息をもらす。
 オーギュストは絡んだ舌を解いて、ティルの唇を、頬を啄ばみ、溢れ交じり合った二人の唾液を吸い取っていく。
 その軽いキスを連続に、ティルローズはSEXを連想した。まるで秘唇を弄られているようである。そして、そんな錯覚だけで、ティルローズの下腹部は熱く渦巻いて、もどかしさに腰が蠢く。
「う……んぅ……」
 息苦しいほどの昂奮に、唸り声がもれる。胸の奥底から、淫らな熱情が溢れ出て、身体中を汚染していくようだった。
 オーギュストの手が、ティルローズの美しい身体の隅々を這い回る。乳ぶさは、小振りだがツンと上を向いて、美しい形をしている。それを優しく丁寧に、時に、強く早く、微妙に変化をつけて揉みほぐしていく。掌の中で、白桃のような乳ぶさが、千変万化に歪む。
「美しい……」
 思わず、オーギュストが呟く。
 腰まで伸びている黄金の髪は、白いシーツの上に、扇状に広がって、ランプの淡い光に揺らめいている。それはドネール湾で見た、黄昏時の金波を連想された。その金糸の海の中に、うっすらと汗をかいて、火照ったティルローズの雪肌の裸体が、まるで漂っているように見える。
 芸術的な美に誘われて、頬、喉、そして、二つの胸の膨らみに、熱い想いを刻み込むように、激しく口付けを繰り返す。
「うっ……はぁ……あんん」
 ティルローズの唇から、甘い吐息が断続的溢れ出る。唇が触れた箇所から広がる情炎の波動に、もう耐えようがない。あられもない声に合わせて、オーギュストの腕の中で、裸体を淫靡にくねらせる。
 オーギュストは本能の赴くまま、さらに攻め立てていく。片方の乳ぶさを揉みながら、もう一方の乳首を口に含む。そして、舌を押し付けて舐め弾き、甘噛みして吸い上げる。
 この胸への愛撫で生まれた快感は、ティルローズの下半身を直に直撃して、クリトリスを固く、秘唇を熱く蒸らしていく。
「はぁーーッ、はぁーーッ」
 ティルローズは、酸欠のように口を大きく開いて、荒々しく震わす。
 そんな反応に頃合と、オーギュストは右足を、ティルローズの脚の間に割り込ませていく。すでに肢体の力が抜け落ちていたティルローズは、全くの無抵抗で股間を開かされた。そして、無防備となった秘唇に、オーギュストの手が忍び寄る。
「はぁーーッ、ひっぃ!!」
 二つの乳首とクリトリスの三箇所の急所を同時に攻められて、ティルローズは忘我の境を彷徨う。
「あっ……くっうぅぅ!!」
 オーギュストは、ぐちゃぐちゃと濡れた秘肉をかき混ぜながら、ティルローズの顔を改めて覗き見る。
 白く長い首から、突き上げられた細い顎、そして、ツンと高く通った鼻が、見事な気品に満ちている。また、指の与える快楽に反応して、時に眉を開き、時に鋭い縦皺を作る。そんな陥落寸前のティルローズは、本当に可愛らしい。
「もっともっと気持ちよくさせて、もっともっと可愛くしてやりたい……」
 そして、愛欲に駆り立てられるままに、オーギュストは無我夢中で愛撫に耽る。
「ああ……熱い…熱くてたまらない……」
 鼻にかかった甘ったるい声が、可憐な唇からもれる。火の付いた秘肉は、滾るマグマの如く、ティルローズの肉体と精神を翻弄していた。
「イクッ! イッちゃうッ! あああっ、イックゥ~ッ!」
 二つの膨らみから、細くくびれた腰、美尻、美脚にかけての優美な曲線を、激しく痙攣させて、絶頂へと駆け上がっていく。
 エクスタシーの余韻に浸る間もなく、オーギュストはティルローズの両足首を掴み、大きく弧を描くように、身体を折り畳んだ。腰は持ち上げられ、無防備にも秘唇は天井へと剥き出しになる。そして、秘唇は押し開かれて、淫香をたっぷりと振り撒く。
「あ…あぁ……」
 その惨めな格好に、ティルローズは弱々しい声を出す。凛々しい美貌が、甘え泣いた顔に崩れていた。オーギュストによって開発され、快楽を知り尽くした精神は、その清楚な装いとは違い、一度絶頂を迎えると、堰きを切ったように肉欲に押し流されてしまう。
「うっ、あうぅぅ……」
 幼い表情で、瞳を潤ませながら泣き悶える。ティルローズは、すっかり甘ったるい子猫のような仕草に変貌していた。
「ぁ……そ、そこッ、気持ちいい~~ィ」
 蒼い瞳には、淡い金色の繁み越しに、潤んだ肉唇に唇を押し付けるオーギュストの姿が写っている。オーギュストの舌先が肉襞をペチャペチャと卑猥な音をたてて這い回ると、淫靡に喘いだ。
「ぃぃ……あっあっあっあっ……イイっ!!」
 オーギュストは舌先でクリトリスを跳ね上げ、小刻みに左右に動き、音をたてて吸う。
 ティルローズは腰を小刻みに揺らしながら、秘唇から愛液が垂らし、アナルまでもじっくりと濡らしていく。
「んっ……ぐっ……ぁあっ!!」
 その眩むような快感に、ティルローズはすすり泣きながら、首を激しく振る。鈍い光に照らされて、黄金の髪がサラサラと擦れ鳴った。
「も、も、もう、だ、ダメっーーぇ!!」
 2度目の絶頂がティルローズを包み込んでいく。めくるめくる官能の渦に呑み込まれて、もう完全に自分を見失っている。
「ああ~ン、早くぅ~、早く突いてぇ~~」
 半開きの口からは、荒い息と涎を滴らせ、瞳は焦点を失い、宙を徘徊{さまよ}う。そして、頭の中は真白に染まり、もう自分が何を言っているのか、理解できていない。
「あ~ン、うれしいぃ~~~ぃ」
 糸の切れた人形のようになったティルローズの脚を、オーギュストが抱きかかえる。と、ティルローズは少女のような純な瞳で、舌足らずの声を出す。
 或いは、貴い皇女として生まれ、毅然と生きる事を宿命付けられた、ティルローズという女の素の姿なのかもしれない。
「ひ、一つになりましょ……」
「ああ」
 正常位の姿勢で、オーギュストが一気に根元までペニスを打ち込む。膣奥から無限と思われるほど湧き出した粘液が、侵入してくる男根に絡みつき、ぬるっと根元まで呑み込んでいく。そして、弾力のある秘肉が、万遍無く、軽く手を握り締めたように、締め付けてくる。
「んっ、んっ、んっ、んっ」
 ティルローズは小鼻を広げて、リズムを刻むように喘ぐ。
 だが、より快楽を得ようと、腰を振りたてた瞬間、オーギュストがペニスを引き抜いていく。
「ど、どうして……?」
 ティルローズは、咄嗟に、腰を突き出していた。そして、潤んで切なげな眼差しを向ける。オーギュストはまるで悪魔のような顔をして、焦らしている。それが分かりながらも、催促せずにはいられない。
「お願い……して、オマンコして……」
 一度淫語をもらすと、もう歯止めが利かなかった。
「もっと! もっと突いて! オマンコいいのお!! オマンコいい!! もっとオマンコ突きまくって!!」
 卑猥な単語を連発して、喘ぎまくる。
 オーギュストはティルローズの首に腕を回して、反動で身体が逃げないように押さえ込む。そして、より強く、より深く、より速く、打ち込んでいく。その一撃一撃に、ティルの神経を妬き焦がれた。
「あひぃっ…んッ…あぁ~~そ、そこッ!」
 心地好い一体感に感極まると、ティルローズは恍惚の表情で悶え絶叫する。
「あ、ああん、最高ォオオ……オマ○コイイ……だめょ~もうぉ~だめ~ぇ!!…」
 そして、美乳を弾ませ、細い腰を浮かすと、背を反り返らせる。
「イクッ! イッちゃうッ! あああっ、イックゥ~ッ!」
 全身を数回痙攣させると、歓喜の声を発して、喜悦の頂点へと達した。


【7月中旬、カッシー】
 グレヴィ出城から、アウツシュタイン少佐が出た。
 ほぼ同時刻、山中に蓄えられていた物資を、オルレラン軍のベルティーニ将軍が勝手に持ち出す。そればかりでなく、カッシーに残された兵糧のほとんどが、ベルティーニによって集められて、ゆっくりとセリアへと運ばれて行く。
 これに、シェルメール軍の将兵が色めき立った。
「協定では、あれは我らの物だ!」
「おお、奪い返すぞ!」
 現実問題として、シェルメール軍の物資は不足していた。期待{あて}にしていただけに、怒りも大きい。一部の将兵が争うように出陣した。
 騎兵に追われて、ベルティーニは必死に逃げた。しかし、荷車が一台また一台と、脱落して、それにシェルメール騎兵が群がる。瞬く間に奪い尽くすと、次の獲物へと襲い掛かる。次第に、騎兵の数は増えていった。
 そして、アルサス・ラーンは一網打尽にしようと、ベルティーニの前へ、特に速い騎兵を先回りさせた。ついに、ベルティーニは包囲されて、全物資を放置して敗走する。
 そこはカッシーの外れ、擂鉢の縁付近である。
 元々カッシーは沼地で、度重なる干拓によって、広大な農地に生まれ変わっている。今でも周囲の土地に対して僅かに低く、薄いすり鉢のような形状をしていた。

「まるで、飴に群がる蟻だな」
 オーギュストが笑う。
「左様ですな」
 それにパスカルが冷笑して答えた。

 それに気付いたのは、ほんの僅かだったろう。ほとんどの兵は、略奪に夢中になっていて、その手先ばかりに集中していた。
 そして、その時が来た。
 空は一瞬で黒い翳り、ざざっざ、と雨の叩くような音がした。
「何だ?」
 一人の兵が、怪しい気配に感付いて顔を上げた。と、強い衝撃を受けて、暫し記憶が断たれる。再び意識を取り戻した時には、目の前に大地があり、真赤な湖面に僚友が沈んでいた。
「敵襲」
 遠くで、ぼんやりとした声が聞こえた。だが、もうどうでもよかった。次第に、視界一面の赤は薄らいで、周囲の闇とどうかしていく。最後に草原の風の香りを感じたような気がした。
「ええぃ、謀られたか!?」
 アルサス・ラーンが血の出るような声で叫ぶ。
 シェルメール軍は完全に包囲されていた。そして、高所にずらりと並んだ、連弩からの高密度一斉射撃によって、騎乗する間さえも与えられず、バタバタと射殺されている。それは戦いというより、一方的な虐殺に近かい。
「逃げよ!」
 もうそれしか言葉はなかった。

「撃ち方止めぇ!」
 パスカルの声で、うるさく唸り声を上げていた連弩が一声に静まる。金属部分は熱くなって、湯気を上げていた。
「……凄い……」
 目の前に転がる、数千のシェルメール騎兵の屍に、ティルローズは言葉を失い、椅子に崩れるように座る。彼女は本陣の中にいた。四方にサリスとシデの旗が交互に並んでいる。大丈夫か、と声がした。顔を上げると、オーギュストと緒将が、彼女を横目で見ている。ありったけの勝気をかき集めて、小刻みに首を縦に振る。
「各隊、残存矢はほとんどありません」
 パスカルが、各部隊からの報告をまとめる。
「承知」
 オーギュストが力強く頷いた。全ての矢を討ち尽くしても、些かも動揺していない。
 セリム1世が、決戦の決め手とするのは、シェルメール騎馬の突撃であろう。同様に、シデ大公国軍にとっては、このパスカル指揮の連弩である。序盤で、その切札を相殺してしまう。それが、オーギュストの秘策だった。
「来ましたぁ! カリハバール本隊です」
 ロックハートが望遠鏡を覗いて絶叫する。総参謀府副長として、オーギュストの補佐を命じられていた。
「左翼アレックス、中央リューフ、右翼スピノザ(実質ヴィユヌーヴ)。遊撃部隊として、ルグランジェ、ディートリッシュ、カザルスは待機」
 オ―ギュストは諸将の前で陣構えを説明する。
 この中に、ペルレス・ド・カーティス羽林将軍、シド・ド・クレーザー武衛将軍、ミッチェル牙門将軍の三将の姿があった。彼等も、カリハバールとの決戦に期するものがあり、ポーゼン伯国から離反して、駆け付けていた。
 オーギュストは彼等の参加に、ただ一つ「黙って俺に従え」と条件を出した。それにペルレスは、「大事の前の小事」と答えただけであった。
「カリハバール軍と最も長く戦ってきたのは、我らサリスである。この国を、我々の手だけで取り戻す――」
 敗残兵の辛酸をなめたのは何の為か?
 カナン半島の泥水を啜ったのは何の為か?
 アーカスで、セレーネ半島で、死線を越えたは何の為か?
 オーギュストの問う声が、全将兵の心を打つ。
「全てはこの一戦にあり。再びサリスの旗を掲げんが為、諸君の奮戦に期待する」
「おお!!」
 歓声が起こり、鎧や武具を叩く音が鳴り響く。

「決戦ぞ!!」
 セリム1世が喚く。
「サリスの残党どもは、協約を破って、剣の道を選んだ。これは朕への挑戦状であり、かつ、罠への誘いである。だが敢えて朕はこの誘いにのる。サリスの名を永遠に消し去る為、我が武勇伝の1ペ―ジに刻み込む為、そして、エリーシア統一の偉業の為に!」
「セリム1世陛下に栄光あれ!!」
 将兵はガシャガシャと武具を叩き、自らを鼓舞する。
「右翼にアサド・ジュス。左翼はレイス。中央は余が預かる。先鋒はバヤジット。思い残すことなく、働け」

 カリハバール軍2万8千。シデ大公国軍は2万6千。これが東西に布陣した。
 元々、和平協定成立でカリハバール軍とアルティガルドは、所定の位置まで退却する事になっていた。しかし、セリム1世は初めから、退却と見せて、油断したアルティガルド兵へ奇襲を掛けるつもりでいた。ところが、シェルメール軍が、毒の餌に誘い出されてしまう。見過ごす事も出来ず、また戦力の逐次投入も出来ない。ついに決戦を決意した。
 カリハバール軍はセリム1世を中心に鶴翼に広がる。一切の余裕を持たず、全軍をもって、全戦線でシデを圧倒する、英雄ならでは気概であろう。
 シデ大公国軍は、前線を同様に広げたが、本陣を後方に置き、さらに、遊撃部隊を用意して陣形に厚みと柔軟さを持たせた。
 こうして、北から、スピノザ対レイス、リューフ対セリム1世、アレックス対ジュスが対峙する形になった。

 両軍の戦意が昂揚すると、互いの先鋒が前に出た。シデ側がルグランジェ、カリハバール側はバヤジットである。
 瞬く間に二人の距離が縮まり、矢の届く範囲から、槍の届く差となる。それでも、互いに一切声を張らず、一触即発の臨戦態勢のまま睨み合う。
 ついにすれ違う。
 それから、まるで絡むように、両軍の中央で回り始めた。否応なく、空気が凍るような緊張感が、戦場に広がっていく。
 そして、カリハバール側から銅鑼が鳴り、シデ側からラッパが吹かれた。バヤジットとルグランジェは、さっと弾かれたように左右に離れて、自軍へと下がる。
 もうすでに、両軍の歩兵は間近に迫っていた。鏡写しのように両軍は、天へ長槍を掲げて、奇声とともに一斉に振り落とす。槍と槍は、火花を散らして叩き合った。
 激しい戦いである。一部が押せば、一部が下がる。整然と並んだ二つの線が、煽動して蛇行していく。

「損害は、全くの互角です」
 ロックハートが報告する。前線に投入している兵力は、カリハバール軍のほうが多い。このままでは、いつか潰れてしまうだろう。そんな危惧が、声に含まれていた。
「アレックスは元気だな」
 オーギュストはランが運んで来たコーヒーを啜って、ぼんやりした声で言う。
 これに、ロックハートは素早く自軍左翼を凝視する。数で劣勢なアレックス軍だが、ジュス軍に対して、攻勢に転じている。
「なるほど。では、リューフ隊を下げて効果的に……」
「いや、即効を求めるのは危険だ。相手はセリム。リューフといえども、隙を見せれば、どうなるか分からん。待とうではないか」
「はっ」
 二人の会話に、周りは呆然としている。

 激戦が一時間続いた。この間、戦況は刻一刻と動いている。
 左翼アレックスはジュス軍を押し込み、リューフはセリム1世にジリジリ押されていた。そして、実質右翼を指揮するヴィユヌーヴは、レイスと互角に渡りあって、一進一退の攻防を繰り返している。
「総参謀長」
「ああ、今だ」
 ロックハートに促されて、オーギュストが叫ぶ。
「ルグランジェ、左中間へ押し出して、敵を分断せよ」
「はっ」
 ルグランジェが勇んで動き出す。そこに透かさずロックハートが駆け寄って、「カリハバール軍は陣形が薄い。一旦分断してしまえば、後方へ兵を送り込んで、挟撃できるだろう」と作戦意図を説明した。

「甘いな」
 だが、猛進するルグランジェを、セリム1世の中央軍から離れた、バヤジットが迎撃する。両軍は狭い戦域で細い矢先のようにぶつかり合う。
「この程度か?」
 そして、セリム1世が不敵に笑った。

 ルグランジェとバヤジットは激しく戦い、徐々に乱戦へと縺れていく。
 これを見て、これ以上の攻撃は実を得ないと、オーギュストはルグランジェを呼び戻す。そして、それに合わせたように、バヤジットもセリム1世の元へ帰還する。
「敵はこちらの攻めが途切れるのを待つつもりだろう。底が見えた。今度はこちらから行くぞ」
 バヤジットは全身に鳥肌が立つのを感じていた。

 突如、セリム1世の中央軍が大攻勢に出た。
 リューフは「まだこんな余力があったのか」と唸る。そして、この圧迫に支え切れず、止むを得ず後退した。
 オーギュストは遊撃部隊のカザルスに、リューフの支援を命じた。先ほどルグランジェが進撃したと同じ、アレックスとリューフの間である。しかし、以前よりも、ジュスとセリム1世の間に段差が広がっている。上手く行けば、突出したセリム1世の側面を突く事が出来るだろう。
 だが、セリム1世の中央軍が急に矛先を変えて、北側のレイス×スピノザ戦線の方へ流れた。そして、これに応じて、ジュス軍が左に傾いて、アレックス、カザルス、リューフを単独で相手し始める。
「バヤジットよ、戦場全体を見よ」
「え?」
「アレックス軍は猛勢、リューフは必死、だが、スピノザは消極的だ」
「はぁ?」
「指揮官の心の何処かに、雇われ仕事という想いがあるのだろう。レイスは巧く歩調を合わせて、兵を休ませている。ここから崩すぞ」
「はっ」
 
 スピノザ軍に、カリハバール軍の三分の二が集中する。
「怯むな!」
 フリオが叱咤し、
「セリム1世は目の前ぞ。討って、第一の軍功とせよ!」
 ヴィユヌーヴが鼓舞する。
 しかし、英雄に率いられた軍勢は強い。その圧倒的破壊力の前に、抵抗はただ虚しいだけに想えた。

「無謀な賭けに出ましたな……」
 ロックハートが息を呑む。無謀というには、余りも威風堂々としていた。
「自分に自信があるのだろう。知っているか?」
 オーギュストの問いかけに、ロックハートは視線を向ける。
「セリムは竜に素手で立ち向かい、海を歩いて渡った事があるそうだ」
「荒唐無稽……と言いたいところですが、奴の存在を感じて、体の震えが止まりません」
 言うと、袖をまくる。腕に鳥肌の立っている。
 オーギュストは乾いた笑いを見せる。
「お前ほどの男にプレッシャーを掛ける、セリムか。さて、顔を見てみたいものだ」
「……」
 不敵である。ふいにロックハートは、自分がこの場に立っている事が不思議に思えてきた。
「さて、英雄退治と行こうか」
「はい」
 ロックハートが頷く。もしオーギュストが傍らにいなければ、とっくに逃げ出していたであろう。堅物なだけが取り柄で、世渡り下手な自分が、歴史の本流、栄光の道を歩もうとしている。何やら、こそばゆい思いがした。
「スピノザ軍が持ち堪えれば、アレックス、リューフの両軍でジュス軍を破り、セリムを完全に包囲出来ます。直ちに援軍を」
 そして、昂揚した声で進言する。
「フリオを助ける。ファンダイク、出陣するぞ」
 直属の部下に声をかけて、オーギュストは黄金の兜を被る。
「ロックハートとディートリッシュは、ティルローズ様をお守りしろ。ペルレス、ミッチェル、クレーザーは俺に続け。セリムの首を取るぞ」
「おお!!」
 待ちに待った言葉に、ペルレス達の血が滾った。
 いよいよ戦局は山場を迎えようとしていた。もはや雌雄を決する瞬間は近い。

「騎兵突撃!」
 極力騎兵を休ませていたレイスは、気迫の篭った声で命じる。
「命を惜しむな! 名こそ惜しめ!!」
 必死の形相で、ヴィユヌーヴも大声疾呼する。そして、殺到するカリハバール騎兵へ槍衾を形成して、その後方から矢を射掛けた。
 しかし、竜の鱗に守れた騎士団は、飛び交う矢も恐れず、居並ぶ槍の壁に果敢に飛び込んでいく。
 カリハバール騎兵は3騎を一組にしていた。そして、互いを鎖で繋いで、大きな杭を2本運んでいる。この破壊力は絶大なものがあった。槍より長く太い杭は、槍衾など物ともせず兵を蹴散らしていく。瞬く間に、スピノザ軍の防衛戦は瓦解した。
「逃げるな! 戦え!!」
 ヴィユヌーヴが左右へ絶叫する。が、武器を捨てて逃亡する兵を押し留めることが出来ない。
「来た……」
「え?」
 フリオが凍えた声で囁く。と、蒼白の表情で、ヴィユヌーヴが正面を向く。カリハバール騎兵が怒涛の如く流れ込んで来る。眼前に迫っているのは、死の予感そのものであった。声は奪われ、小指一本動かず事が出来ない。死の恐怖が二人を縛り付ける。
 このまま騎馬の群れに呑み込まれる、と想った時、側面から矢が飛んだ。そして、フリオの前に、白亜の鎧の一団が割り込む。
「ぼやぼやするな!!」
 オーギュストの喝で、金縛りが解ける。
「ここは俺たちが喰い止める。その間に軍勢を立て直せ。聞こえているか!?」
「あ、は、はい……」 
 フリオは如何にか返事できた。
「よし」
 オーギュストはもうフリオを見ていない。無駄のない手際で矢を番えると、視線をレイス軍騎兵へと向ける。
 カリハバール軍は横撃を受けて混乱したが、レイスが先頭に立って、忽ち立て直していく。
「我に続け!!」
 レイスは剣を突き出して突進する。一騎とすれ違った。次の瞬間、白亜の騎士の体に、複数の亀裂が走り、八つ裂きに砕け散った。
「聖騎士何するものぞ! 突き崩せ!!」
 レイスの動きは止まらない。さらに、白亜の鎧の中へと、強引に飛び込む。ただ彼らの間を走り抜けただけのように見えたが、やはり彼らの体はずたずたに崩れ落ちる。
 覇西流“聖獄の衝”
 レイスの剣は、初動の僅かな動きで真空波を作り出す。そして、そのダイナミックな体術で、走る真空波を剣先が抜き去る。その際、真空波は複雑に変化して、敵を豪快に破壊する。
「尋常に、尋常に勝負!」
「ふん、雑魚がぁ!!」
 ミッチェルが一騎打ちを挑んだが、成す術なく、斬り倒される。
「次は!」
 レイスはオーギュスト目掛けて駆ける。
 オーギュストは矢を連射した。レイスを避ければ、背後のフリオが死ぬ。
 レイスは左手の小型のシールドで、矢を受け止めた。そして、至近距離に迫ると、そのシールドを投げ捨て、馬上から飛び上がって、オーギュストに斬りかかる。
「でぇええぇぇいっ!」
「ちぃ」
 オーギュストは咄嗟に弓で防ぎ、そして、後方へと飛び降りた。地に降りると、片手剣を二本抜き、中段に構える。
「てぇぇいい!!」
 奇声とともに、レイスが突きを打つ。
 刹那、
「なっ!」
 レイスの腕が伸びきる前に、その剣先に、オーギュストの左手の剣先が衝突する。全くの狂いもなく先端と先端がぴったりと合致して、レイスの剣圧が完全に殺された。
 次の瞬間、
 オーギュストの剣鍔が真空波に砕けて、風の刃が篭手から肩へと走る。しかし、肉を破断する威力はない。
 そして、
 オーギュストは左手の力を抜いて剣を離す。自然、レイスは前のめりに突っ込む。
 それから、
 オーギュストは右足を大きく踏み込み、伸び切ったレイスの腕へ、右の剣を振り下ろした。
「うぐっ!」
「ちぃ」
 しかし、銀色に輝く篭手は、竜の鱗でできている。剣は食い込むだけで、切断するまでには至らない。
 レイスは呻[うめ]いて、剣を落とす。だが、同時に左拳で殴りかかっていた。
 オーギュストは腰を捻り、右足を引いて、左拳を突き出す。
 拳と拳が衝突する。今度は一方的にレイスの篭手が砕けた。オーギュストの左手には、“アキレウスの篭手(8章参照)”が嵌められていた。伝説の幻獣“アマゾオオトカゲ”の腕から造られた物で、爬虫類の肌のような模様をしている。軽くて強力な破壊力を秘め、触れた物を全て切り裂く。
 レイスは素早く後方へ飛ぶ。そして、右篭手に刺さる、オーギュストの剣を抜いて構えた。
 オーギュストは腰に巻いていた“一角鯨の髭(21章参照)”を解く。
――手強い……!
 そこで、両者は大きく息を吐きあった。
 と、その時、
「叔父様ぁ!!」
「止めろ、ターラ。お前じゃ無理だ」
 レイスとオーギュストの間に、ターラが馬で駆け込んできた。
「覚悟!」
 ターラは、馬上からオーギュストに、名剣“ダイヤモンドサーベル”を振り落とす。
 しかし、一角鯨の髭が唸り上げて伸び、瞬く間にターラを絡め縛る。
「だから、俺を舐めるな!」
 オーギュストはそのまま、ターラを落馬させた。と、オーギュストの足元に、ダイヤモンドサーベルが突き刺さる。
「今助けるぞ、ターラ」
 レイスが鋭く打ち込む。それにオーギュストは、ダイヤモンドサーベルを拾って受けた。
「でぇい!」
「やぁッ!」
 両者の打ち込みが、激しく交差する。だが、剣の性能に段違いの差があった。レイスの持つ無銘の片手剣は、接触の度に、刃が欠けてしまう。
「てぃぃぃぃえッ!」
 焦ったレイスは、強引に奥義を繰り出す。
 その瞬間、
「こんなものッ!」
 オーギュストは無謀にもアキレウスの篭手を突き出す。オーギュストも闘争心が滾っている。左腕の一本など失っても構わない心境だった。篭手は剣を掠めて、筈かにその軌道を狂わせた。だが、真空波に骨が砕ける。
 そして、
 先ほどと同じように、右足を踏み込んで、ダイヤモンドサーベルを振り落とす。確実に刃は、以前の傷を捉えて、レイスの右腕を一刀両断した。
 それから、
 オーギュストは左膝を地面に付くほど腰を沈めて、鋭く斬り上げる。一撃必殺の斬撃と、ダイヤモンドサーベルの切れ味が合わさった時、さしもの竜の鱗も防ぎきれなかった。
 レイスは、鎧の胸部を割られて、赤い血飛沫を噴出す。
――まだだ……
 薄れ行く意識の中で、脱力していく口を、思いっきり噛み締める。
――このままでは終われん……
 ブーツに隠してあったナイフを抜く。
「俺の戦いはまだ終わってはいない」
 そして、最後の力で刺し出す。
「まだ戦うつもりか……」
 手応えがあっただけに、オーギュストは驚きを隠せない。驚愕に眼を刮目{みひら}き、慌てて突きを打つ。
 二つの閃光が交差する。
 しかし、レイスのナイフはオーギュストに届かなかった。ダイヤモンドサーベルの剣先で喉を貫かれ、そのまま絶命した。
「叔父様ぁ!!」
 縛られ倒れているターラが絶叫した。

 レイスが戦死した時、そのほぼ同時間、カリハバール帝国軍の双璧と評されたジュスが、リューフの青竜偃月刀に斬り倒された。その報告を聞いて、セリム1世は「そうか」と一言呟いただけで、その後しばらく言葉を発さなかった。
 一方、オーギュストとレイスの一騎打ちを、遠くから目撃していたバヤジットは、よろけるように、2歩ほど後退した。
「何なのだ……あの能力(ちから)は? な、何? 震えているのかこの俺が……?」
 額にあふれ出る汗を拭こうと、右手を上げるが、手先が震えて思う通りに動かせない。
「勝てない……今の俺では勝てっこない……」
 震えの止まらない右腕を左で掴み、そして、愕然と呟く。内股が熱く湿っていく。

 戦況は決着を迎えようとしていた。レイスとジュスを失ったカリハバール軍の士気は、急速に減少していった。

 と、セリム1世がバヤジットの肩を掴む。
「ここまでだな……」
 呟く。
「いえ、まだまだです。敵もバラバラ――」
 バヤジットは声を絞り出す。
「一挙に敵本陣に切り込めば、勝ちます」
「勝って如何する……」
「はあ?」
「いや」
 戸惑うように聞き返したバヤジットに、セリム1世は「余とした事が」と自嘲する。
「これより、余と親衛隊は敵本陣に特攻する。その前に、各自戦線離脱命令の発光弾を上げよ」
「陛下!」
 バヤジットが、声を嗄[か]らして叫ぶ。
「無駄死をする事はない。四方に散れ!」
 そう言い残して、愛馬に腹を蹴った。
「フフフ、我が野望もここまでのようだな」
 セリム1世とその親衛隊は、一団となって、乱れたスピノザ軍の角を掠める。そして、リューフ軍の後方を駆け抜けて、シデ大公国軍の本陣に迫った。

 慌てたのは、シデ大公国軍である。ティルローズに近付けまいと、ミレーユ・ディートリッシュが出撃する。
「時間を費やせ。味方が駆け付けるまで、持ち堪えよ」
 しかし、言葉とは裏腹に、セリム1世を見付けると、自身で斬りかかって行く。
「サリスの無念、思い知れ!!」
 ミレーユの剣がセリム1世に伸びる。だが、無情にも届く前に、セリム1世の槍がミレーユの胸を貫く。
「あははは、舐めるなよ」
 セリム1世と親衛隊の突破力は凄まじく、ミレーユの部隊が瞬く間に蹴散らされた。
 本陣の緊張感がさらに高まった時、オーギュストが愛馬リトルバスタードを駆って、本陣の前に廻り込んできた。
「銀馬の黄金騎士……ディーンか?」
 自然と、セリム1世は笑った。
「あんなに若いとは……な。時代が変わったようだ……ふははは」
 セリム1世は、馬上で馬鹿笑いする。と、胸に詰ったわだかまりが吹っ切れた。
「また会おうぞ!!」
 セリム1世はそう叫んで、槍を掲げて振る。そして、手綱を引いて、馬の頭の向きを変えると、本陣の前を通り過ぎて、前進したアレックス軍の跡をまっしぐらに進んだ。それに親衛隊も続く。

 こうして、カッシーの戦いは終わった。
 シデ大公国軍では、ミッチェル牙門将軍とミレーユ・ディートリッシュ威西将軍が戦死した。そして、スピノザ軍を最後まで支えたオスカル・ド・ヴィユヌーヴが、親衛隊の流れ矢を胸に受けて、重体に陥っている。大きな損害ではあるが、目的を達した、と言えよう。
 一方、カリハバール帝国軍は、双璧のレイスとジュスが戦死した。同盟軍であるシェルメール騎馬軍も壊滅。そして、大量の将兵と物資も失った。もはや再起は不可能であろう。


【エリプス】
 カッシーの戦いは、世界中を驚かせた。
 サイアのカフカは、書類にサインしている時に報告を受け、握っていたペンを折った。
 一方、セリアのテルトレ王宮では、ヴィルヘルム1世とベレンホルストがチェスをしている時に、使者が駆け込んで来た。ヴィルヘルム1世は愕然として椅子から滑り落ち、ベレンホルストは持っていた駒を窓へ投げつけた。

 そして、エリプスでは、ミカエラとローズマリーが、“ブルボンホテル”で会っていた。白いバルコニーに青い日傘を立てて、二人は向き合っている。
「終わりましたね」
 囁いて、ローズマリーは紅茶を一口含む。
「いいえ、これからでしょう」
 ミカエラも同様にする。これから先、問題が山積みである。
 ランスとペラギアの攻略、
 アルティガルド、サイアとの対立、
 セレーネ半島の動向、
 ホーランド朝の処遇、
 ロードレスの暗躍、
 そして、バヤジットが動いた事により、パルディア王国が行動の自由を得た。必ずや中原に兵を進めて来るだろう。時代は更なる乱世に突入する。ミカエラはそう思っている。
「ミカエラ殿にはそうかもしれませんが……私(わたくし)にはもう終わりです――」
 ローズマリーは静かに瞳を閉じた。
「思えば、ペルレスやティルローズの為に、私(わたくし)は生き残ったようなものですから……」
 そんな事は、と言いかけて、ミカエラは口を噤んだ。
「私(わたくし)の弱さが、ギュスも巻き込みました……」
 ミカエラは、ただ「そうですか」と合わせる。
「あの子は、できる子ですから、私(わたくし)が望めば、どんな困難も打ち払ってくれるでしょうけど……」
 ミカエラの左の眉がピクリと上がる。
「アベールが……アベールには酷な事だったでしょう。傷付けてしまいました……」
「これから如何なさいますか?」
 敢えて、突き放すような口調をする。当初は館を用意するぐらいの気持ちはあったのだが、何故か気持ちが細波のように揺れる。
「さあ、どこか静かな所で暮らしたいわ。もうこれ以上、争いは見たくありませんから……」
「そうですか……」
 ミカエラは残っている紅茶を飲み干して、もう席を立つつもりでいる。その方が幸せであろう、と思う。この気性では、乱世を生き抜く事は出来ない。
「結局、私(わたくし)の優柔不断さが、二人の男を争わせてしまいました」
「え?」
 ティーカップを持つ手が、途中で止まった。
 ローズマリーは微笑む。
「頑張ってくれたギュスには悪いけど、会って上げる事は出来ません……」
 その微笑はいかにも儚げで、ミカエラは「あ」と口を開いた。声は出さず、口を開けたまま、呆気に取られように、ローズマリーを見詰めた。
「でも、妹たちには会って行きたいわ」
「……ですね」
 小さく頷いて、はっと「手配致します」と答える。まるで、狐に抓まれたような気分である。



続く
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Date:2011/11/14
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